水燿通信とは |
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213号「付け木」が用いられていたころ |
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体調を崩して、7月に2週間ほど入院した。 |
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私は食事制限のある体なので、これまでの入院では病院の食事だけはきちんと食べ、その他の食べ物は口にしないということを守ってきた。しかし今回は食欲不振が入院の原因のひとつだったこともあり、これまでの入院のようにはいかなかった。病院内の売店をのぞいても、食欲のわくものを見つけるのは難しく、苦労した。 |
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入院して数日経ったときだったが、検査室に行こうとして廊下を歩いていて、以前入院した時同室だった人とばったり会った。彼女は受診が終ると病室に来てくれた。入院の経緯やらなにやら話しているうちに、話題はいつしか食事の話に移った。 |
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「生野菜なら食べられそうなんだけど、病院ではしっかり煮込んだものがほとんどなの(この方が体に良いから病院ではそうしているのだが)。海草も大好きで、いつもなら夏なんかワカメに生姜をまぶしたものを食べたりすると、それだけで体がしゃきっとした感じになるんだけど、入院している身じゃそんなものも調達出来ないしね」といささか愚痴っぽく言ったら、彼女が「持ってきてあげようか。そんなのお安い御用よ」といった。何しろ彼女は近くのうなぎ屋のおかみさんなのだ。そして帰宅してまもなく、ワカメにきゅうり、玉葱、ピーマン、胡麻を交え、かるく味付けしたものを届けてくれた。その後も無くなりそうな頃を見計っては、具に少しずつバリエーションを持たせたものを持ってきてくれた。時には私の体に配慮したことが窺える薄味の玉葱スープが加わったりした。私は恐縮したが、自分の本当に食べたかったものだけに食欲も増し、入院中の食事が随分楽しいものとなった。 |
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彼女に返す器を洗いながら、私はふと子供の頃故郷で行なわれていたある習俗を思い出した。 |
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私の故郷は山形県の村山盆地の中にある農村といった感じのところ。集落の周囲には田圃や果樹畑が広がり、近くを一級河川の中では日本でも有数の良質の水を有する寒河江川が流れ、出羽三山のひとつ月山を朝夕仰ぎ見ることのできる、緑豊かな故郷である。 |
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昭和20〜30年代の頃あのあたりでは、自分の家で作ったご馳走や畑で穫れた野菜などをよく近所同士でやりとりしたものだが、そんな折り、空になった器を返す時は必ず中にちょっとしたものを添えるのが習わしだった。お返しというにはささやか過ぎる、本当に形ばかりのものだった。私の一番記憶に残っているのは、付け木(つけぎ)というもの。これは10センチ四方くらいのごく薄い木の板の一方に硫黄を付着させたもので、いわば大きなマッチ棒を平たくのしたようなものと想像してもらえればよい。当時あのあたりでは、火を作ったり移したりするとき盛んに用いられていた(註1)。それを1枚だけ(と記憶している)器の中に入れて返すのである。母の話によると、時には木炭でその上に短い言葉を書いたりもしたという。その他には小さなマッチ箱をひとつ添えることもあった。和紙なども添えることがあったような気がするが、これははっきりしない。 |
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ある時、付け木の〈木〉は〈気〉に通じていて、もらった側の「ありがとう」という気持ちを表わしているのだという話を聞いた。この習俗を田舎の旧弊なものくらいに思って多少冷ややかに見ていた私は、その話に妙に感心し、少し自分を恥じたことを覚えている。こんな反応をしたくらいだから、あまり幼い頃のことではなく、中学生くらいにはなっていたのではないかと思う。いったい誰に聞いた話なのだろうか。先日母に尋ねてみたら、母はそのようなことを言った記憶はないし、大体そんな話も初めて聞いたと言う。それでは父から聞いたのだろうか。父はこの手の話がするのが好きだったから、あるいはそうかもしれない。しかし父が死んだ(註2)今となっては、推測するのみで確かめる術もない。 |
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私が故郷を離れ東京で学生生活を始めたのは、昭和38年、その翌年東京オリンピックが開催された。これをきっかけに東京を中心にして全国的な大改造が始まり、日本は高度経済成長への道を歩み始める。オリンピック開催直前の東海道新幹線開業は、その中でも特筆すべき出来事であった。 |
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この動きは私の故郷でも例外ではなかった。帰郷する度毎に新しい道路が出来ていた。そのため古い神社が分断されたり、小学校時代に道草を食いながら帰った小川に沿った道がなくなったりした。それまでの道は国道から県道に、県道は市道に格下げになった。こんなことが何年くらい続いただろうか。ある年帰郷したら、近くの川の岸がコンクリートで固められ、豊かに流れていた水は信じられないくらいわずかになっていた。小学生の頃、夏は毎日のように泳いだ川だ。深いところ、浅いところ、急な流れのところと変化に富んでおり、向こう岸には広い河原もあって、泳ぐにも遊ぶにも魅力的な川だった。 |
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東京オリンピック前後にはまた、高度成長に必要な労働力を農村から引き出す提言が経財界から盛んに出された。その影響もあり故郷では農業に従事する人が急速に減少し、さらに減反政策なども加わって、田圃はどんどん減っていった。そしてほんの数年前には、我が家の後ろにあった丘が削り取られて平地となり、周囲の田圃とともに工業団地と化した。高度経済成長は遠い昔の話になり、バブル経済もはじけていた時期にもかかわらず、相変わらずこのような施策が行なわれるのかと、驚いたものだ。 |
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人々の生活も、今では豊かですっかり便利なものとなった。住居も新築ラッシュのような時期(10〜20年くらい前のことだったろうか)を経て、現在では現代風のものばかりになった。今や故郷は都市郊外の町といった風情だ。そんな中で、遠望する月山だけが、昔と変らない雄姿を見せている。 |
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煮炊きや風呂を沸かすのにわざわざ火を作ることからはじめるなどということは、過去の歴史のひとこまのように、現実の生活とは全く関わりのないことになってしまった。もちろん付け木が生活の場から消えて久しく、空になった器に付け木を添えて返すなどという習俗も、すっかり忘れ去られてしまったようだ。 |
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それでも私にとって懐かしくひたすら恋しく想い起こされる故郷は、付け木の習俗があった頃のその川であり田圃であり、そこここから眺められた景色であり、そして人々の生活のたたずまいである。 |
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(註1) | 「大正時代になると、マッチの普及により使用されなくなった」とする文献もあるが(『日本大百科全書』小学館)、私の故郷では第2次世界大戦後も使われていた。 |
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(註2) | 先日テレビを見ていて知ったのだが、〈亡くなる〉という語には一種の敬語ないしは丁寧語的要素があって、とくに身近な人間には使わないのだという。作家の幸田文は、父露伴は〈死んだ〉で、露伴の親、つまり文の祖父母のことは〈亡くなった〉と、きちんと書き分けているという。ちなみに父が死んだのは平成2年。 |
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※「付け木」その後 |
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| 本号で取り上げた付け木に関して、読者の皆様から様々なお便りを頂きました。 |
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| 付け木は戦後もしばらくは日本各地で用いられていたようで、「あの匂いは今でも鮮明に覚えている」「懐かしい」といった感想がいくつも寄せられました。空の器に添えて返すという習俗も、東北の一部の地域のものではなく、小豆島や東京でもあった由。しかし四国松山や山口県出身の読者は、付け木のことは知らず、代りに空いた器に南天の葉やマッチを添えたことを覚えているとのことでした。また小、中学校で一緒だった故郷の友人からは、「事ある毎に本家に味付けご飯やぼた餅を重箱に入れて持って行かされたが、添えられる付け木はいつも藁で数枚ずつしばった一束だった」との思い出話を聞きました。 |
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| 東京の麹町に育ったという読者には、戦前、戦中の物資の乏しい時期、長い経木のような形の付け木を、その都度折って使ったことがあるとの興味深い話をして頂きました。また、熊本県の人吉あたりでは同様のものを使っていたが〈とぼし〉と呼ばれており、空の器に添えるといったような使われ方は聞いたことがないとのことでした。 |
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(2003年8月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |