| 水燿通信とは |
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178号馨のかなしさ、芳衛のかなしさ『暮れ果つるまで』を読んだあとで |
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| 昨年出版された小山貴子著『暮れ果つるまで 尾崎放哉と二人の女性』では、1996年に発見された小浜・小豆島時代の放哉の2700余句にのぼる句稿や、沢芳衛の30数通の手紙、著者が放哉や馨、芳衛を知る人達に実際に会って集めた証言、放哉と別れた後の馨に関する新事実などが紹介されている。放哉に関心のある読者にとってはいずれも看過できない興味深いものである。本稿ではそれらを参考に、放哉の結婚のいきさつやそれに関連づけての馨の人となりや人生を考え、さらに放哉を慕い続けた芳衛の人生にも想いをいたしてみたいと思う。なお、放哉の妻かおるは「馨」の表記が正しいとされているが「薫」と書いたものも多いので、引用の際は原文のままにした。また引用文に付したページは『暮れ果つるまで』におけるそれを指している。 |
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| 芳衛の手紙の読み方 澤芳衛の手紙は、昭和28年から34年にかけて伊東俊二に宛てて書かれたものである。伊東は『層雲』の元編集者。放哉に対する想い深く、そのことが芳衛の心を動かし、秀雄(放哉)や自分に関することが事実と異なるままで後世に伝わるのを残念に思っていた芳衛は、長い沈黙を破って事の真相を伊東に明かす決心をしたのである。 |
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| 芳衛は日本女子大学国文学部に学んだ、当時としては非常に高い教育を受けた女性であるが、一方正直で誠実な資質の持ち主でもあったようだ。また伊東に手紙を書いたのは、放哉と自らのことに関して真実を明らかにしたいということにあった。従って意図的に事実を曲げて書いたりしている可能性はまず無いとみていいと思う。 |
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| しかし、芳衛が伊東に宛てて手紙を書いたのは放哉が亡くなってから30年もの歳月が流れてからのことで、彼女が秀雄と親しく語り合った学生時代はそれよりも更にはるか遠くの昔になっていた。放哉の妻馨も亡くなって久しく、芳衛自身は一度結婚したものの子に恵まれることもなく離縁し、養子(兄の息子)と共に暮らしていた。自由律俳人尾崎放哉の名も少しずつ知られるようになってきていた頃でもあろう。そんな中で若き日を想い、放哉を恋い、遺されて一人生きる淋しさを痛切に感じていたであろう芳衛の心の中で、放哉が少しずつ美化されてきているというようなことはなかっただろうか。この放哉の美化によって、彼をとりまく諸々の事実が芳衛の記憶の中でなんらかの変質をきたすようなことはなかっただろうか。そのような可能性を、彼女の手紙を読んでいて私はいくどか感じた。そして、芳衛の手紙を読むにあたっては書かれたことをそのまま受け取るのではなく、書かれたことの裏に潜む真実をさぐりあてることが必要なのではないか、という気がした。 |
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| 坂根とし(寿子)の画策と馨の結婚 だがその一方で、“これは本当のことだな”と直観的に確信した内容の手紙もあった。そのひとつを以下に示してみよう。 |
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| 毎日のやうによこす彼(秀雄のこと 根本註)の手紙を坂根さん(薫さんのお母さん)は開封して見られます、いつかも難波さんから来た手紙(中略)も開封して見られたりするので、兄も秀もとてもふんがいしてゐました、いやな人だと嫌って嫌ってゐました、そして一方、兄と秀とに自分の娘らをもらはせやうと、やっきになってゐられました、二人は迷惑をもしてをりました、(昭和28年9月11日付) |
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| 私がいくつかの文献を通して思い描いた坂根とし(馨の母)とは、まさしくこのような人物であった。女手一つで子供達を育て上げたしっかり者、その一方で人の感情などに対してはドライで計算高く行動できる性格の持ち主、といった感じの人間である。 |
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| そんな性格のとしが娘の馨を秀雄と結婚させようと画策する。芳衛はとしが経営している下宿屋に住んでいたが、その芳衛が秀雄と「江ノ島行き」を決行した時、としは玄関まで出て「行ってらっしゃい」と見送っているし、芳衛にきた手紙は開封して彼女の動向に目を光らせたりもしていて、秀雄が好きなのは芳衛であることを十分承知していた筈なのにである。「どうせ二人はいとこ同士で結婚できないのだから構わない」ということなのだろうか。 |
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| 秀雄も芳衛の兄静雄もこの坂根としの動きに“迷惑をもして”いたというが、結局秀雄は馨と結婚することになる。“自分は芳をおいては誰だっていゝのだ坂根の娘だって何だっていゝのだ、あんなにいふのだから薫をもらってしまおう”(108ページ)といっていた秀雄だったとはいえ、としの事の運び方はよほど巧みだったのだろう。 |
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| 馨の姉太中みどりの証言 この結婚に関して馨の姉太中みどりは次のように述べている。 |
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| 鳥取に帰って後、かほる女学校卒業後まもなく尾崎より是非かほるをくれとの事なりしも、当時坂根は父を亡くしてとても当時の学士様の嫁にやるような支度は思ひもよらず、秀雄の学歴としてはどんな良い処からでも望みのまゝ故かたく断りました由なれども、親も本人も是非裸のままでよいからとの切なる申入れに、遂にやることにきめました由。(「書簡」『放哉』所収) |
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| これは虚偽を述べているのだろうか。私はそのようには思わない。 |
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| 人間には誰しもそれぞれの立場があり、異なる考え方、感じ方があるから、話をするにしても力点の置き方、言葉の選び方が違ってくる。同じことを語ったとしても、発言する人によって話の内容やニュアンスが大きく違ってくることも当然考えられる。つまり、この証言を私は次のように解釈する。 |
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| 秀雄と馨の結婚を強く望んだ坂根家であったが、だからといって秀雄からの結婚の申し込みが実際にあったとき、揉み手をして「待ってました」とばかりにすぐ承諾するような対応はできなかったのだろう。そこで秀雄が前言を撤回しないように注意深く言葉を選びながら「釣り合いが取れないのでお断りしたい」と一応答えたのだろう。坂根家の方策は成功し、秀雄は再度結婚の申し込みをし、馨との結婚が決まった。しかし「一旦断った」という事実は残った。太中みどりは坂根家の誇りを保つためにこの事実を強く押し出し、前記のような証言になった、ということである。彼女は嘘は言っていない。だが聞き手が受けるニュアンスは実際とはずいぶん違ったものとなってしまっている。 |
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| さて当の馨であるが、秀雄と芳衛のことに関してはなにかしらあるとは感じていたかもしれないが母親のとしに詳しく説明されることはなかっただろうし、東京帝大卒のエリートとの結婚となれば、頼りにしているしっかり者の母親の意向に逆らってまで拒否する理由など何もなかった筈である。むしろ、誇らしい気持ちで承諾したものと私は推測する。 |
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| けれどもこの結婚は、周知のように決して平穏なものではなかった。夫が順調に出世し、馨にとって得意の時期も最初はあっただろう。だが、仕事はできても周囲の人間とうまく関わることが出来ない、酒癖が悪くそれでしばしば失敗する、そんなことの繰り返しで夫は会社を馘首になり、さらに病気にもなり、結局二人は別れて放哉は一燈園を皮切りに放浪生活に入り、馨は自活を余儀なくされるのである。 |
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| 馨に対する否定的評価 『層雲』関係者は、井泉水をはじめ馨のことを良く言わない人が多い。だが夏目漱石の妻鏡子が悪妻にされた前例もあるように、これらの多くは放哉の側に立っての見方であるため、公平さを欠いていると考えていいだろう。 |
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| 芳衛の手紙のなかでも、馨は厳しく批判されている。着物を借りる時、空手で来たと思われたくないので大きなボール箱を持って来たこと、放哉の姪が亡くなったとき大仰に声をあげて泣き叫んだこと、放哉が馨と一緒に心中しようとした時断ったこと、南郷庵の放哉を一度も訪ねなかったこと、等々だ。また、次のような手紙もある。 |
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| これもやはり従姉からきいた事ですが、秀さんとこへまあ一度行って御らん、まるで、長屋住まゐよ、いつも一升びんがころんでゐて、長ぎせるがなげてある、何にも家庭らしい意気にふれられない、とね、(昭和28年9月16日付) |
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| この手紙を私は次のように読み解く。馨にあまり好感を持っていない人物が放哉の家を訪れた時、たまたま放哉は酒を飲んでいた。かなり酔っていて、座は乱れていた。あるいは馨も付き合っていくらかは飲んでいたのかもしれない。だが主役はあくまでも放哉である。その乱雑な様に驚いた訪問者は、馨に対する反感と芳衛に対する同情から、その時の放哉家の様子を、嘆きと共に大仰に芳衛に伝える。この話は時間が経過するうちに芳衛の頭の中で少しずつ変わっていき、場面からは飲んだくれて乱れる放哉は消え、だらしない馨だけが残る。 |
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| この手紙が馨を批判しているものであることは明らかであり、従って私はこのように解釈する。 |
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| 芳衛からみれば、馨は放哉の妻として至らない点だらけの不快な存在だったようだ。もっとも馨に対する見方が厳しくなるのは、芳衛の立場としては当然のことだろう。 |
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| しかしながら馨に対する芳衛の批判は、教養のある者がないものに対して、育ちのいい者がそうでない者に対して、豊かな者が貧しい者に対して、向ける類いの批判である。つまり概して余裕のある者がない者に対して向ける非難であり、嘆きなのである。 |
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| だが、余裕のない者だって、彼等なりに少しでも良いようにと必死なのだ。芳衛の目にはどのように映ろうとも、馨は夫の面目を潰さないように、自らの誇りが保てるように、懸命だったのだと思う。様々な場面の馨の様子に、私は哀れさは感じても、非難したり嘆いたりいわんや嗤ったりなどすることはできない。 |
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| 馨に対する肯定的評価 一方、馨を肯定的に語る人も少なくない。馨に可愛がられた放哉の姪森田美枝子は次の様に述べている。 |
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| やさしい、ということを体にかいた様な人柄で、放哉の申しますことに口ごたえ等とうてい出来る人ではないのです。(中略)かおる叔母は生れつき色白い人に加えて東京育ちのハイカラであったため、ごかいされているのです。お酒のみの主人の為に質屋通いと、鳥取への送金たのみのくり返しの東京での新婚時代だった様でございます。その上にこの叔母の特長というか返って損な役割りをしましたのは、無口なそしてスローモー的なことでしょう。(「手紙」『放哉』所収) |
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| この森田に限らず、馨を知る人は“異口同音に彼女がおとなしくて従順な人柄であった”(121ページ)と語っている。また井泉水の「放哉を葬る」を読むと、放哉が亡くなった時、大阪からいちはやく駆けつけた放哉の妹なる人物(実は妻馨)は、慎み深くでしゃばらず、しかも必要なことは黙々とこなしていて、実に立派だという印象を受ける。井泉水はこの文を書いた時点ではこの女性が放哉の妻だということには気付いていなかったのだから、馨の態度に対しても感じたままを記したと考えていいだろう。 |
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| 馨は放哉と別れた後、東洋紡績の四貫島工場で女工たちの世話掛りとして働いたが、井上一二(文八郎)はその著書『秘録東洋紡績招致私記』で、東洋紡績の関係者が「かほる女史は美人で、しっかりしていてなかなかよくやった」と語ったことを紹介している。 |
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| 次に掲げるのは、馨がチブスにかかった弟の看病で自分も感染し亡くなったことを告げる『東洋家庭時報』昭和5年3月15日の記事である。「恨み永へに長し 尾崎世話掛」と題された長文の中から引用してみよう。 |
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| 皆様に、あまりにも突然、痛恨極みなき悲報を御知らせしなければならなくなつた事を残念に思ひます。…… |
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| 我が子の如く可愛がつて下さつた幾千の娘達に臨終を見守られる事もなく、末期の水に唇をうるほしてもらふ事も出来ず、奥まつた病舎の中で障子戸越しに彼方大阪の空を見つめながら、幻に浮ぶ育て子の姿を追ひ求め、娘達の健康と幸福を最後の祈りとして、三十八の短命を一期に来んぬる春に背き一人心淋しく逝つてしまつたその時の尾崎さんの心胸こそ涙の種である。 |
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| 二月六日には寄宿舎に来て居られた尾崎さん、親切で没我的に働いて下さつた尾崎さんはなくなつたのだ。六日の一時間が永久のお別れであつたのか。 |
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| 明るく快活な尾崎さんのお姿は寄宿舎のどこのも見出だせなくなつたと思へば又しても悲しみと、淋しさと、なつかしさが胸に湧き上つて仕方がありません。 |
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| 茲に私共は御存命中尾崎さんが教へて下さつた事どもを遺志と仰ぎお互に励み合つてせめてもの御慰め御報ひにしたいと共に固く合掌して地下の尾崎さんの冥福を祈る次第でござゐます。 |
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| この文に続いて、追悼会には女工が一人残らず参列したことが報告されている。この記事を初めて目にしたとき、私はその悲嘆のトーンの強さに胸を衝かれた。儀礼的な訃報記事ではこうはなるまい、馨は女工たちによほど慕われていたのに違いない、そう感じたのである(註)。 |
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| 彼女はもともとやさしい性格の持ち主だったようだが、放哉との結婚生活を通してかなしいもの、弱いものに対して他人事とは思えない切実さを感じるようになり、より親身なこまやかな感情を持って接するようになったのではないか。紡績工場の女工たちにとてもやさしかったという馨の心奥を想うと、哀れさに心が痛む。 |
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| 妻としての心構えのできていた馨 馨の母としは、娘の結婚生活が多難なものであることを知った時「いったん結婚したからには、娘は煮ても焼いてもご自由になされて結構」と語ったというが、坂根としという人物を表わす興味深い言葉のように思われる。としは計算高い現実的な側面もあっただろうが、仕事はきちんとやる責任感の強い人物で、子女の躾けも厳しく甘えなどは許さなかったのではないか。そしてこのような母親に育てられた馨は、母親の期待によく応え家庭婦人としての心構えはしっかりとできるような女に育ったのではないかと思うのである。放哉が満州や朝鮮で病気になった時、馨が献身的に看病したのは有名な話であるが、これなども放哉に対する馨の純粋な愛情というよりは、彼女が妻としてやるべきことをわきまえていたということを示す出来事のように、私には思われる。 |
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| 馨を愛し頼りにしていた放哉 献身的でやさしい、そんな馨に、結婚当初は“芳でなければ誰でもいいのだ”などといっていた放哉も、徐々に彼女を頼りにし愛するようになったようだ。放哉が放浪生活のなかで友人、知人に宛てて書いた書簡を読めば、彼がどんなに馨を恋しがり、彼女が病んで独り住む自分に手紙を寄越しもしなければ訪ねても来ないことを淋しがったかを推測することは、別に困難ではない。しかも新たに発見された放哉句稿によって、そのことはさらに確かなものとなった。妻へのいとおしさの感じられる句、妻と共有した情景を懐かしむ句、身を寄せあった夫婦の姿が浮かんでくる句、などたくさんの馨を詠んだ句が作られていたのである。12年間の結婚生活を通して、放哉は馨を愛し頼りに思うようになっていたと考えられる。 |
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| 馨は放哉を愛したか それでは馨はどうか。彼女も夫放哉を愛していたのだろうか。 |
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| 馨は放哉とのことに関しては何も語らず沈黙したまま亡くなった。一方、放哉には夥しい数の書簡があり馨のことにも何度か触れているが、その中に興味深いものがある。 |
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| 妻は矢張り遠方に離れておりますが、例の『手鍋さげても』といふ徹底生活を好まないのです。矢張り『体面論者』であります。彼女に「手鍋さげても」が出来ない所以は、蓋し私の「人格」の「小サイ」結果でありませう。私に「誠意」が足りない結果であらうと思ひます。彼女の手紙には、イツもキマツタ様に、……『私は、必職業生活をしてお金をもうけて、そして私を引き取って、昔日の豪奢(?)な生活をさせてあげます。それ迄は必待つて居なさい』と申して来るのであります。……私は「勇気」に於て「熱勢」に於て、常に彼女を謳歌して居ります、そして感謝して居ります、そして、常に健全なれ、幸なれと毎月オ大師サンに合掌する事を忘れないので有ります。御承知の通りの美容を洋装に包んで《満州に居たとき、ハルピンや長春では彼女はよく洋装をして、平気でケトーの間をトンデ歩いて居りました。……コウ書いて居ると其の姿が目の前に見える様であります》(大正14年8月24日付 小沢武二宛) |
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| ここには従順に夫に従うだけではない、別の面を持つ馨の姿がある。 |
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| また放哉と馨の関係で、常々私の気になっていることがある。馨は、自分と結婚した後も夫が芳衛と会っていたことにある時気がついたのではないかということ。さらに馨が自分の意思で夫放哉と一緒に一燈園に入園することを拒んだことなどである。 |
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| こういったいくつかの事柄を総合して考えてみて、私は馨が放哉を愛していたかという問いに対してどちらかというと否定的な答えを持つに至った。彼女を放哉につなぎ止めておいたものは、愛情というよりはもっと別のものにあったような気がしたのである。 |
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| 馨を放哉から去らせなかったもの、それは夫と共有する記憶の数々であり、また夫に対する惻隠の情ともいうべきものではなかったのか。 |
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| 10年以上もの間生活を共にすれば、多言を弄さないでも夫と妻の双方に共通に蘇ってくる記憶は少なくないだろう。平穏に幸せに過ごした夫婦には幸せなりのすてきな記憶があるかもしれない。だが、波乱の多い必ずしも幸せばかりとはいえない生活を送った夫婦にも、それだけになおのこと、自分たちだけにしかわからない記憶があるのではないだろうか。馨にとって放哉と過ごした12年の歳月は、彼女が大人になってからの大半であり、彼女の人生そのものともいうべき重たさをもっていたのではないか。その記憶、体験を共有する放哉と別れる気になどなれなかったのだろう。 |
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| また、有能でありながら人間関係をうまく処することができず苦しみ挫折し乱れる夫に、ふがいなさや腹立たしさを覚えながらも、夫の話を聞けばやはり彼の方に理があると思ってしまう、そんなことの繰り返しの中で、徐々に夫に対する惻隠の情が生れてき、とても夫を一人置いて出ていくことなど出来なかったのではないだろうか。 |
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| そういった感情も愛情のひとつではないか、という人もいるかもしれない。私はただ、馨が放哉に対して抱いていた感情は、単純に〈愛情〉という言葉で言い切れるようなものではなかったといいたいのだ。 |
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| 芳衛の正直さ 馨のことばかり書いてきたが、実際のところ私は芳衛のほうにより惹かれている。聡明で正直で、きれいで、放哉を一生愛し続けた芳衛。 |
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| 『暮れ果つるまで』のなかの芳衛に関する部分で私が特に心打たれたのは次の手紙である。 |
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| 「秀さんも結婚し、友達もみな嫁いでしまったのに……」母のなげきは……見てはゐられなくなりまして 私もとうとうあの大事な大事な手紙を凡てやく事と決心いたしました、けれど何か後めたさ心地おさへがたく、私かかういふ訳のある人間といふ事を間の友達から先方にいってもらひました、処がさうしたしっかりした人ならかまはない、といひましたとかにて話はまとまってしまひました(昭和28年9月22日) |
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| 芳衛の何という正直さ、誠実さであろう。結婚相手に「自分には思い切れない人がいる」などといって何の得になろう。単に自分の立場を不利にするだけでなく、相手の心をも傷つけてしまう。正直になったからといって何もいいことはない、そんなことは芳衛には十分にわかっていた、なのに言わずにいられなかったのだ。聡明な芳衛のこの愚直ともいえる誠実な行為に、私は思わず溜息が出る。 |
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| 芳衛の離縁の理由は明らかにされていない。でも、私には芳衛のこの結婚前の告白が何らかの影響を与えているような気がしてならない。相手の和田某なる男性は芳衛を愛そうとしながら頭の隅からそのことが離れなかったのか、それとも芳衛の心の中に厳として存在している男を感じて絶望したか。いずれにせよ、芳衛の正直さは一人の誠実な男性を不幸にしたともいえる。 |
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| 芳衛は幸せだったか 放哉を一生愛し続けることができた芳衛は、結果として幸せだったのだろうか。それともあわれな淋しい一生を過ごしたとみるべきなのだろうか。 |
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| 放浪生活に入ってからの放哉の心の中に、果たして芳衛は存在していたのだろうか。小浜時代の句稿の中に、つぎの2作品が並んでいる。 |
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| 傘をくるくるまはして考え事してゐた |
| 好きな花の椿に絶えず咲かれて住む |
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| これらが芳衛のことを詠んだものという小山貴子の推論は納得出来るものである(「鉄耕塾へ」参照)。また南郷庵時代の句稿に〈鳳仙花の実にはぢかれた長いたもとだ〉というのがあり、小山は“芳衛の面影を抱いて詠んだものではないかと思う”(33ページ)と述べている。だがこの見方を容れても、それ以外は芳衛を感じさせるような作品は見当たらない。妻馨を詠んだ作品はいくつもあるにもかかわらずだ。 |
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| 小豆島で熱にうなされながら臥せっている放哉が恋い求めたのは、結婚生活を共にした献身的な妻馨であった。彼が芳衛と親しく語り合った学生の日々は遥かに遠い記憶の彼方であり、死を間近にした南郷庵での放哉には、芳衛はもはや存在していなかったのではないか、というのが私の考えである。 |
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| そのように思い至った時、放哉を一生愛し続け、放哉に殉じた芳衛がなんとも哀れになってくるのである。 |
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| (註) | 自由律俳誌『随雲』平成11年10月号に載った「尾崎放哉の妻馨 その晩年について」(小山貴子)は、東洋紡績時代の馨に関してこれまで知られていなかった多くの事実を明らかにしている。 |
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| (2000年5月31日発行) |
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| 発行人 根本啓子 |