水燿通信とは
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167号

井泉水再見

 尾崎放哉(おざきほうさい)という男が居た。一高、東京帝大を出、若くして保険会社の要職に付いたが、酒癖が悪く、人間関係をうまく処することもできず、会社をくびになった。結核になり、妻と別れ、寺の堂守りなどをしながらあちこち転々とした後、瀬戸内海の島で小さな庵の庵守となり極貧の中で病死した。多数の自由律俳句が残された……。
 多くの人はそんな彼を哀れな馬鹿な男だと心の中で思う。ところがそれを口に出して言う時、こんな風に言葉を変えてしまう。
社会的な地位も財産も捨て、妻も捨てて、生まれたままの裸になって自然の中に身を投じた。そして人生とは何かを問い直し、無一物の中に限りない豊かさを見出した。そこからすぐれた俳句が生み出された。(註)
 私はこの美化された放哉像にはずっと馴染めないものを感じてきた。
 放哉の作品はすばらしい。その完成度は、自由律俳句のもう一方の雄である種田山頭火(たねださんとうか)の作品のそれよりずっと高いと私は思っている。それだけでいいではないか。彼の生き方を美化する必要などないではないか。
 だからこの美化の元凶ともいうべき荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に対して、私は長い間厳しい目を向けてきた。
 井泉水に関して気に入らないのは放哉の美化だけではない。例えば彼の著書である『放哉という男』。この本そのものは実におもしろい。放哉に関する数多くの本の中でも特に興味深いもののひとつであろう。しかし、あの放哉を見下したようなタイトルは何だと思う。それに同著に収録されている「放つということ」という文の中の、一高時代の同窓であるGとの話。
「ぼくらの同級の中で、大臣になったのも五六人はいるが、今日、世間ではもう名を忘れている。現にはなばなしく活動しているものは鉄道院総裁の十河とか、学習院院長の安部とか、参議員の鶴見とか、そのほか今を時めく人たちもまだ数名はいるけれども、もう十年経つとそういう人の名も忘れられてしまうのではないか……」「…あと十年経っても忘れられない名もあるよ。それは藤村(操)だ……。それからもう一人いるよ。それは放哉だよ……。放哉は歴史的の人物になりきっている」
 この発言の前半はG、後半は井泉水のものだが、井泉水はGの発言に異を唱えているわけではなく、むしろそれによって会話が弾んでいるといった印象を受ける。Gは、例え十年後には名前を忘れられようとも、現世で出世し豊かに誇り高く生きられたほうが、堂守として乞食のような生活を送り惨めに死ぬよりはずっといい、と思っていることは確かだ。にもかかわらずこんな話をし、井泉水はきちんとそれに付き合っており、しかも自分の著書で紹介してもいるのだ、とても不愉快なこの話を。
 また西光寺の住職杉本宥玄が放哉に贈った格の高い戒名を、立派すぎるとして三文字削ったことなども気になった。
 どうして多くの人が、井泉水と放哉の関係をうるわしい師弟関係などと無邪気に信じるのだろうかと不思議でならなかった。井泉水は、『層雲』の主宰者としてすぐれた作品を生み出す放哉を重宝し利用していただけなのではないか、そんな思いがずっと消えなかった。
 ところで、私は昨年12月、小豆島にある尾崎放哉記念館(放哉が亡くなった南郷庵跡に建てられた)を訪れる機会を得たが、その後、放哉の居た当時と現在の、墓地を含む南郷庵周辺の地理の変化を知りたくなり、いくつかの文献にあたってみた。その中に「層雲」の大正15年6、7、8月号に3回に亘って掲載された井泉水の「放哉を葬る」が含まれていたのだが、この文は本来の目的に関わりのないところで大きな収穫を私にもたらした。端的に言ってしまえば、この文には井泉水の放哉を思う心情が切々と感じられ、私はそれに強く心をうたれたのである。
 放哉の訃報に接し、小豆島にかけつけた井泉水は、島の素封家で「層雲」の同人でもある井上一二(いちじ)から、火葬の届けを済ませ国元の肉親に骨を持っていってもらうことに内定していると聞かされ、次のように言う。
 私は、放哉を此小豆島の土にしてやりたく思つた。生前にあれ程に愛してゐた彼の南郷庵の近くに埋めてやりたく思つた。彼の嫌ひぬいてゐた故郷へは、骨になつても行きたくない、といふ彼の氣持が、わたしには解るやうに思はれた。彼が、私に土を掛けてくれといつてゐた事も、此島の土になるといふ豫想からであつた事が解る、と思はれた。一二は然し、死んだ上は國へ遺骨を送るのが當然だらうと云つた。私は、其當然より放哉の場合としては自然の氣持を重んじたかつた。一二は、分骨をして半分づゝとも云つた。私は、分骨といふ事其事が好ましくなかつた。一二は、あゝいふ病氣だから土葬は困るとも云つた。私は、ペストなぞいふ激烈な傳染病ならば兎も角、結核位でそんな心配はないと信じてゐた。一二は既に火葬の届を出した後だからとも云つた。私には、それは變更出來ない事ではないと思はれた。一二は、島に埋めるとすると墓地に困る、とも云つた。私は、自分の氣持からばかり云へば、島の浪が寄る白い砂浜のやゝ高みの松の下にでも埋めてやりたいのである…
 こんな具合に、島の実力者井上一二の言うことに一々逆らうような形で、自分の考えを主張している。島の墓地には他所者の放哉を埋めさせたくないという一二の意見は、彼個人のものというよりは島の人々の考えを代弁しているもので、井泉水にしてもそのことは理解していたと思われるのだが、それでも敢えて放哉をこの地に埋葬してやりたいと主張したのは、他でもないそれが放哉の望んでいたことだと信じていたからであろう。
 結局、井泉水の意見が聞き容れられ、放哉の遺骸は西光寺の墓地に土葬にされることになる。そこで西光寺墓域の何処にどのように埋葬するかを決める段階になるわけだが、ここでも井泉水のとった態度には泣かせるものがある。
 高いほど海は大きく見えるという訳で、どんどん高いところに上って行き、“墓地としてのどんづまりの所まで來て、地が細く段をなしてゐる處に、一間四方には足らないが、棺を埋めるには足る程の空地を見出した”。海が最も良く見える所で、井泉水が気に入り他の人も同意してくれたので、そこに埋葬することになった。ところが、細く段を成した所なので、参拝に便利なようにと考えると遺骸は海の方へは横向きになってしまう、海の方に向けて埋葬すると、参拝する人は一段下の所に立って仰いでしなければならなくなる。
 そこで井泉水が言う。
 私は、どこまでも、放哉を本位にしたかった。彼に、彼の好きな海をいつも見せてやりたかつた。其爲にこそ、海の好く見える地點を選んだのではないか──。「参拜には兎も角、海の方を正面としませう」、私の考へを容れさして貰つた。
 井泉水のこの言葉には心打たれる。放哉の気持ちをあくまでも尊重しようとする心やさしい師を持てて、放哉はこの点に関しては幸せだったと思った。
*
 私が、放哉に対する井泉水の態度が一般に考えられている程にはあたたかくなかったのではないかと考えた理由の中には、実は南郷庵に建てられた句碑のことがあった。〈いれものがない両手でうける〉の句碑の文字は井泉水の筆によるものだが、これは元の句とは表記が異なっている。私はそこに井泉水の一種の悪意を感じたのである。
 だが、このように感じるのは、私が俳句の世界でごく普通に行われている添削というものにあまり馴染めないものを感じているからだということを、最近になって気がついた。井泉水としては俳誌の主宰者がよくやることをやっただけなのかもしれない。
 書家は揮毫をする時、書家としての美意識から俳句や短歌の文字遣いを変えることがよくあると、書を勉強している友人から聞いたことがある。或いは石に刻んだ時の感じから文字を変えたという可能性もある。いずれにせよ、句碑の文字遣いが原句と異なっていたことに井泉水の悪意を感じたのは、見当違いだったようである。
 ところでこの添削や選に関連して、南郷庵友の会の発行する機関紙「放哉」の第7号で、興味深い文を目にした。1996年、井泉水の長男である荻原海一氏宅で2700余句にのぼる放哉句稿が発見されたというのである(小山貴子「句稿にみる放哉俳句」)。
 小浜時代と小豆島時代のもので、この句稿の中から井泉水によって選ばれた作品が「層雲」に発表されたわけである。今回発見されたこの句稿は、俳誌「随雲」の1997年8、9月号に掲載され、その全貌を知ることができるようになった。未発表の句も多数あり、小浜、小豆島時代の放哉の生活の様子や心の在り様などもわかって興味深いが、一方で、井泉水の選や添削の様子もつぶさに知ることができ、この点でも興味は尽きない。いくつか例を挙げてみよう。
原句添削句
汽車通るま下た草ひく顔をあげず背を汽車通る草ひく顔をあげず
乞食に話しかける心ある草もゆ乞食に話しかける我となつて草もゆ
海が少し見へる小さい窓一つもち事たる海が少し見へる小さい窓一つもつ
わが髪の美くしさもてあまして居る髪の美くしさもてあまして居る
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞壁の新聞の女ハいつも泣いて居る
すつかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く障子あけて置く海も暮れ切る
淋しいから寝てしまをう淋しい寝る本がない
爪切つたゆびが十本眼の前にある爪切つたゆびが十本ある
障子の穴から覗いても見る留守である障子の穴から覗いて見ても留守である
流れに沿ひ一日歩いてとまる流れに沿うて歩いてとまる
松かさそつくり火になつた冬朝松かさそつくり火になつた
明け方ひそかなる波よせひそかに波よせ明けてゐる
 こうして見てみると、中には添削というよりは放哉の句を題材にした井泉水の創作といったほうが適切な程、大きく形をかえたものもある。しかも作品として格段に良くなっているものが多い。
 この句稿に書かれている放哉の作品数は2700余、1年に満たない期間の作品としては大変な数だが、実際のところ作品としてはあまり価値のないものも少なからずある。井泉水はそれらの中から一割弱の224句を選んで「層雲」に載せている。この作業自体、大きな労力を要するものだったと思われるが、すぐれた句はほとんど採られているのはさすがだ。添削によって見違えるようによくなった作品も少なくないことは今見た通りだ。
 この句稿をみる限り、今日我々が高く評価している放哉俳句が成立するためには、井泉水の存在がなくてはならなかったと考えざるを得ない。
 今、私は井泉水に対する自分のこれまでの認識を改めなければ、と思っている。
(註)井泉水による『大空』の序文の一部を要約したもの。
(1999年4月7日発行)

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発行人 根本啓子