水燿通信とは |
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172号南郷庵における放哉の生活書簡と『入庵食記』の対比から見えてくるもの |
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尾崎放哉が友人、知人に宛てて書いた書簡──主に京都の一燈園を皮切りに各地の寺を転々とした生活の中で書かれたものであるが──は私にとって読む度に異なった印象を受ける興味深い読み物である。特に終焉の地となった小豆島南郷庵で書かれたものは、その数の多さ、放哉をとりまく人間関係の多様さ、死に向かって進んでいく放哉の状況などによって他の時期の書簡を圧倒している。 |
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最近私は、この時期の書簡がどのような生活、健康状態の中で書かれたのか、より正確に具体的に知りたいと思い、絶えず『入庵食記』を参考にしながら同書簡を読んでみた。そして南郷庵時代の書簡を読了した今、これまで気がつかなかった様々な事実が浮かび上がり、放哉という人物に対する印象も大きく変わってきたことを感じている。(以下『入庵食記』は『食記』とする。なお、繰り返しの文字記号などで原文通りにワ−プロ対応できない箇所が若干ある) |
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尾崎放哉が小豆島の南郷庵に入庵した当初は“何分、巳ニ四十歳ヲ超ヱマシタノデ、ハゲシイ労働ハ、到底、ツトマリマセン”(8月11日付、井上一二宛 京都、荻原井泉水方より)ということであったにしろ、一応庵の掃除や留守番位は可能な体の筈であった。しかし実際には、食費を節約するために入庵早々始めた焼き米・炒り豆・梅干し・ラッキョ・ゴマ塩・番茶ガブガブの粗末な食生活のため、他に豆腐を買ったり、時折り井上一二宅や西光寺からもたらされる御馳走や句友から送られてくる缶詰、お菓子などが加わることがあったにしても、程無く体力は甚だしく減退し、立ち上がるとフラフラするような状態になった。さらに入庵間もないころから咳に悩まされる日々だったようだ。 |
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・ | 風邪、ナヲラズ、痰、咳……ヱライ事也……死ヌ哉 呵々(『食記』10月17日) |
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・ | 入庵以来、風邪ガモトデ(略)巳ニ一ケ月位ナホラヌ……益々ワルク、昼モ夜モ、咳通シデ、痰ハ出ル……夜ハ寝ラレズ……之デイヨイヨ死ヌカナ(略)旅人君ノ家ニタノンデヤツタ処ガ……其ノ症状デハ「急性気管支炎」ラシイトシテ、「薬」ヲ送ツテクレマシタ。大イニ感謝(略)旅人君ノ「神薬」ヲ呑ンデヰルト、大イニヨクナツテ来タノデス。今日ナンカ非常ニヨロシイ故ニ、決シテ御心配御無用御無用〃(同月18日付、荻原井泉水宛) |
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・ | 愈、西光寺サンニタノンデ医者ニ行ク、木下氏──左肋まく、ユチヤク、呵々 大ニ呑ム 不時ノ熱ヲ如何セン 木下氏曰ク、アンタハ、ガマン強イ、ソレガイカヌ、──今后、午前二時間位、休ム可シト…… 俺ハ(ルンゲ)?……死ンダ方ガヨイ、(寐テオラレルモンカ、ボンヤリシテ)呵々 (『食記』同月20日) |
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井泉水宛の書簡では、師を心配させまいとする放哉の気遣いが感じられる。しかし20日の『食記』を読むと、肋膜という病名をはっきり下されたことは、覚悟していたとはいえかなりショックだったようで、自分はやはりルンゲ(結核患者)かと疑っていることがわかる。「大ニ呑ム」の意味は深長だ。小豆島に渡った時、放哉は海に近い暖かい所に住めるということで、一方では死を覚悟しつつもあるいは治癒するかもしれないと微かな期待を持っていたことも考えられる(註1)。しかしそのわずかな望みも断たれ、絶望的な気持ちで酒をあおったのだろうか。 |
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風に関する記事が『食記』に出てくるのは12月19日が初めてで、以後、「強風 暴風」の文字がほとんど毎日のように現れるようになる。島でも60年振りという猛烈な風と寒さの日々となり、放哉の病気は急激に悪化していく。そんな中で久し振りに風が落ちいい気持ちになった同月26日、放哉は妙に風呂に入りたくなり、実に4か月振りに銭湯に行く。そして姿見に写った自分の体のあまりの痩せように驚く。 |
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イヤ、痩セタリナ、ヤセタリナ、マルデ骨皮也、コウ迄ヤセタトハ思ハザリキ、之デハ最早ヤ、労働肉体勤務ハ出来ヌ、コウシテ死ヌ外ナシ(略)十貫目モアラザル可シ 呵々、呵々 (『食記』12月26日) |
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年が明け一月も半ばになると、床に臥せっていることが多くなり、次第に食も細くなっていく。2月に入ると、度々お腹の具合が悪くなり、『食記』に「便 シャリエン イタム 下痢」といった文字が頻出するようになる。さらに3月になると、喉の痛みでほとんど何も食べられなくなる。このように病状は急激に悪化し、ついに4月7日、待ちわびた春のあたたかさを享受することもなく亡くなるのである。 |
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つまり、放哉の南郷庵での日々は、その当初から体調の良い時などほとんどなかったといえる。そんな中で放哉は夥しい数の書簡を書いた。一日に幾通も、時には同一人物に宛てて同じ日付けの複数の手紙を書いたりした。何故これほどまで多くの手紙を書いたのか。 |
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無言、独居を望みながら、同時に人一倍さみしがりやだったからともいわれるし、異常ともいえる程、筆まめだったからともいわれる。句友との手紙のやりとりが、南郷庵での放哉の唯一の楽しみだったからという見方もある。確かにそういった側面もあろう。 |
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だが、果たしてそれだけか。 |
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そもそも、圧倒的に多くの書簡を受け取った飯尾星城子とはいかなる人物だったのか、放哉とはどのような関係にある人だったのか。 |
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星城子は福岡県に住む『層雲』の同人だが、放哉が夥しい数の書簡を出した(そしておそらく受け取る手紙の数も相応に多かった)相手であるにも拘らず、2人が実際に会ったのは放哉入庵間もない9月22日、星城子が南郷庵を訪ねた時が初めてであり、その後2人が再び会うことはなかった。つまり、長い付合いのある友人といったものではなかった。その程度の関わりだった星城子に、放哉は送られた句の選や批評をし、頼まれれば何枚でも短冊を書き、また星城子の母親の病気が早く回復することを願い、商売がうまくいくことを祈り、彼からの便りが少しとぎれるとすぐ“淋しい”という葉書を出した。 |
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だが、こういった親しみをみせる一方で、星城子が『層雲』に放哉の経歴をつけて庵訪問記を発表しようとしたときには非常な不快感を示し、『層雲』の編集人に次のような書簡を書いている。 |
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実は、此の男、……此間も、私の『本人に対する私信』をある田舎の雑誌に、私にだまつて発表したので、大に憤がいして叱つてやつた処です。──兎角、田舎の人は困るです、(10月25日付、小沢武二宛) |
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この冷やかな物言いや星城子に対する強い非難のト−ンを考えると、あの夥しい書簡は、決して心からの親愛の情を持つが故に書かれたとは思えなくなる。少なくとも親しさや楽しさだけで書かれたとは考えられない。 |
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では、何のために書かれたか。 |
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私はそれをパトロンとして星城子が最も頼り甲斐があったからだと考える。つまり、放哉は病気の体ながら少しでも多くの金品を得るべく、彼なりの方法で必死で働いていたのだ。 |
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このことは、句の批評を依頼する代わりに定期的に“炭代”を送っていたグループの代表島丁哉に対する書簡の多さからもうなづける。この島とは、放哉は一度も会ったことがない間柄なのだ。 |
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これらパトロンとして力になってくれる人に対して放哉は、率直で厳しく(“にべもない”という形容をした文をみたことがあるが、私はそうは思わない)しかも丁寧に作品の批評や選をしている。その厳しさに沈黙し、以後句を送ってこなくなった人もいたようだが、それでも放哉は自分の態度を変えなかった。 |
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只○ヲツケテ、チヨイチヨイ評語を入れて、……御返しして居れば、ソレでまあよい様なものですが、放哉にはソレダケでは不満足なのです……即少なく共、日一日と諸君の俳句も進歩してもらひたい、うまくなつてもらひたい、之は私として不得止る希望では無いでせうか。ドシドシ上達してもらつたらドンナに嬉しいだらう? (月日不明、島丁哉宛) |
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誠実で正直な、しかし必ずしも世渡り上手とはいえない放哉の一面が窺えるような書簡である。 |
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また頼まれれば短冊を書くのも厭わず、病勢がすすみ体温が常時38度もあるようになってほとんど床に横になっているようになった1月下旬ですら、1日で50枚もの短冊を書きとばしたと、手紙で語っている(1月20日付、杉本玄々子宛)。 |
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放哉は必死だったのだ。体調のいい時期はほとんどなく、それどころか悪くなる一方だったのだが、そんななかでも井上一二や西光寺、荻原井泉水などになるべく迷惑をかけない為に、俳人としての自分を評価し教えを乞うてくる句友から少しでも多くの金品を出してもらうべく、力の限りを尽くしていたのだ。 |
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南郷庵に住むようになった放哉は、井上一二、杉本玄々子、荻原井泉水宛の書簡の中で、たびたび“長年の願いだった無言、独居、門外不出の生活ができて私は幸せ者だ”と感謝の言葉を述べているが、実際は決してそれ程のどかなものだったわけではない。こういった視点に立つと、『食記』10月20日に書かれた「寐テヲラレルモンカ、ボンヤリシテ」も意外に深い意味を持っていることに気付くだろう。 |
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そしてそのような状況を考慮に入れて荻原井泉水、杉本玄々子、井上一二に宛てた書簡を読んでみると、心ならずもお金や物品の工面を依頼せざるを得なくなった放哉の、相手に対する気遣い様が痛々しいまでにみえてくる。 |
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このように気を遣うところにはひどく遣う一方で、甘えられる相手にはとことん甘え、あれがほしい、これがほしいとねだり、金を無心している。そればかりか、最も親しく関わった星城子に対しては、溝にはまって汚れたまま2か月も空の炭俵に押し込んで放っておいた異臭を放つ着物を、奥さんに洗ってほしいと送りつけるという、信じがたいような甘えっぷりまで示している。放哉のどうしようもなさを論ずる時によくとりあげられる、あまりにも有名な話である。 |
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食べ物に関する書簡には、この時期の放哉の特徴がくきやかにあらわれている。 |
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啓、催促がましくつて、はづかしい気がするけれ共、フト、今夜思ひ出したので通知して置きます……アンタの御記憶の中に留めて置きたいと思つて……ソレハ大阪によく、コブのオ菓子がありましたなあ……十文字に結んだりナンカして其の上に砂糖を白くかけたり(略)などした、オ菓子がありましたなあ……アレガたべたいナア……フト思ひ出すと盛にたべたい、ソレデ早速、筆とりました次第。サヨナラ。(12月28日付、田中井児宛) |
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彌生書房刊『尾崎放哉全集』ではこの書簡のあとに編註があり、『放哉書簡集』から引用した次の文が紹介されている。 |
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(井泉水付記、久しき以前に好物なりし物を思ひ出して食べたがるは死期近きしるしなりと、井児氏の父君話されし由、之も其の死後に聞きし所なり)(註2) |
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この後の放哉の食に関わる書簡には、見様によっては意識の半ばはこの世にないような、どこか異常な感じのするものがある。その中でもとくに注目されるのは2月5日付、星城子宛書簡である。この中で放哉は、近くの木下医師が下した病名──△湿性肋膜炎、ユ着後ニ来ル肺結核。△合併症、湿性咽喉加答児──を告白し、このことは薬をタダでもらう関係上山口旅人君(俳句仲間、医師)には知らせたが、それ以外は“君一人ダケ”と語る。そして医師に“大に滋養分を吸収する事”と言われたが、そんなことは乞食放哉にはできないといい、さらにこう続ける。 |
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……但し放哉……ウマイ物は人間同様矢張りウマイ……殊に牛肉ハ大好物也……之が百目、四十五銭しますよ、呵々(略)それでコレは、ほんの放哉と君との中故打ちあけ話しをしますれば……君の商売の方の都合でも、少々うまく行つて、少しの、(ポケツト、マネー)でも残つた時(若しそんな時があつたら)、そして、放哉ノ事を思ひ出してくれたらホンの折々……思ひ出したときに其、ポケツト、マネーの幾分を……所謂滋養物……牛肉代として、送つてくれませんか……と云ふ御願也。……特別ニ考えてくれなくてもよいですよ、必ず必ず……心配してくれますな。只前述の様な場合が、アツタラ……其の時々……少しを、割いてくれませんか、……と云ふ御願也 (大正15年2月5日付、星城子宛) |
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そして(おそらく星城子からの手紙で)星城子が仕事で留守中と知るや、7日には夫人宛の手紙を書き、先のご主人に宛てた書簡を転送してほしいと頼むのである。牛肉を食べたいという願望がもう一刻も待てないというところまでせっぱつまったものになっていることがうかがわれる。 |
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ところが驚いたことに同じ7日、住田無相(一燈園時代の知り合い)に宛てた手紙でも病名を報告し、“何と申しても死期は早くなりましたよ、呵々。此の結核は神戸の医者の同人と私とあなたの三人知るのみ、荻原井師には内密にしました、呵々”と結んでいるのである。 |
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これらの手紙の無心する様を醜いといい、複数の人間に対して“自分だけ知らされた”と思わせる手口の巧妙さを指弾するのは易しい。 |
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だがこれを、一般に死を目前にした人間が必死で自分の最後の願いを叫んでいるものだと考えたらどうなるだろう。身近に居る家族は死にゆく病人のそんな願いを何としてでもかなえさせてやりたいと必死になることだろう。 |
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しかし放哉の場合は──家族もなく貧しい放哉の場合は──そんな病状の時でも、筆を持って手紙で訴えない限り、何ひとつ手に入らなかったのだ。 |
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そう考えた時、ここに浮かんでくるのは、狡猾な放哉でも、不快な手紙を書きまくった放哉でもない、孤独でひたすら哀れな放哉だ。この時の放哉の心情を想うと、あまりのいたましさにこちらまで辛くなってくる。 |
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3月9日付、藤森裸人宛書簡では、藤森に送ってもらった菓子を褒め、“ドシドシ片付けて居ります”と語り、同時に俳句の選や藤森たちの句会に放哉がどのように関わったらいいか、積極的に意見を述べている。だが『食記』3月13日の記述によれば、この頃は「大分以前ヨリ、咽喉イタク、ハレ、声出デズ、シヨム……ウマイ物ガタベラレズ(がき道ナリ 呵々……」という状態で、しかも歩行も困難になっていた。 |
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食べられず動けずの状態で日ごとに病いは篤くなり、いつ死がおとずれても不思議ではない容態になっていく。そんなある日、放哉は次のような手紙を書く。 |
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此頃、放哉、ウマイ煙草が命がけで呑みたい、紫の煙りがかぎたい、アゝあのよい匂ひ、乞食放哉に勿体ない事なれ共、実は此の頃、ヤハリ病気のセイでのどがいたくて、ウマイ物は一ツたべられないのです、ソレデ、勢(タバコの匂ひ)に殺到したワケに候、(略)放哉満州に居たとき税金がカゝラヌので盛に愛用したのが(スリーキヤツスル)(略)大兄なり裸木兄なりその他二三氏放哉をニクマナイ人から五十銭だま一つ位宛ホリ出してもらつたら(スリーキヤツスル)か(M・C・C)が一罐位は直に出来る事受合。……たまたま(病乞食放哉病気見舞)と云ふ処で、……大至急、おねだり申します、アンタを代表者としてねだります、(略)夢に見る(よい匂ひ)……お願お願お願サヨナラ。(3月19日付、小沢武二宛) |
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翌20日にも同様の書簡を井泉水に送り、武二らとはかって是非一罐送ってほしいと頼む。ここにも先の牛肉の場合と同様、もう一刻も待てないというせっぱつまったものを感じる。そして程なく放哉は送って貰った外国煙草を楽しむ。 |
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ツイ、うまい、フト青い鑵を握つて居るのです、呵々。ドンドン吸ふので心細いが……カウ云ふものに「をし気」があつたら味はサツパリなくなりますから……大いに、大臣気取りで、スパーリスパーリ一人でくゆらして、味をかみしめ、紫煙の行方をなつかしんで居りますよ、アノ藤の椅子が一ツあつたら、ソレにからだを長くのばして吸つたら、ウマイだらうなあ……と思ふのです……(30日付、井泉水宛) |
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喉がなにものをも受け付けなくなり、死も差し迫った目前のこととなった時、かつて喫んだことのあるあのうまい煙草をもう一度喫みたいと願ったからといって、誰が非難できよう。そしてその願望の切実さは、最早この世における気遣い、遠慮などといったものをはるかに凌駕するものであったのだろうと思う。紫煙をくゆらせながら、放哉は今生での最後の至福の時を過ごしたに違いない。それにしても読むのが辛くなるような切ない手紙である。 |
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尾崎放哉の作品に魅かれながら、私は放哉という人間そのものに魅力を感じることなど、これまでほとんどなかった。むしろ、近寄りたくない嫌なタイプの人間だと思っていた。しかし、南郷庵から出された夥しい数の彼の書簡を『入庵食記』と対比させて読み終えた今、私にとって放哉は、孤独でいたましいそして心惹かれる存在となりつつある。 |
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(註1) | 小豆島土庄出身で井上一二の甥でもある、高松市在住の歯科医細川實(故人)は、『「放哉」と「一二」と』という文(「大師市瓦版」第15号に掲載 昭和62年12月21日発行)のなかで、次のように述べている。なお小豆島では毎年4月と12月に西光寺のお大師さまの祭りがあり同寺門前には市が立って賑わうが、その際に発行されるのが「大師市瓦版」で、島の全世帯に配られる。 |
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……放哉が島を訪れた大正の末期には、海浜こそが(結核の治療に 根本註)最適地であると硬く信じられていた頃だから、十に一ツ、結核が治癒するのでは、と放哉は微かな期待をかけていたのではあるまいか。九分通りの死を覚悟し、一分の奇跡を信じ、時には自暴自棄となり、酒に身を浸した放哉の葛藤が理解できないこともない。… |
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(註2) | 私自身にも似たような話を聞いた記憶がある。15年程前のことになるが、癌の末期状態にあった妹は、ある日見舞いに行った私に「先日、皿屋のラーメンを思い出してね。葱ばかりいっぱいのっていて別にうまいって訳でもなかったのに、心底“食べたいなあ”って思ったの」と語り、静かに笑った。妹は子供の頃病気でしばらく病院通いをしたことがあったが、その病院のそばに皿屋というラーメン屋があり、何度か食べに入ったらしい。癌の告知は妹にはなされていなかったが、私はそれを聞いてドキッとした。妹は自分がもう長くは生きられないことがわかっているのかもしれないと思ったのだ。それから半年して妹は亡くなった。 |
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(1999年9月15日発行) |
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発行人 根本啓子 |