水燿通信とは |
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181号放哉句の世界が広がった「放哉を考える夜の会」に参加して |
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小豆島土庄(とのしょう)町にある尾崎放哉記念館では、放哉が南郷庵に入庵した8月20日を記念して、館設立以来、毎年この日の夜に「放哉を偲ぶ会」を開催してきた。7回目を迎える今年はより充実したものにしたいということから、呼称を「放哉を考える夜の会」と積極的なものに変え、中身も講座に相応しいものにしようと企画された。具体的には、平成8年(1996)、荻原井泉水長男海一氏宅で発見された放哉句稿(2,721句から成る)の中から小豆島時代の6句を選び、各句に1人ずつ発表者を設け、それぞれの句に対する解釈、意見を語ってもらった後、全体で話し合うというものだ。 |
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当日は私も参加させてもらった。参加費は350円。参加者は『入庵食記』の冒頭、大正14年9月1日分の記述のコピーと焼き米、炒り豆の入った袋を渡されたが、これが香ばしくてなかなか美味しかった。 |
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各句に対する発表者の解釈、意見の詳細は記念館のHPを参照していただくとして、ここでは私にとってとくに興味のあった解釈や視点と、私自身の感想を中心に述べてみたいと思う。 |
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取り上げられた作品と発表者は次の通り。なお、見目、香西両氏は都合により欠席だったので、お二人の解釈や意見は同日配られたプリントを参考にした。 |
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・ | 小さい島に住み島の雪 …… 井上泰好(放哉南郷庵友の会) |
・ | わが肩につかまつて居る人に目が無い …… 小山貴子(大阪府立刀根山高校教諭) |
・ | 麦がすつかり蒔かれた庵のぐるりは …… 岡屋昭雄(仏教大学教授) |
・ | 四角な庵の正月 …… 森 克允(放哉南郷庵友の会) |
・ | 墓のうらに廻る …… 見目 誠(兵庫県立東神戸高校教諭) |
・ | 窓あけた笑ひ顔だ …… 香西克彦(京都府(財)啓明社研究員) |
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井上氏の鑑賞は、この句が作られた時の放哉を取り巻く状況を考え、句の底に放哉の淋しさ、悲しさ、(この島で死ぬという)あきらめなどをみるというものだった。
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自由律俳誌『随雲』の同人でもある井上氏は、繊細な若々しい感覚の持ち主で、俳句作品にもそのような感性のものが多いが(〈男は男のうねりがあって豊饒の海〉〈あれでよかったかと闇に眼を開けている〉など私の好きな作品だ)、時に感傷に流れる作品もあるように思う。〈小さい島に〉の句に放哉の淋しさ、悲しさ、あきらめなどを感じる鑑賞の仕方は、そのような氏の傾向が出た感情移入の強いもののように私には思われた。 |
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“「島」の語を二つ重ねたところに、放哉の「島」への胎内復帰願望が込められているのかもしれない”という見目氏の見方には共感を覚えた。というのも私は東北の雪深い田舎町で育ち、深い雪の中(の住居)に居る時のほっかりと守られたような感覚には馴染みがあったからである。だが、果たして小豆島で周囲から守られていると感じられるほどの大雪が降るのかとの疑問を持った。 |
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この疑問に対して森氏は、句集『大空』ではこの句の後に |
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名残の夕日ある淋しさ山よ |
故郷の冬空にもどつて来た |
一日雪ふるとなりをもつ |
みんなが夜の雪をふんでいんだ |
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といった句が並んでいることを指摘、ここから判断して少なくともこの日だけでもかなり降ったのではないかという見方を示した。 |
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会の後しばらくしてから気がついたのだが、見目氏の視点の中心は「島」の語が2回重ねて用いられている点にあったのであり、雪の深さは関係なかったのではないか、雪は周囲の景色を純白なものに変えればそれで十分で、特別な大雪でなくても構わなかったのではないか、そんな気がしてきた。どうも私は大きな誤解をしていたようだ。 |
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この句の解釈に関しては、小豆島から戻って来た後もずっと考えてみた。そして半月もしてようやく浮かんできた情景がある。それは、孤絶した小さな世界でのそれなりに満たされた放哉の姿であり、庵の周囲からさらに島全体までが純白の雪におおわれることによって、その放哉の思いはより純化され、現実の生々しさは消え去り、生死の意識をも超越した、一種の宗教的な雰囲気すら漂う心地好い世界に居る放哉の姿であった。つまり、先の見目氏の見方や、“純白の雪という覆いを被されて終の栖としての自己の世界が小豆島全体にまで拡がった”(香西)といった見方と共通するものである。 |
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この句は、どのように把えたらいいのかなかなかわからかったのだが、こうした経過を経て、今では時空の広がりのあるいい句だと感じている。 |
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小山氏の話はこうである。 |
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「西光寺の住職玄々子の奥さんの話によると、放哉は玄々子の留守の時は絶対に寺に入らなかったという。それは放哉が自分はよそ者でいい年をした独り者であり、村人が好奇の目でみていることを自覚していたからだ。だから彼の肩につかまっている人が一般に言われているように石屋の奥さんだったとはちょっと考えられない、むしろ私は一燈園時代の友人平岡七郎ではなかったかと思う。彼は須磨寺にいた放哉を訪ねたりしている。例えばそんな折りの、本堂前の急な石段を降りるときに彼に肩を貸した情景を、後に放哉が思い出したとしても不思議ではない。こういったことを考え合わせると、この句は不気味さなどよりはむしろなつかしさの立ちあがってくる作品ではないかという気がする。」 |
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この小山氏の話が終わったとき、私は思わず大きな溜め息をついてしまった。「こんなとらえ方もあるのだ。さすが放哉に長く付き合ってきた方だけある」と驚きと感嘆をこもごも感じたからである。実証的で大変説得力のある話であった。 |
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この〈わが肩に〉の句に対する私の関心は、ずっとなぜ放哉はこのような句を作ったのか、一体、放哉はこの句で何を表現したかったのか、ということにあった。というのも、彼の句には事実をそのまま無造作に投げ出したようでありながら、作品としては大きなひろがりや思いがけない味わいを持つに至っているものがたくさん存在しており、この句もその範疇に入っていると感じていたからである。 |
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見目氏は“たぶん実際の経験だったのだろうが、このような句についてはシチュエーションを穿鑿してもあまり意味はなく、詩的構成の妙を味わうべきだろうと思う”と述べている。私の思考に対する重要な示唆がこのあたりにあるような気がする。 |
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放哉句にはどのような姿勢で向き合うのがいいのか、正直なところ、私にはいまだによくわかっていない。ただ、俳句は(俳句に限らないが)なるべく自立した詩作品として味わいたいという気持ちが私には強い。今回の小山氏の話を聞いて、改めてその問題について考えてしまった。 |
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この手の作品、放哉にはいくつかあるが、私はあまりいいと思ったことがない。でも、岡屋氏の「〈すつかり〉の用語はある行為が終わった安心感を表している、蒔かれた麦は実際は見えないが、放哉の目はその見えないところを見ている、少なくとも俳句の世界ではこの時期の放哉は生死を越えた世界に生きている」といった話によって、語の意味の理解の仕方がわかり、句の世界が豊かに拡がるのを感じた。 |
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“放哉の自己化した世界が南郷庵の周辺にまで拡がっていることを確認した句である”という香西氏の視点も興味深かった。 |
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なお、最後の「は」を井泉水は省いていることに関しては、そのほうがすわりがよくすっきりしていい、という意見が大勢を占めた。 |
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森氏の話は、放哉記念館を作ろうと思い立ってからの日々の回想がその大半を占めており、その運動の発端になったのが他でもないこの句だったというものであった。記念館建設計画の最初の段階から深くかかわり遂にそれを実現させ、そして今や記念館にとってなくてはならない存在となった氏のこの10年ほどの歳月が思われた。心に静かに染みとおるいい話で、作品とのこんな関わり方もあるのだと改めて思った。 |
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ところでこの句は作品それ自体としてはどうなのだろうか。いい句なのだろうか。鑑賞するに足る作品なのだろうか。 |
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この句に関して放哉は、大正15年2月13日付、飯尾星城子宛ての書簡で次のように述べている。 |
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此ノ四角とは、部屋中、ご承知ノ道具ハガランとして何もなし、中ニ障子一枚、襖一枚たつて居ない……只坊主一人、柱にもたれてゐるそこで、マルデ四角な「箱」の中ニ居るやうなり、故に曰く……四角な庵の正月……呵々、之ハ他人さまニハ、ワカリマスマイネ、呵々呵々、サヨナラ |
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この書簡を読んでいればそれなりの感興もあろうが、そうでなければ、こんな素っ気ない表現ではまともに味わうことなどかなわない作品のような気がする。それにしても“之ハ他人さまニハ、ワカリマスマイネ、呵々呵々”とはずいぶん人を喰った言い方だ。放哉にとってはこの句は自信作だったのだろうか。 |
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今回の話し合いを通して、少し考えてみたい作品になったことは確かである。 |
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私のとても好きな作品。墓の前の世界をじっと見つめる死者の視点が感じられ、ぞくぞくするほど怖い。香西氏も“この窓を通して死の側から生の側を覗いて見たかったのではなかったか”との見方をしている。 |
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私が大きな関心を寄せている俳人中村苑子氏の作品に〈唖蝉に飛び付かれたる墓の前〉(註1)というのがあるが、これに出会った時、すぐに放哉の前掲句を思い出した。この蝉は絶対墓の裏から、つまりこの世でない別の世からきたと思う(当日の会では言及しなかったが、この場合声を出さない「唖蝉」であることが不可欠だと思う)。中村苑子氏は、過去か現在か未来か、この世かあの世か、はっきりわからないような、怖くて美しい俳句を作る人だ(現在は作品発表はしていない)。 |
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小玉石水著『海へ放つ 尾崎放哉句伝』のまえがきに、複数の俳人や研究者のこの句に対する鑑賞文が紹介されている。意外なことに、自由律俳句の作者の鑑賞は荻原井泉水のそれを除いてまったくなっていない。井泉水ひとりが光っている。それに対して定型俳句の作家のほうは興味のある発言が多くすぐれてもいると感じる。どうしてなのだろうか。 |
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香西氏は、放哉句を仔細に検討してみた結果、「笑い顔」を人間ととる根拠は乏しく、現実的には顔というものを持たない動物以外のものまでが候補として挙がり得ると考えた。さらにこの句が詠まれた時期を考え、〈窓に肘を置く大地の春〉〈窓まで這つて来た顔出して青草〉といった句が存在することも考慮にいれて、次のような結論に至った。 |
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筆者はこの句をもって「笑う」のは春であり、春の風景であると考える。放哉自身が窓を開け、春が来た喜びを吐露する句であると解釈するものである。 |
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魅力的な解釈だ。わずかこれだけの文字でこのように豊かに広がる景が浮かんでくるのだ。こういった解釈の仕方が私は好きである。 |
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私にとってこの句は、魅力的な情景が浮かんでこないこともあって、これまであまり興味のもてない作品だった。でもこのような解釈をするのなら話は別だ。 |
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ただし、当日の会ではこの解釈はそれ程の支持を得た訳ではなかった。やはり、放哉が窓を開けたらそこに(人間の)笑い顔があった、というように解釈すべきではないか、そしてそれはおそらくおシゲさんの笑い顔だったのだろうという意見が多かった。 |
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そこから発展して南堀シゲ複数説も出たりした。私自身は、素性のよくわからないよそ者で結核を患っているらしい放哉に対しては、なるべく関わらないようにして遠巻きに眺めていた村人が大半だったのではないかと考えているので、複数説には疑問を感じる。 |
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“シゲさんは玄々子さんによほど言い含められたんだと思う、いくら親切だとかなんとかいっても、結核患者の下(しも)の世話までしたんだからね、そうとでも考えないと”という森氏の発言は興味深かった。 |
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“結核という病気が怖がられるようになったのはもう少し後ではないか”との発言が岡屋氏からあったが、どうだろうか。私は当時としては怖い死病だったのではないかと思っている。というのも私はその直前、富田木歩(もっぽ)という俳人のことを調べたのだが、この人は俳句全集などではよく放哉(を含む数人の俳人)と一緒に編まれる俳人で、つまり時代が放哉と近い。木歩は6人の兄弟姉妹のうち2人を結核で亡くしていて、しかも彼自身21歳のとき喀血している。当時、結核にかかる人は多かったようだが、怖い死病だったという事実は動かないと思う。 |
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今回の考える会では、放哉に長く関わって来た発表者諸氏の充実した話が聞け、その話をうけて参加者全体の話し合いも盛り上がった。新しい企画としては成功だったのではないかと思う。私にとっては、作品へのアクセスには様々なものがあるということを学んだ点で、実りの多い充実した会であった。 |
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しかし、俳句はそれが作られた時の状況や作者の境涯などにあまりとらわれず、自立した詩としてそれ自体で味わいたいと思っている(註2)私には、会への参加の結果そういった姿勢を貫くことに揺らぎが生じてきたことも事実である。 |
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俳句という極端に短い詩型は、やはりそれだけでは鑑賞することのかなわないものなのだろうか、表現されたものだけでは、いくつもの勝手な解釈を許してしまう危険性があるのだろうか。それとも、俳人の研究と作品鑑賞とは別個のものとして考えるべきなのだろうか。 |
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これらのことに関しては、じっくり考えていきたいと思っている。 |
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(註1) | 句集『吟遊』(平成5年刊)所収。この句集は平成6年、詩歌文学館賞と蛇笏賞をダブル受賞した。 |
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(註2) | このことに関しては、南郷庵友の会発行『放哉』10号(平成12年3月1日発行)に掲載された拙稿「〈淋しい〉のは放哉か、村か」で詳しく述べている。 |
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1996年、荻原井泉水長男海一氏宅で、小浜・小豆島時代の2,721句にのぼる放哉句稿が発見された。放哉の句稿は散逸したものと思われていただけに、研究者や関係者の大きな注目を浴びた事件であった。 |
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小豆島尾崎放哉記念館を擁する土庄町では、今夏この貴重な資料を1,380万円(税抜き)で購入した。貴重な資料が記念館のような公的な関係機関の所蔵になることは、研究という側面からは最も望ましいことであり、放哉に関心のある私にとっても大変うれしいニュースであった。 |
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今回の小豆島訪問の折り、私はこの貴重な資料を拝見する機会を得た。資料は句稿のほか書簡も多く、中には大正14年8月1日、京都龍岸寺から井泉水に宛てて出された「淋シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ」に始まるよく知られた文を認めた葉書もあった。 |
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最も興奮したのは『入庵雑記』。これを見ると、井泉水が朱でひとつの文を二つに分けたり、タイトルを付したり、またある部分を削除したりしていたことがわかる。こういった添削、編集を経て『層雲』に掲載されたわけである。すぐ傍らに放哉や井泉水が居るような、そんな生々しい感覚にとらわれた資料であった。 |
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いずれ、これらの資料によって様々な新事実が解明されていくことだろう。楽しみなことだ。 |
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〈句会(「放哉を考える夜の会」に先立って行われた)から〉 |
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蜻蛉の眼に幾千の秋を見た | 井上泰好 |
夕焼けを背負った犬が吠えぬ | 岡屋昭雄 |
みごとな電球に照らされた笑い顔である | 小山貴子 |
松籟の音かすかなり放哉庵 | 佐藤晴光 |
放哉に愛憎かぶせゐる端居 | 山本照雪 |
放哉を好きの嫌ひの秋灯 | 同 |
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(2000年9月20日発行) |
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発行人 根本啓子 |