水燿通信とは |
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212号雨の隠岐で |
隠岐。島根半島沖合いの日本海に浮かぶ、4つの有人島と180余りの無人島からなる群島。本土から見て近い方にある3つの島を島前(どうぜん)、後方にある隠岐最大の島を島後(どうご)という。古来、小野篁、後鳥羽院、後醍醐天皇など幾多の人々が流された配流の地として知られている。島後の周囲の海岸は、大山隠岐国立公園に指定されている。 |
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【5月14日】 |
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島後をまわる 島後の隠岐空港に正午少し前到着。バスで西郷港に行き、港のそばの食堂で昼食の後、ガイドの中尾さんと落ち合う。島後は広く、見所は島のあちこちに点在しているので、レンタルサイクルや徒歩でまわるのは無理と考え、ガイドをお願いしたのだ。 |
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島後にはぜひ訪れたいという遺跡の類いはあまりないので、美しい海の見えるところなどいくつかのんびり眺められたらいいと伝えた。中尾さんは「心得た」という顔をしたが、実際にはこのあたりという心積もりがすでにあったようだ。玉若酢命(たまわかすのみこと)神社、隠岐国分寺、海老根の群生園、亀の原水鳥公園、ローソク島を見下ろす展望台など、遺跡の類いや奥深い山間の地といったところから海の見下ろせる景勝の地まで、車で色々なところを案内してくださった。中尾さんと落ち合った頃から雨が降り出していたが、訪れるところのいずれもが、雨に濡れてそれぞれの美しさを増したようだった。観光パンフレットなどを手がけるプロの写真家でもある中尾さんの話によると、天気の好い時は白っぽい花などハレーションを起こしたりするから、写真は撮らない、雨が降って少し経った頃が、緑も何もかも美しくなるので撮り時なのだとのこと。私はまさしくそんな時の隠岐の自然に浸れたというわけだ。 |
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壇鏡(だんぎょう)の滝 壇鏡の滝を訪れた時は、とくに雨の日に訪れた幸運を感じた。この滝は小野篁が都への帰還を願って祈った滝と伝えられている。車で山間の道をかなり走った後、枯葉と小石の径を歩くこと5分あまりのところに、その壇鏡の滝はあった。滝の少し手前には、日本の名水百選に選ばれた水を飲むところが設置されていた。隠岐は水のおいしいところで、なんと山頂にも湧水があったりするのだという。 |
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この滝は、一般の滝のイメージと違って水が霧のように(通常は二条に分れて)降ってくるもので、晴れの日が続くと水量は無くなり、大雨になったときなどは水がカーテンのように膜になって落ちるのだという。私は、雨が降ったおかげで周囲のうっそうとした木々の緑もより美しくなったのを楽しめたが、滝も水の落ちる時に見られたというわけである。滝の後ろに径がついていて、そこから霧の膜を通して周囲の自然を楽しんだ。滝の近くには山口誓子の句碑があった。 |
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はじめて目にする句だったが、茶色のどっしりとした石碑で、この地にしっくり溶け合っている感じだった。 |
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【5月15日】 |
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後鳥羽院行在所跡 早めに朝食をとり、雨のなか宿の主人の運転する車で後鳥羽院隠岐山陵跡に向かう。8時半、山陵跡前に到着、木々の間のゆるやかな道を上る。すぐ左手に後鳥羽院御火葬塚が見えてくる。木の柵があって中には入れないが、院の遺灰が埋葬されているところだ。帰洛の願いむなしく、在島19年にしてこの地で崩御した後鳥羽院は荼毘に付され、遺骨はここに安置されていたが、明治6年、承久の乱で遠国に流されその地で崩御した三帝の御神霊を水無瀬神宮に合祀することになって持ち帰られ、現在は京都の大原陵にあるという。 |
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ゆるやかなのぼりの道をさらにたどると、程なく行在所跡が目の前に現われた。柵に囲まれ、その中央に礎石があるだけの遺跡で、背後には高い杉木立が広がる。雨の朝、聞こえてくるのは、静かに降る雨の音と、姿は見えないがごく近くにいると思われるホトトギスの鳴き声だけだ。この一帯は宮内庁の管理下に置かれており、また土地の豪族だったという村上家が代々墓守をしていることもあってか、ごみひとつ無くきれいに保たれている。新緑の季節に加えてやさしく降る雨のため、周囲の緑はしっとりと静かに美しい。 |
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院はこの地にあった隠岐島第一の古刹源福寺に住まわれたというが、その寺も明治時代の廃仏毀釈運動によってすべて打ち壊され、今はなにも残っていない。 |
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多才で和歌の道にも秀でていた後鳥羽院だが、和歌に関しては〈(後鳥羽)上皇の主導によって美の極限に達した短歌は(承久の乱の)後は衰弱するほかなかった。……代って力を得てきたのが、……連歌だ。上皇じしん『新古今和歌集』完成後は短歌への熱が冷めたかのように、連歌に熱中した〉(高橋睦郎『百人一句』)という説があり、これが真実に近いのだろう。しかし藤原定家との確執などを想いつつ後鳥羽院は隠岐で亡くなるまで和歌に執着し、『新古今和歌集』の編纂に執念を燃やしたと想像するほうが、はるかにドラマチックで興味深い。 |
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院には隠岐で作られた「遠島百首」があるが、これを見ると配流から約20年後に隠岐で崩御するまで、ひたすら都への思いを募らせるばかりで、隠岐での生活になじんだり楽しみを見出すようなことはついに無かったようだ。そんな院の無念の思いが、静かに雨の降る緑の中に佇んでいると、ひしひしと伝わってくるような気がする。院の崩御は1239年、それからすでに760年余の歳月が流れているが、このあたりは今でも十分にさびしいところだ。 |
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海士(あま)町歴史民俗資料館 道を隔てて行在所跡と反対側にあるのが、海士町歴史民俗資料館だ。後鳥羽院に関わる様々な資料を置いてあるが、見物はなんと言っても「後鳥羽院御影」と「後鳥羽院御手印御置文」だ。ともに国宝で、実物は水無瀬神宮に所蔵されておりここにあるのは複製だが、おそらく本物に変わらないのではないかと思われる古びた感じや風情だった。御影は隠岐配流直前に藤原信実に描かせたもの。当時の肖像画の例に漏れず下膨れの顔に描かれているが、その目や口元には一筋縄ではいかない院の人となりがよく表れており、すぐれた作品だと思う。「後鳥羽院御手印御置文」は死の直前に水無瀬信成・親成父子に宛てて認められた遺言状とも言うべきものだが、見るものを驚かすのはそこに押された真っ赤な御手印だ。上皇の消えることのない遺恨の思いを伝えるかのように、今も色鮮やかである。なお置文は嘉禎3年(1237、死の2年前)のものもあり(資料館には安永元年写しのものを展示)、これには〈自分が死後怨霊となって世の祟りをすることになるかもしれない〉というくだりがある。〈これは自分の本意ではないが〉という言辞を添えてあるが、私には〈死んだら必ず祟ってやる〉という脅しのように感じられてならなかった。 |
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牡蠣寿司を楽しむ 乗船予定の舟の時間まで余裕があったので、港近くのすし屋で昼食を取る。海士町歴史民俗資料館々長の松野さんにおいしいお店だと教えていただいたところだ。店の主人に「このお店のお勧めはなんですか?」と尋ねたところ、牡蠣寿司だとのこと。早速お願いしてみた。隠岐の岩牡蠣は「夏牡蠣」といって今が旬だと、昨日中尾さんからも聞いている。コロッケのように大きい(この形容は、中尾さんも昨日の宿の奥さんもともに使っていた)牡蠣ののった寿司、手に取ってほおばると口の中が一瞬ひんやりとしただけで、あっという間に喉の奥に滑り込んでしまった。でもそのあとに大きな満足感が口に広がり、もう一かんお願いせずにいられなかった。次に栄螺を頼んだが、今は採れないので無いとのこと。「昨日この島でつぼ焼きを食べましたけど」というと、主人は、「養殖でしょう。うちは天然しか使わないですから」と誇らしげに言い放った。 |
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黒木御所 島前の中ノ島、菱浦港から小さな舟でとなりの西ノ島の別府港に向かう。島と島を結ぶ船の便はガイドブックによるととても少なく、1日のうちであちこちの島をまわるのは到底無理と思っていたが、宿の奥さんの話で小さな舟の往き来は結構あることがわかり、夕べ計画を練りなおして、後醍醐天皇の行在所となった黒木御所も訪れることにしたのだ。 |
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舟が菱浦港を出て数分で別府港に到着。御所は海岸沿いの道を10分ほど歩いた丘の上にある(行在所は島後の国分寺という説もあるが、島前のこの地説が有力のようだ)。そこに向かう道の途中で会った女子高生が、私の顔を見てぴょこんとお辞儀をした。こんな体験は東京では滅多にないことなのでなんだかとてもうれしくなり、つぎに会ったお年寄りには私のほうからお辞儀をしてしまった。 |
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さて、鳥居をくぐり急な石段をくの字形に曲がりながら上ると間もなく黒木神社となる。その先、木々の間のほの暗い小径をしばらく行くと、行在所跡だ。女独りではちょっと怖いような感じの径。京都二尊院の背後に広がる小倉山中腹の墓地のそのさらに奥に遺(のこ)る、藤原定家の時雨亭跡に至る径ととても似ていると思った。ちょっと怖いけれど豊かな自然の中でしばらく時を過ごし、下に降りた。 |
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いつしか雨は止んでいた。予定のフェリーの時間まで大分時間があるので、鳥居の前の四阿屋に腰を下ろし、郵便局発行の隠岐の写真入りの絵葉書に家族宛ての便りを認め、近くの郵便局で風景印を押して投函してくれるようお願いした。 |
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港までの道をのんびり歩いていると、ある土産物屋の前で「焼きたてのフランスパンあります」という文字が目に飛び込んできた。思わず「食べたい!」と思った。考えてみると、パン大好きの私が、もう2日間、それを全く口にしていない。今夜泊まるホテルは夕食抜きにしてある。自分でブレンドした紅茶の葉も持参しているし、今夜は部屋でフランスパンと紅茶の夕食にしようと考えた。パンをいくつか選び、ついでにサザエカレーといかすみせんべいも買った。どちらも隠岐のお土産として、ガイドの中尾さんご推薦のものだ。 |
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【5月16日】 |
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昨日は雨の中をたくさん歩き、船に2回も乗り(しかも1回は椅子もなく、布張りの床に座りこんでの2時間だった)、大分疲れた。深い眠りに陥って朝まで目が覚めることもなかった。カーテンを開けると、昨日までの雨が信じられないようなまぶしい朝日が部屋に射しこんだ。今日の昼には隠岐を離れるが、それを待っていたかのような晴れの天気。しかし雨のおかげで美しい自然にたっぷり浸れた私に、口惜しさはなかった。 |
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(2003年7月1日発行) |
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発行人 根本啓子 |