水燿通信とは
目次

251号

井泉水の添削句

小浜・小豆島時代の放哉句稿から

 1996年、鎌倉の荻原海一氏(荻原井泉水長男)宅で、尾崎放哉の小浜・小豆島時代の作品2721句が収録されている句稿が見つかった。この発見によって放哉にかかわる多くの事実が明らかになったが、それまで放哉の作品と思われていたものの中に、荻原井泉水の添削の手がはいっている句が多数含まれていることが判明したことは、とくに注目すべきことであった。井泉水は句稿の中で優れていると思った作品の頭部に朱で〃を○で囲んだしるしを記し(他に〃などのしるしもある)(註)、主にそれらの句を中心にかなりの数の句を添削している。これらの大半は井泉水主宰の結社誌『層雲』に掲載され、放哉の唯一の句集である『大空』(たいくう)にも収録されている。本稿ではこの添削句を全て紹介し、それに若干の考察を加えてみたいと思う。なお放哉の句を先に記し、そのあと( )内に井泉水に添削された句を示した。句には便宜上ナンバーをつけた。
句稿1(以下句稿6まで小浜時代)
汽車通るま下た草ひく顔をあげず(背を汽車通る草ひく顔をあげず)
雑草に海光るお寺のやけ跡(雑草に海光るやけ跡)
たった一人分の米白々と洗ひあげたる(一人分の米白々と洗ひあげたる)
草をぬく泥手がかはく海風の光り(草をぬく泥手がかはく海風光り)
時計が動いて居る寺の荒れてゐること(時計が動いて居る寺の荒れてゐる)
乞食に話しかける心ある草もゆ(乞食に話しかける我となつて草もゆ)
血豆をつぶす松の葉を得物とす(血豆をつぶさう松の葉がある)
腹の臍に湯をかけて一人夜中の温泉である(臍に湯をかけて一人夜中の温泉である)
句稿2
かぎりなく蟻が出てくる蟻の穴音なく(かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく)
手作りの吹き竹で火を吹けばをこるは(手作りの吹き竹で火が起きてくる)
句稿4
豆を煮つめる一日くつくつ煮つめる(豆を煮つめる自分の一日だつた)
句稿5
銅像に悪口ついて行つてしまつたは(銅像に悪口ついて行つてしまつた)
句稿6
芹の水濁らかすもの居て澄み来る(芹の水濁らすもの居て澄み来る)
小さい橋に来て荒れとる海が見える(小さい橋に来て荒れる海が見える)
句稿7(以下、小豆島時代)
あらしが一本の柳をもみくちやにする夜明けの橋(あらしが一本の柳に夜明けの橋)
どうせ濡れてしまつたざんざんぶりの草の蛍(どうせ濡れてしまつた夜空の草の蛍)
光ること忘れて死んでしまつた蛍(蛍光らない堅くなつてゐる)
句稿8
海が少し見へる小さい窓一つもち事たる(海が少し見へる小さい窓一つもつ)
わが顔があつた小さい鏡を買うてもどつて来る(わが顔があつた小さい鏡買うてもどる)
何本もマツチの棒を消やし海風に話す(なん本もマツチの棒を消し海風に話す)
句稿9
雨の椿に下駄辷らしてたずねて来た(雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た)
わが髪の美くしさもてあまして居る(髪の美くしさもてあまして居る)
花がいろいろ咲いてみんな売られる花(花がいろいろ咲いてみんな売られる)(註)
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞(壁の新聞の女ハいつも泣いて居る)
盆休み雨となりぬ島の小さい家々(盆休み雨となりた島の小さい家々)※1
句稿12
乞食日の丸の旗の風ろしきになんでもほりこむ(乞食日の丸の旗の風ろしきもつ)
卵子二つだけ買うてもどる両方のたもと(卵子袂に一つゞゝ買うてもどる)
お祭り寐てゐる赤ン坊(お祭り赤ン坊寐てゐる)
句稿13
陽が出る前の山山濡れた烏をとばす(陽が出る前の濡れた烏とんでる)
蜥蜴の切れた尾がぴんぴんしてゐる太陽(蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽)
迷つて来たまんまの犬で居りけり(迷つて来たまんまの犬で居る)
句稿14
山の上の芋堀りに行く朝のスツトコ被(かぶ)り(山の芋堀りに行くスツトコ被り)
人間並の風邪の熱を出して居るよ(人間並の風邪の熱出して居ることよ)
朝のうちにさつさと大根の種子をまいて行ってしまつた(さつさと大根の種子まいて行つてしまつた)
酒夜となる蛙等の夜となる(酒蛙等の夜となる)※2
久し振りの雨の雨だれの音よ(久し振りの雨の雨だれの音)
都のはやりうたうたつてあめ売りに来る(都のはやりうたうたつて島のあめ売り)
句稿15
すつかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く(障子あけて置く海も暮れ切る)
窓の朝風と仲ようして居る鉢花(窓には朝風の鉢花)
句稿16
風のなかに立ち信心申して居る(風にふかれ信心申して居る)
母子暮しの小さい家であつた(小さい家で母と子とゐる)
淋しいから寐てしまをう(淋しい寐る本がない)
句稿17
お粥をすゝる音のふたをする(お粥煮えてくる音の鍋ふた)
一つ二つ蛍見てたずね来りし(一つ二つ蛍見てたづぬる家)
早さとぶ小鳥見て山路を行く(早さとぶ小鳥見て山路行く)
草花たくさん咲いて児等が留守番してゐる(草花たくさん咲いて児が留守番してゐる)
爪切つたゆびが十本眼の前にある(爪切つたゆびが十本ある)※3
来る船来る船に島一つ座れり(来る船来る船に一つの島)
句稿18
夜の木の肌に手を添えて待つてゐる(夜の木の肌に手を添へて待つ)
秋陽さす石の上に脊の児を下ろす(秋日さす石の上に脊の子を下ろす)
家うちに居て芒が枯れ行く(こもり居て芒が枯れ行く)
浮草とて小さい風の花咲かせ(浮草風に小さい花咲かせ)
障子の穴から覗いても見る留守である(障子の穴から覗いて見ても留守である)
句稿19
口あけぬ蜆淋しや(口あけぬ蜆死んでゐる)
句稿20
流れに沿ひ一日歩いてとまる(流れに沿うて歩いてとまる)
句稿21
麦がすつかり蒔かれた庵のぐるりは(麦がすつかり蒔かれた庵のぐるり)
句稿22
ゆうべ杓の底がぬけた今朝になつて居た(ゆうべ底がぬけた柄杓で朝)
句稿23
風落ちしより落つる松の葉(風凪いでより落つる松の葉)
雪の頭巾の眼を知つとる(雪の頭巾の眼を知つてる)
自分ばかりの道の冬の石橋(自分が通つたゞけの冬ざれの石橋)
句稿24
今朝の霜濃し先生として出かける(今朝の霜濃し先生として行く)
句稿25
寒なぎの船帆を下ろし帆柱(寒なぎの帆を下ろし帆柱)
松かさそつくり火になつた冬朝(松かさそつくり火になつた)
句稿27
こはれた火鉢でも元日の餅がやける(こはれた火鉢で元日の餅がやける)
冬川せつせと洗濯しとる(冬川せつせと洗濯してゐる)
句稿28
昔しは海であつたと榾をくべる(昔は海であつたと榾をくべる)
わが家の前の冬木二三本(わが家の冬木二三本)
句稿29
夜釣りからもどつたこんな小さい舟だ(夜釣りから明けてもどつた小さい舟だ)
風吹く道のめくらなりけり(風吹く道のめくら)
夫婦で相談してる旅人とし(旅人夫婦で相談してゐる)
句稿30
絵のうまい児が遊びに来て居るよ(絵の書きたい児が遊びに来て居る)
句稿31
大晦日暮れた掛取も来てくれぬ(掛取りも来てくれぬ大晦日も独り)
雪積もる夜の燃え座はるランプ(雪積もる夜のランプ)
山奥木引き男の子連れたり(山奥の木引きと其男の子)
夕空見てから晩めしにする(夕空見てから夜食の箸とる)
明け方ひそかなる波よせ(ひそかに波よせ明けてゐる)
※1筑摩書房刊『放哉全集』では「なりた」は「なつた」ではないかとしている。
※2『放哉全集』では「酒」は「雨」の誤りではないかとしている。
※3放哉は「爪」を「瓜」と誤記しており、井泉水にしばしば訂正されている。
添削のやり方 この句稿における荻原井泉水の添削のやり方を見てみると、@文字遣い、送り仮名の不自然なものを推敲したもの、A放哉独特の言い癖を正したもの、B語句を削ったり別の語に変えたりしたもの、C詠まれた題材を使って全く異なる句に変えたものの四つの型に大別できると思う。@は〈昔し〉が〈昔〉に変えられたところなど(28の1。前の数字は句稿の番号、後の数字は句の頭に付された番号。以下同じ)。添削はされていないが〈は入る〉〈ま下た〉などの表記例もある。Aは〈荒れとる〉→〈荒れる〉(6の2)、〈消やし〉→〈消し〉(8の3)、〈知つとる〉→〈知つてる〉(23の2)など。添削はされていないが〈なつとる〉〈食べとる〉などの表記例もある。鳥取地方の方言でも関係しているのだろうか。
本来の意味での添削を受けた句 これら@Aに対して、より重要と思われるのはB語句を削ったり別の文字に変えたりした本来の意味での添削を施したものである。これには1の3、8の1、9の2、13の3、14の5、16の1、17の5、20の1、29の1などがある。
〈久し振りの雨の雨だれの音よ〉→〈久し振りの雨の雨だれの音〉
〈風のなかに立ち信心申して居る〉→〈風にふかれ信心申して居る〉
〈爪切つたゆびが十本眼の前にある〉→〈爪切つたゆびが十本ある〉
〈流れに沿ひ一日歩いてとまる〉→〈流れに沿うて歩いてとまる〉
〈風吹く道のめくらなりけり〉→〈風吹く道のめくら〉
など、わずか一、二文字の削除、ないしは語の変更によって、句が引きしまった形に見事に変貌していることに驚かざるをえない。井泉水の添削の技のすばらしさを痛感する。
全く異なった句になった場合 さて題材だけ同じで全く異なる作品になってしまったCのような句の存在は句稿発見まで全く知られていなかっただけに、最も注目されたものである。7の3、9の4、15の1、19の1、22の1、31の5などがある。
〈いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞〉→〈壁の新聞の女ハいつも泣いて居る〉
〈すつかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く〉→〈障子あけて置く海も暮れ切る〉
〈淋しいから寐てしまをう〉→〈淋しい寐る本がない〉
〈ゆうべ杓の底がぬけた今朝になつて居た〉→〈ゆうべ底がぬけた柄杓で朝〉
〈明け方ひそかなる波よせ〉→〈ひそかに波よせ明けてゐる〉
など、添削句はいずれも放哉の代表的な秀句として夙に知られたものであるが、ここまで変えられたことがわかってしまうと、果たしてこれを放哉の句とすることは妥当なのかといった思いも出てきそうだ。
〈障子あけて置く海も暮れ切る〉の句の場合 このうち、(15の1)の原句〈すつかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く〉は、句を作ったときの放哉の気持ちがよく表れているということで、注目を浴びた作品である。研究者の中には「放哉の淋しがりやで甘えたがりやのかんじがでている」(小山貴子)、「放哉の心理的な時間的な経過が分明である」(岡屋昭雄)、「『あけて置く』に明確な意思が表明されている。句としての出来よりも、放哉の心境を推し量るにはどうしても自作の句でなければならない」(香西克彦)などとして、元の句を重要視する人が多い。この点に関しては「水燿通信」192号で言及したが、私は研究者としての関心には理解をよせつつも、作品としては添削句のほうが断然好きである。
 私は、暗くなった庵の柱に寄りかかりながら放哉がじっと見つめている海のかなたにあるものを想像する。それは実際に海のむこうにある更なる海とか陸とかいうものよりは、彼がこれまで歩いてきた人生のようであり、また近い将来、彼が赴くことを予感させる死後の世界のようでもある。それは決してかなしいものでも怖いものでもなく、むしろある種の懐かしさを感じさせるもののような気がする。そのようなイメージが私にはわくのである。
井泉水の不思議さ 荻原井泉水という人は不思議な人である。文学に関わる人間というのは、何らかの屈折した心情や挫折感を有していることが多い。俳句に関わる人など、その前に小説や詩の分野で挫折した経験を持つ人が少なくない。然るに井泉水の場合、大学では最初から文科専攻であり、しかも俳句は定型をやっていた時期もあるがさしたる迷いもなく自由律に行ったようだ。何事においても迷いがなく、屈折や挫折感の跡もみられないのである。
 また、自由律俳句の結社『層雲』を主宰し、尾崎放哉、種田山頭火といったすぐれた俳人を育てたし、放哉句の添削の様子を見ても、井泉水が指導者として優れた資質を持っていたことは紛れもない。『層雲』同人たちとの句の鑑賞座談会などでも、抜群の鑑賞力や見識を示している。それでいながら自らはさしたる俳句作品を残していない。
 井泉水のことを考えるとき、私はいつもこのふたつ、つまりひとつは迷いの無さ、そしてもうひとつは指導者としての力量と俳句作家としてのそれの落差の大きさ、の問題につき当たるのである。
(註)句稿には、正しく表示できない記号が含まれているため、一部異なる表記を使用している。正確な表記は、自由律俳誌『随雲』1997年8、9月号の「放哉未発表句稿」に掲載されている。
(2008年5月31日発行)

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発行人 根本啓子