水燿通信とは
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187号

春の句を味わう

中村苑子句集『吟遊』から

さくら散り往時茫々たりしかな
 ある年の4月末に帰郷した時、私は実家の隣にある神社に行ってみた。桜の花が折りからの風に誘われて盛んに吹雪いていた。
 私の小さい頃、この神社は子供達の恰好の遊び場で、一年中、子供の元気な声が絶えることがなかった。雪がたくさん積もる冬だって、缶蹴りなどをして遊んだものだ。社殿のまわりの廊下に隙間なく垂らされた筵をうまく利用して隠れるのが、スリルがあってなんとも面白かった。
 春の祭りには、社殿の脇に舞台が作られ、地元の青年団の演技が披露された。参道には両側にずっと出店が並び、大勢の人で賑わった。
 境内に佇っていると、様々な記憶が甦ってくる。だが、思い出に比して何と小さく古びた社殿であり、狭い境内なのだろう。元気な子供の声はどこにいったのだろうか、境内はしんとして訪れる人もいない。そして私の実家も、かつて多くの家族がいて賑やかだったのに今は老いた母と義兄、甥の3人だけになってしまった。それにしても、桜の花はどうしてこうも美しく散るのだろう……。〈さくら散り往時茫々たりしかな〉は、その時の私の想いそのものであった。
 『吟遊』には、この句のほかにも心魅かれる桜の句がたくさん収められている。
影と往き影のみ帰る花の崖
帰らざればわが空席に散るさくら
梁(うつばり)に紐垂れてをりさくらの夜
わが日在り落花漂ふ沼があり
ありありと桜花泉下に咲くを見し
晩年は桜ふぶきと言ふべかり
 いずれ劣らぬ佳品揃いだ。これらの句をみてみると、作者は桜の咲く時よりも散る時の方により魅かれているような気がする。
 中村苑子は、平成8年刊行した句集『花隠れ』を“生前における最後の句集”(同句集「覚え書」)と位置付け、以後俳句作品の発表を絶ったが、その後にまとめられた「花に隠れてやすらぐ心」という文から、桜に言及した部分を紹介しておこう。
……西行や本居宣長ほどの桜狂いではないにしても、花ひらく季節が来ると、やはり何となく心がざわめく。そして、やがて息苦しいまでに咲き満ちて絶頂を極めるときには、せつないような物がなしさにおそわれて、死を希(ねが)うほどの陶酔を覚える。
さきみちてさくらあをざめゐたるかな野澤節子
 桜というのは不思議な花で、咲くときも、散るときも、同じ美しさである。風に渦巻く花吹雪の空華は、まるで白日夢の様相で別れの哀愁を誘うし、また、うっとりと浄土へ回帰するような心の安らぎをもたらす。
散り際のはなうつうつと明るけれ橋 關ホ
 桜は、散るのは終わりではなく、春がくればまた再生する輪廻(りんね)転生の摂理を信じているからこそ、あのように潔く散ってゆくのではあるまいか、と思われるのだが、さて、桜と違って一回性の人間は、何を信じて死と直面したら従容として死ねるのであろう。…… (平成10年4月6日付朝日新聞夕刊)
*
対岸に火を焚く男春の闇
 『吟遊』に初めて接した時、情景の鮮やかさでとくに印象に残った句。
 ここに詠まれている川は大河というほど大きなものではない、火を焚く男の炎に照らされた表情がおおよそわかる位の、中程の幅のものだ、しかし深さはあり、水は岸辺を浸す程とうとうと勢いよく流れている、こちらから〈対岸〉に渡るのは容易なことではない、私にはそのように感じられる。
 この句に接すると思い出す話がある。平成10年2月、東京世田谷区砧の作者の自宅に伺った時に聞いたものだ。
 中村苑子氏は“争うことは嫌いだけれど……高柳とは、あんまり自信満々でいるので腹が立ってよく口喧嘩をしましたよ。……彼の痛いしっぽを踏むと驚くほど見事に命中して怒り出すのね。……高柳はええかっこしいで、外面と内面が全然違っていましたからね”、静かな笑みを湛えながらこんな話をしてくれた。また、苑子氏が何も言わずに黙って家を空けた時の高柳氏の狼狽振りなども、いたずらっぽい表情でおかしそうに語ってくれた。
 その話に私は、物静かで楚々とした感じの氏の中にある、意外に強い芯のようなものをみる思いがした。そして強烈な個性の持ち主の論客高柳重信、自分の思い通りに振舞っていたかにみえる高柳重信は、案外苑子氏に手綱を握られていたのではないか、という気にすらなった。
 つまり、私はこの句にあの世に行ってからも盛んに怪気炎をあげている高柳重信と、それをこの世で静かな笑みを湛えながら眺めている作者を感じてならないのだ。私は、俳句は作られたときの事情などにあまりとらわれず、作品それ自体で味わいたいと常々思っているのだが、この作品の場合、どうしてもそんな情景が浮かんできてならない。
 その苑子氏も、今年1月〈対岸〉に渡ってしまった。今、この句の闇の中、火を焚く男のすぐ傍らには、ほのかな笑みを湛えて佇つ和服姿の中村苑子が居るに違いない。
(2001年4月10日発行)

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発行人 根本啓子