水燿通信とは
目次

242号

水原紫苑の世界(1)

「水燿通信の夕べ」から

 皆さんこんばんは。「水燿通信の夕べ」の4回目、今回は「水原紫苑の世界」ということで、短歌に挑戦してみたいと思います。
〈水原紫苑との出会い〉 まず最初に、私が水原紫苑に関心を持つようになった出会いといいますか、それについてお話したいと思います。
 水原紫苑は昭和34年、1959年生まれで、現在40代の後半です。彼女は1986年、早稲田大学仏文科の修士課程を修了した前後に春日井建の第1歌集『未青年』を読んで大変感動いたしまして、フランス文学の研究者としての道から歌人としての道を歩むことに、生き方を180度転換するわけです。そしてすぐに春日井建に師事いたしまして、歌人としての活動を始めます。私は彼女が歌人として歩んでから10年ほどした時にこのことを知ったのですけれども、この経歴に大変興味を持ったわけです。というのも、私もかつてこの『未青年』に強く魅せられた時期がございまして、現在でも「好きな歌集を5冊あげよ」と言われたらこの歌集は必ず入るというくらい好きな歌集でして、そんな訳でこの経歴に興味を持ち、水原紫苑の歌に接するようになったのです。
〈春日井建と『未青年』〉 水原紫苑についてお話しする前に、この春日井建という歌人と『未青年』という歌集について少しお話したいと思います。というのも短歌史上に残るような非常に話題性に富んだ歌人であり、歌集なものですから。
 名古屋から出ている結社誌に春日井建のお父さんが主宰している『短歌』というのがあって、建のお母さんも歌人ということで、春日井建は歌の家の出なんです。彼は1938年生まれなんですが10代から歌を作っていて、お父さんの主宰するその中部短歌会の結社誌『短歌』に投稿していたわけです。その作品に東京の角川書店から出ている『短歌』、月刊の短歌ジャーナル誌ですね、の当時の名編集長中井英夫が注目いたしまして、まったく無名だった春日井の作品を、無名といっても中央ではということですけれど、1958年8月号の角川『短歌』に、「未青年」と題して50首を一挙掲載したのです。これは大変異例なことだったんです。普通はある程度名の知れた作家じゃないとそういう扱いをしてもらえないのですが、中井英夫の裁量によって断行したわけです。するとたちまち作家の三島由紀夫が注目して、春日井を「現代の定家」と呼んで賞讃しました。春日井が20歳の時です。そして建22歳のとき、三島の序、すばらしい序なんですけれども、に飾られて、歌集『未青年』が刊行されたのです。
 このように歌人春日井建や歌集『未青年』は三島が注目したということもあり、いままで短歌に接したこともないような若者なども「初めて『短歌』を買って読んだ」なんてこともあって、非常に話題になりました。ただこの歌集は、背徳とか悪とかに対する憧憬などを詠った作品が多かったものですから、短歌界の反応もさまざまで、毀誉褒貶の非常に激しい歌集でもありました。ある女流歌人などは、「短歌界にもついに太陽族が現れた。こんな不潔な歌は見たくもない」と体を震わせて言った、そんな話もあります。作品をいくつかあげてみます。
 1 大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき
『未青年』
 2 太陽がほしくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
 3 太陽を恋ひ焦がれつつ開かれぬ硬き岩屋に少年は棲む
 4 火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり
 5 狼少年の森恋ふ白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ
 6 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて跳ぶ
 1はこの歌集の巻頭歌です。4は、三島由紀夫がとくに好きだった作品。5、これは水原紫苑が強く惹かれた作品らしくて、自分で「すごく好きで、この方だったら悩みや苦しみみたいなものを理解していただけると勝手に思った」と語っています。
〈春日井建、歌壇を去る、のち復帰〉 ところがこの『未青年』のデビューの華々しさと対照的に、春日井建の歌はこのあと、急速に輝きを失ってしまいます。それでこのあと数年は歌を作っていたようですが、結局歌壇を去ってしまいます。その春日井建が、1974年、父親の死をきっかけに中部『短歌』を引き継ぐ形で、歌壇に復帰します。若かった春日井建も41歳になっていました。これに対して歌壇は賛否両論、「あの『未青年』の春日井建が戻ってきた」と大歓迎する向きと、「甘やかすのもいい加減にしたら」と冷やかに反応する向きとがあったようです。ただ、復帰後数年は『未青年』の春日井建を知っている人間には、あまり輝きが感じられなかったんですね。水原紫苑が入門したのは、ちょうどこの輝きのなかった時期なのです。『未青年』の春日井のイメージで弟子入りした水原の目に、歌壇に復帰して間もない頃の輝きのない春日井は、一体どんなふうに映ったのか、「こんなはずじゃなかった」などと思うことはなかったのか、こういった興味が私の中にあったことも事実です。
 さらにもうひとつ、きわめて世俗的な理由がありました。実はこの春日井建、なかなか美しい顔をしているのです。しかも自分がいい顔だということを十分にわかっている感じなのです。ここに写真を持ってきましたので、ご覧ください。水原紫苑が弟子入りした頃も、じゅうぶんにその面影は残っています。好き嫌いは別ですけれども。しかもこの人は同性愛者なんです。いかにも男を愛し愛されそうな独特の美貌ですよね。その春日井建に水原紫苑が弟子入りしたわけです。片や40代後半で美貌の同性愛者、片や20代後半の独身女性、この2人の出会いって、いったいどんな感じのものだったのだろうという、きわめて俗っぽい興味も、私にはあったわけです。
〈水原紫苑の歌の特徴〉 さて水原紫苑という歌人ですが、選び抜かれた言葉を駆使して美の世界を構築するというタイプの歌人で、徹底した美の追求者なんです。まさしく私好みなのですね。ただし、正直に言ってむずかしい。一読、はいわかりました、なんていうのは本当に少ない。そのむずかしさの原因ですけれども、ひとつにはこの人はイメージが大変豊かで凡庸ではありませんから、並のイメージしか持てない人間にはついていけないようなものが少なくないということがあると思います。たとえば
あしひきの山百合歩みいづるかたかがやきゐたり死者の学校
という作品があります。花瓶に活けてあった山百合が、花瓶を出て歩いていったので、後をついていったら、死者の学校に着いた、という意味なんでしょうけど、「う〜ん」ていう感じですよね。山百合の強い匂い、香りが死を連想させるのかなとか、この世のすぐ隣りにあるかもしれない異界、別の世界を描きたかったのかなとか、いろいろ考えたのですが、なかなかこういうものはついていけない、結局私にはよくわかりません。こんな感じの歌が、けっこうあるのです。
 それから、詠まれている分野に対して相応の知識、教養がないとよくわからない、単なる鑑賞力だけでは十分に味わえない作品があります。この人は勿論、フランス文学に関しては相当の知識、教養があるわけですし、さらに歌人として歩むようになってからは、能楽観世流の梅若六郎の甥である晋矢氏について謡いや仕舞いの修練をしています。また、小さいときから歌舞伎に親しんでいたようで、その分野の美意識も磨いています。で、こういったことを題材にした作品も少なくないのですが、そのような作品を味わうためにはそれぞれの分野に関する知識が要求されるわけです。
 歌集としては『びあんか』『うたうら』『客人』『くわんおん』『世阿弥の墓』『あかるたへ』などがあります。『びあんか』は最初の歌集で、歌人として活動を始めて3年ほど経った1989年に出ています。大体3年に1冊くらいの間隔で出ています。今回はこれらの中から『客人』、まろうどと訓みますけれど、これは私が水原紫苑の作品を知った頃に出たものではじめて接した彼女の歌集でして、私にはとくに思い出のあるものですが、これから何首か選びました。それから『世阿弥の墓』、これはタイトルからもわかるように能の大成者世阿弥を詠んだ作品や能楽に関するものが多い歌集ですけれど、実は私はかつて能楽に親しんだ時期がございますので、これから何首か選んで味わってみたいと思います。
『客人』 それでは『客人』から始めます。1979年4月に出たもので、「水燿通信」でも173、205号で取り上げています。
太陽を犯せし遠き兄おもふめざむればひとと湖底に居りつ
 この歌ですけど、春日井建の歌になじんだ者には「あ、ここには春日井建がいる」ってすぐわかる歌です。つまり「太陽を犯せし遠き兄」のところです。これ春日井建なんです。『未青年』から引用した作品の2、3首目をご覧ください。
2 太陽がほしくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
3 太陽を恋ひ焦がれつつ開かれぬ硬き岩屋に少年は棲む
 これらの作品をすぐ思い出すわけです。これらの歌で春日井建が恋い焦がれた太陽とは一体何なのか。熱くて激しくてそして限りなく遠い太陽。この太陽によって表現されようとしたものに、私は禁忌のにおいを感じるわけです。より率直に言えば近親相姦の雰囲気です。2、3ともにそうです。こういったことを念頭において水原紫苑の歌に戻ります。
 さて、この兄はその後、禁忌を犯してしまった、そしてそれから長い時間が経った。今私は湖の底に居てその兄を想っている。太陽から湖底までの距離も、兄が太陽を犯したときからも、そして兄と私の距離も限りなく遠いわけです。
 ここに描かれているのは、この世ともあの世ともいえない不思議な世界です。湖底に一緒に居る“ひと”っていうのは一体誰なのか。わたしは生きているのか、死んでいるのか。すべてはとらえどころなく漂っている感じです。なにかこうしんとした寂しさ、美しさの感じられる作品ではないでしょうか。
 これを「水燿通信」173号で取り上げたとき、読者のひとり――石牟礼道子さんのファンなんですけど――「これはまさしく石牟礼さんの『天湖』の世界だ」という感想をくれたんです。私その時はまだその作品を読んでいなかったのですけれど、たまたま熊本県の八代市に住んでおられる前山光則さんという方に通信を送っていたものですから、以前、山頭火について書いたとき(「水燿通信」171号「山頭火の〈健康さ〉」)にこの方の本から引用させてもらったので、それがきっかけで通信をお送りするようになったのですけど、その方が住んでいるところが石牟礼さんの水俣の近くだということで、「こんな感想があった」という便りをその前山さんに差し上げたんです。そしたら、思いがけない返事をいただきました。読んでみます。
……お便りに石牟礼さんの名が出てきて、思いもかけないことでした。『天湖』は、わたしと女房の二人で石牟礼さんを球磨川源流部の市房ダムに連れていったことから発想された小説なのです。石牟礼さんには女房もわたしも若いころからたいへん世話になっており、「お袋さん」みたいな存在です。……
次です。
みづうみの蛇口光れり逢はざりし観世寿夫(カンゼヒサヲ)が手を洗ふなり
 この歌集を初めて読んだときのことです。この歌は右ページの最初にあったものですから、ページを繰って最初にこの歌が目に入ったのです。いきなり〈みづうみの蛇口光れり〉とあり、次に〈逢はざりし観世寿夫が手を洗ふなり〉ときたわけです。その活字を見た途端、思わず頭の中が真っ白になって、しばらく何も考えられなくなってしまいました。というのは、この観世寿夫さんというのは私にとって特別な存在なんです。その寿夫さんの名前が突然でてきたものですから、何か思考停止みたいな状態になってしまったわけです。
 実は私は学生時代とそのあとの何年間か、能楽に親しんだ時期があります。能楽に親しんだといっても、その内実を言うと寿夫さんの舞台ばかり追っかけていたみたいなことだったのです。すばらしい舞台で、最初は舞台を観るだけで満足していたのですけれども、そのうち馬場あき子さんの評論などを読むようになって「やっぱり能楽をよりよく理解するためには、謡いや仕舞いをやらないとだめなんじゃないだろうか」と思い始めまして、習いたいと思ったのです。そしてこともあろうに寿夫さんに教えてもらいたいと思ったわけです。当時の寿夫さんというのは、まだ40代の若さながら、100年に1人出るか出ないかというようなすばらしい能役者として評価されていた人です。しかも世阿弥の伝書のすぐれた読み手としても知られていたし、また他の演劇畑の人たちとさまざまな実験的な舞台を試みるといったようなこともやっていて、まさしく次代の能楽界を背負って立つ貴重な逸材だったわけです。とてもなまなかの人間が教えてもらえるような存在ではなかったのです。でもそう思ってしまった。そしていったん寿夫さんに教えてもらいたいと思うと、もうそれ以外は考えられなくなってしまって。で、たまたま知りあいに寿夫さんの身近なところで仕事をしている人がいたので、その人に聞いてみたのです。「寿夫さんに謡いを教えてもらいたいと思うのだけど、どうかしら」。そしたらその人は「寿夫さんは非常に厳しい人で、能力のある人しか弟子に取らないし、お月謝もとても高いから、止めたほうがいい」と言ったんです。それはもう、当然過ぎるくらい当然のことだったわけです。当時の私といえば、能楽が好きだというだけで何の実績も肩書きもないし、独りでかつがつ生きているだけの人間でしたから。もう教えてもらえるような資格などゼロ。それはもうじゅうぶんわかっていたのです。でもその言葉はその時の私にはとても残酷なことに感じられました。
 私は実はその前に能楽の研究者になりたいと思った時期があったのですけど、大学の指導教官と精神的な行き違いがあって、その道を断念したことがあるのです。それでも能楽に対する関心の糸はその後も細々と続いていたのですけど、それが「止めたほうがいい」と言われてぷつんと切れてしまった。それで結局、能楽の世界から訣別してしまったんです。しかし能楽に関心が無くなったわけではなく、大いなる未練を残しての訣別だったわけです。
 ところがこの寿夫さん、なんとその後まもなく亡くなってしまいます。53歳、1978年ですけれども、急激に進行する胃がんになって亡くなってしまったのです。私は能楽関係で知り合った人たちとの関わりをみんな絶ってしまっていましたから何の情報も入らなくて、新聞でそのことを知って、本当にショックでしたねえ、あの時は。寿夫さんの舞台にもう接することはできないんだ。なんか能楽界に訣別したといっても、寿夫さんの舞台はまたそのうち観ることもあるだろうとどっかで思っていたのですけれども、それがもう不可能なんだと思ったときのショックといったらなかったです。寿夫さんの舞台というのは、なにかこう硬質のガラスのようなきらきら光る斬新な感じで、背筋をピンと伸ばして、すばらしかったんですよ。でももう観られなくなってしまった。だから私にとって観世寿夫さんというのは、今でも考えると心の奥がうづきます。その寿夫さんの名前が『客人』を読んでいていきなり出てきたものですから、頭が真っ白になってしまったわけです。
 さてこの水原紫苑の歌ですけど、作者の年齢からしても、また〈逢はざりし〉と詠っていることからしても寿夫さんと直接なにかがあったとは思えない、でもこのような歌を作っているのだから、何か特別な出会いがあったんじゃないか、そう感じたわけです。それで水原紫苑に嫉妬と羨望を感じまして、もう彼女にどうしても聞きたくなって、手紙を書いたのです。「あなたにとっての観世寿夫とは何なのか、あなたがこの歌を作るようになった動機とはいったい何なのか、ぜひぜひ教えていただきたい」。そしたら返事いただいたの。読んでみます。
……私はもちろん寿夫先生の舞台を知りません。ただ、高校生の時に行った能の鑑賞教室のプログラムを見て、「船弁慶」の地頭が寿夫先生だったのをあとで知ったぐらいです。でも、寿夫先生のお能を見られなかった無念の思いが憧れと結びついてあの歌になりました。じゅうぶんご覧になれてお幸せですね。……
 なんか特別な出会いがあると思っていたのに、「えー、これだけ?」と思ったわけです。肩透かしを喰ったような気分になってしまって。でもよく考えてみるとこれだけのことからこんな作品を作れるっていうのは、やはり水原紫苑てすごい才能だなあ、って改めて感じました。
 さて、この作品ですけど、蛇口というものの選定が見事だという感じがします。これは屋内にある台所なんかの蛇口じゃなくって、屋外に在るものをイメージするのがいいと思うのですけど、ふっと異界への通路のように感じることってございませんか。ありふれた小物ですけど、そんなふうに感じるわけです。私はこの作品の情景を、次のように思い描いています。
 観世寿夫が蛇口から水を出して手を洗っている。何かひどく儀式めいた行為に感じられます。その向こう側には遠くに、ハレーションを起こしたように白々と明るく光っている湖があるわけです。それは確かにわれわれ生きている人間のものじゃないのです。ひどく明るくて、なにかこうさらさらとした感じで、そしてどこか不安定でこわい感じもする。そしてそのしらしらとした明るさを受けて、寿夫さんの片側も明るく光っているわけです。でもそれを見つめる生きたわれわれの側は暗い。そしてその明るさと暗さを分けているものが蛇口、というふうに思うわけです。寿夫さんは確かにこの作品の中でも、われわれ生きている人間と同類ではないのです。向こうの世界に属しているっていうのは、感じられる。でも動いているんです、生きている人間のように。もう動く寿夫さんを見ることなんてかなわないと思っていたのですけど、でもここでは動いている。それが私にはたまらなくうれしくて懐かしくって、というふうな感じがするわけです。
 と私はずっと思っていたのです。ところがよりによって今朝、ぱっと目が覚めたら、これ違うんじゃないかしらと思い始めて、狼狽てたのね、どうしようと思って。なんか寿夫さんはこの解釈だと、割合近くにいるのです、見つめている私から、生きている人間の側から。でも今朝になったら突然、遠く湖のそばに居て、寿夫さんの姿も蛇口もきらきら光っているんじゃないかしら、みたいな気がしてきたのです。でもどうしてこんなことになったのか。実は昨日、寿夫さんの晩年の文章を一日中ずっと読んでいたのですけど、それが何らかの影響を与えたのかどうか。私、先にお話した解釈、味わい方でずっと間違いないと思ってきたので、困ってしまったのですけど。でもこう味わわなくちゃいけないなんてことはないですから、皆さん、この私の話をお聞きになって、ご自分なりの味わい方をしていただきたいと思います。(続く)
  配布資料  水原紫苑作品抄、『未青年』作品抄
これは、2006年9月29日(金)、ストライプハウスギャラリー(東京都港区六本木5―10―33―3F)で夜7時から9時まで行なわれた「水原紫苑の世界」(「水燿通信の夕べ」第4回目)での話を、そのまま採録したものです。3回に分けてお届けする予定で、今回はその1回目です。
(2007年1月20日発行)

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発行人 根本啓子