水燿通信とは |
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169号『暮れ果つるまで 尾崎放哉と二人の女性』(小山貴子著 春秋社刊) |
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尾崎放哉に関心のある人にとってみのがすことのできない画期的な本が出た。小山貴子著『暮れ果つるまで 尾崎放哉と二人の女性』である。 |
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著者小山貴子は、大学2年の頃放哉を知って以来、一時期を除いてずっと放哉に関心を持ち続けてきたという。大学の卒論、大学院の修士論文で共に放哉を取り上げ、放哉を直接知る人を捜しては会って話を聞き、自由律俳句実作者に自己のリズムで俳句を詠む手ほどきを受け、また、放哉縁りの地である京都、須磨、小豆島、鳥取などを訪れる……、仕事を持つ多忙な日々の中で、このような地道な研究努力を30年近くに亘って続けてきたようである。そういったたゆまぬ努力の道のりの中で、著者は放哉研究家として僥倖ともいうべき幸運に出遇う。放哉の恋人澤芳衛が放哉と自らのことについて書いた手紙(伊東俊二宛)と芳衛が持っていた放哉書簡をある人物から託されたこと、そして小浜・小豆島時代の放哉未発表句稿の発見である。 |
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芳衛の手紙を受けとった伊東俊二は元「層雲」の編集者。彼には放哉に対する並々ならぬ想いがあり、それが芳衛の心を動かしたらしく、放哉のことが誤解されたまま後世に伝わるのを心残りに思っていた芳衛は、長い沈黙を破って、真相を明かすべく伊東に宛てて手紙を書いたと思われる。伊東はゆくゆくはこれらの手紙を発表するつもりであり、芳衛もそのことを承知していた。しかし、伊東はその後起こった様々な個人的事情により発表を果たせず、結局、平成に入って、長年放哉の顕影に努めてきた鳥取在住の古川幸雄に一切の資料を託した。その古川がまた病を得たため、「放哉忌献句集」や鳥取文芸協会会員の手掛かりを求めて尋ねてきた著者に託した、このように様々な想いの籠った資料が幾人もの手を経た末に著者の元に届いたのである。まさに著者の長年の努力、放哉への想いが見事に結実したというべき出来事である。この資料はごく一部の人にはその存在を知られていたが、著者の手に渡ることにより、今回本著のなかで紹介、考察され、漸く日の目を見るに至った訳である。 |
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小浜・小豆島時代の放哉未発表句稿との出遇いもいい。これは1996年、荻原井泉水の長男海一宅に所蔵されている放哉関係の資料を整理したいからと同氏に招かれて著者が訪れた折り発見したもので、2721句に及ぶまとまった量の句稿である。放哉の句稿は散逸したものと思われていただけに、この発見は放哉に関心のある人々の大きな注目を集めた(この句稿は、小山自身の手によって整理、解読され、「随雲」1997年8、9月号に掲載された)。 |
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本著は、放哉と深く関わった二人の女性、結婚を申し込んだが果たせなかった恋人澤芳衛と妻馨に焦点を合わせてまとめたものであるが、この執筆に際して澤芳衛関係資料が役に立ったことは勿論のこと、小浜・小豆島時代の未発表句稿も大きな力となった。というのも、この中には明らかに馨を詠んだと思われる作品が散見しており、馨と放哉のことを考える大きなヒントとなったからである。著者はこれら二つの資料を中心にすえ、さらにこれまであまり顧みられることのなかった放哉の若いころの定型俳句や会社員時代の自由律俳句にも光をあて、また、放哉や芳衛、馨を知る人々の証言を聞くなどしている。こうして放哉と二人の女性に関わるいろいろなこと──芳衛と放哉の恋の成り行き、馨との結婚のいきさつ、結婚生活、別れた後の馨の動向等々──について、これまで知られていなかった様々なことが明らかになっていく。真実と思われていたいくつもの事柄の誤りが判明する。 |
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若き日の秀雄(放哉)の、これまで知られていなかった様々な事柄を知るのは興味深く、また何でもないと思われていた句が、ある事実が明らかになることによって俄然意味深い味わいのあるものに変わっていく様も、読者を惹きつけてやまない。 |
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著者は「むすび」で“(放哉の)優しさはまた弱さでもあると思う。……大事なところで人に運命を任せて自らは逃げてしまうところが放哉になかっただろうか”と述べているが、長く放哉に付き合ってきた人ならではの視点と感じる。 |
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本著のタイトルは芳衛の結婚に際して放哉が作った〈北窓に暮れ果つるまで見送らむ〉の句からとられている。哀調を帯びた美しい題を持つこの本は、放哉の研究にとって大きな一石を投じる好著といえよう。 |
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だが本著をこのように高く評価しながらも、私には読後ある不満が残った。資料の扱いにやや飽き足りなさを感じたのである。著者は関係者の証言、芳衛の手紙などの内容を、いささか額面通りに受け取り過ぎているのではないか……。 |
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例えば関係者の証言。人間には誰しもそれぞれの立場があり、異なる考え方、感じ方があるから、話をするにしても力点の置き方、言葉の選び方が違ってくる。同じ内容のことを語ったとしても、発言する人によってそのニュアンスや中身が大きく違ってくることも当然考えられる。こういった事情を踏まえて彼らの証言を考えてみた場合、語られたことの裏に潜む別の事実が浮かび上がってくることもあるのではないか。 |
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澤芳衛の手紙の場合も、内容だけでなくそれを書いた時の彼女の心情に思いを致すべきではないだろうか。 |
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芳衛は聡明なだけではなく“決して感情に走って振り返らないという人柄ではないらしく知らない点、自分のイメージと異なる側面に触れた時などには断定を避け”(同著「芳衛と馨」の項)る冷静さも持ち合わせていたという。しかも本著を読んだ印象としては、彼女は大変正直な人間だったようで、手紙を書くに際して事実を故意に曲げたりしたとは考えられない。 |
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しかし芳衛が伊東俊二宛に手紙を書いたのは昭和28〜34年にかけてのこと、秀雄と芳衛が親しく語り合った学生時代ははるか遠くの昔になっており、放哉が亡くなってからでもすでに30年の歳月が流れていた。妻馨も亡くなって久しく、芳衛自身は一度結婚したものの子に恵まれることもなく離縁し、養子(兄の息子)と共に暮らしていた。自由律俳人尾崎放哉の名も少しずつ知られるようになってきていた頃でもあろう。そんな中で、若き日を恋い、放哉を恋い、遺されてひとり生きるさびしさを痛切に感じている芳衛の心の中で、放哉が少しずつ美化されてきているというようなことはなかっただろうか。そしてこの放哉の美化によって、彼をとりまく諸々の事実が芳衛の記憶の中でなんらかの変質をきたすようなことはなかっただろうか。そういった可能性を考えた時、やはり手紙には書かれていない何かが浮かび上がってくるのではないか、という気がするのである。 |
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著者にはそのあたりを、もう少し突っ込んで考えてほしかったと思う。 |
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(1999年5月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |