水燿通信とは
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230号

死に消えてひろごる君や夏の空

三橋敏雄(『畳の上』昭和63年刊)

 君は死んで肉体は消えてしまったけれど、居なくなったわけではない、無数の微小な存在となって空中にあまねく広がったのだ、という。〈君〉というから親しい間柄なのだろう。親友の死に際して作られた追悼句と思われるが、空に広がるというイメージのせいもあってか、明るい印象がある。
 これは昭和58年7月、60歳で急逝した高柳重信(註1)を追悼して作られたものだという。高柳重信は、俳人として多行形式、暗喩などを使って、俳句のあたらしい表現に果敢に挑むと同時に、『俳句評論』『俳句研究』の編集などを通して、新興俳句の発展に大きな足跡を残した人。三橋は彼と親交があったという。
 正木ゆう子は『現代俳句』(註2)の中でこの句を取り上げ、次のように述べている。
 高柳個人への追悼句であることを離れて、この句の持つ死生観にだけ焦点を当てれば、次の句が対のように思い浮かぶ。
   まだ生れざる生物よ初霞
 死んだ者は広がってあまねき存在となり、一方まだ生まれていない生物の生命も、すでにどこかに存在として在る、という生命観。そのふたつは同じものではないのだろうか。
 この文を読んで私は、高柳重信夫人である中村苑子の俳句作品を思った。苑子の作品は「生命は水によって生まれ生かされ、最後は水になって消滅する。そしてその水からまた新たな生命が生まれる」という生命循環の原理を基底としている。この原理は三橋の空に広がる軽やかな明るい死生観のイメージと比べるとやや重い感じがするが、固体は死んでも生命それ自体がなくなるわけではない、別の形となって永遠に存在し、それはまた新たな生命の源になるのだとする点で通じるところがあるのではないだろうか。
 三橋敏雄(大正9〜平成13)は若い自分からすぐれた才能を示した俳人で、10代で作った〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉という句は有名である。その一方で、三橋は自らの戦争体験にこだわり、また戦死した友人のことにこだわり、一生戦争を詠み続けた俳人でもあった。彼は、『証言・昭和の俳句』下(角川選書)のなかで「生き残りの私の句を、戦死したり戦病死した友達が現在読んでくれるとしたらどう思うかと常に考える」と語っている。戦争に関わる作品としては次のようなものがある。
いっせいに柱の燃ゆる都かな
手をあげて此世の友は来りけり(註3)
戦争と畳の上の団扇かな
 ところで、長谷川櫂はその著『俳句的生活』の中で、「や」「かな」「けり」などの切れ字が強調や省略の技法といわれているのは間違いだと述べ、さらに次のように語る。
 「や」「かな」「けり」などの切れ字はどれも俳句という短い詩の中に時間的、空間的な間を生み出すのであるが、忘れてならないのはみな記憶、忘却、追想、回想などなど、すべて人の心の動き、意識のあやに深くかかわっているということである。いわば切れ字によって切った言葉のすき間にこころの世界の入口が開けている。間とは単に時間的、空間的なすき間であるのではなく、多分に心理的なものなのである。
 卓見だと思う。そして掲句の場合もこれが当てはまるのではないか。つまり〈死に消えてひろごる君や〉でいったん切れ、作者なりのある想いが加わって〈夏の空〉が来るのである。亡くなった人のことを思い、そして次に〈夏の空〉とくれば、そこに戦争が終わったときの夏空を考えている三橋を想定するのは別に不自然ではないだろう。つまりここでは、高柳が7月に亡くなったから〈夏の空〉だというだけでなく、戦争が終わったときの夏空の記憶も重ねあわされているのではないかと私は思うのである。高柳と同様、戦争で亡くなった友もまた、夏の青空に広がるあまねき存在としてあると想ったとき、三橋の心中はいくばくかの慰むものがあったのではなかろうか。
(註1)高柳重信の死は、その前日、夫人の中村苑子氏から電話をいただくといういきさつがあったこともあり、私にとっても忘れられない出来事となった。そのことに関しては、118号で触れている。
(註2)『日本秀句』全10巻の別巻として平成14年に春秋社から出されたもの。昭和30年代後半以降から現代までの作品を取り上げて鑑賞している。さまざまな傾向の句を取り上げてそれぞれに偏りのない理解を示しながらも、正木自身の個性的な感じ方、味わい方にも適宜触れている。一句に対して1ページという短い文でありながら、個々の文に実作者ならではの思索に富んだ文も見られ、知的でふくらみのある豊かな内容の本になっている。俳句に関する高度な内容の本であると同時に、俳句に特に関心のない読者にも十分に読み応えがあるように思われる。
(註3)通信69号で触れている。
(2005年7月5日発行)

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発行人 根本啓子