水燿通信とは
目次

163号

放哉終焉の地南郷庵

「小豆島尾崎放哉記念館」を訪う

 尾崎放哉が友人、知人に宛てて書いたおびただしい数にのぼる書簡は、彼のその折々の生活の様子、心の在り様が窺えて、放哉に関心のある者にはその俳句に劣らず興味深い。
 だがある時、私はふと、これらの書簡を受け取る立場の人間の心情に思い至った。そして放哉に関心のある側から手紙の受取り手のそれに変わるだけで、書簡の印象が全く異なってくることに気がついた。“たまらなかっただろうな、うっとうしかっただろうな”というのが率直な感想だった。話を放哉終焉の地である小豆島南郷庵で書かれたものに限れば、もう楽しいものなど皆無といってもいいくらいだ。俳句のことを除けば(これは想像する程は多くない)その内容の大半は金品の無心であり、その無心の仕方も“(自分は自由律俳句の第一人者なのだから)くれて当然、もらってどこが悪い”といった傲慢な感じのするものも少なくないし、また、一高、東京帝大卒というエリート意識がちらちらするのもたまらない。
 なかでも、自由律俳句『層雲』の俳人であったために、その主宰者荻原井泉水に頼まれて放哉の世話をする羽目になった島の素封家井上一二(いちじ)に宛てた書簡などは、その不快感において最たるものである。土地にしっかり根を下ろして生活している一二にとって、いくら井泉水の依頼とはいえ、乞食同然の他所者で結核にかかっており、しかも酒癖の悪いことでも有名な放哉を引き受けることは、気の重いことだったに違いない(この意味で、井上一二に気を遣いながらも、大きな包容力で放哉の世話をしようとした西光寺の住職で、『層雲』の俳人でもあった杉本宥玄(ゆうげん)の人となりにはおおいに関心がある)。
 放哉の俳句が高く評価されるようになるに従い、井上一二は放哉に冷淡だった人物としていささか損な役目を負わされている感がある。しかし、彼は何も決まらないうちに勝手に島に来てしまった放哉を、居場所が決まるまで数日間自宅に滞在させ、放哉が南郷庵に住むようになってからは、燃料、調味料、食料品などの生活必需品を折りにふれ与えている。放哉自身は一二と反りが合わずできれば世話になりたくなかったのだが、一二に頼らなければどうにもならないことも少なくなく、しかも井上家からもたらされる料理はとびきり美味しかったから、どうしても時々は無心やお礼の手紙を書かざるを得なかった。そんな中の一通を紹介しよう。
 今夕も御ちそう有りがたう…イツモながら料理の味かげんの上手な事、…実ニ敬服…アンナ料理をタベルとクセになつて困る、呵々。又、近所からモラツタ料理は、シヲが、からくて、トテモクヱナイ…勿体ナイ事ですが、…ホントに、ヱライ相違也…全くオツ母サンの手腕ですか…私ハ一体、前から「食物道楽」でしてね、東京中の、ウマイものや、を(タイテイ…ウマイモノ屋ト云フ、家ハ大部分、知ツテマスヨ)一軒一軒、廻って、タベル会を五六人で、こしらへて、毎月、アチコチ歩いて居たモノですよ、…ですから失礼だが、一寸食物の方では『通』ですよ…大阪ニ二ケ年、支店勤務として、住んで居たトキ、其の流デ、アチコチたべてあるきました。…ソレ以来…大阪党にナツテ料理の味は、ナント申しても東京ハ大阪ニハマケマス…大阪礼讃デスヨ。処が、オツ母サンの料理が、全大阪料理の味かげん也…ダカラ、ウマイワケ也。(略)シカシ私のやうな以前、食道楽デアツタ者が、ホメルのだから…オツ母サンも少しは喜んで下さいなと申して下さい、呵々。失礼失礼 (大正14年10月16日)
 こんな嫌味な手紙を送られながら、様々な物を無心され続けた一二も、気の毒なものだ。彼は島の人々の気持ちを代弁していただけなのだと思う。おそらく島の大半の人は、怖い病気をうつされないようになるべく近づかないようにしながら、このなんだか得体の知れない人物を遠巻きに眺めていたのだろう。
 だが、島の人々のそんな対応は、無言、独居、門外不出の生活を望んでいた放哉には、むしろ好都合だったといえる。そして生活費を切り詰めるために焼き米、炒り豆、梅干、ラッキョをかじり、水がぶがぶといった食事をして過ごした南郷庵での生活は、彼のそれまでの時期の作品よりはるかに完成度の高い作品をたくさん生み出した。
あけがたとろりとした時の夢であつたよ
爪切つたゆびが十本ある
流れに沿うて歩いてとまる
よい処へ乞食が来た
とつぷり暮れて足を洗つて居る
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
ひそかに波よせ明けてゐる
 荻原井泉水は、放哉句集『大空』序で“かれは…生れたままのハダカになって、人生とは何かを問い直そうとして、京都の一燈園に飛び込んできた。…彼が一筋の信念としたのは俳句の道であった。彼は此の俳句の世界に、虚偽のなき自然を見出だした。矛盾のなき自由を見出だした。…“無”の中にある永遠なる“有”としての自己を肯定したのである”と述べた。私はこのように美化された放哉像には、共感できない。けれども南郷庵で作られた前述のような作品には、殆ど全ての物を放下した後に訪れたある透徹したまなざしがあるのは確かで、それは“無の中にある永遠なる有”と表現してもいいような類いのものであると思う。
*
 その尾崎放哉が没したのが大正15年、それから既に70年以上の月日が流れた。今では島の人なら、放哉という人物が自由律俳句の第一人者だということくらい、大体知っている。放哉の句碑も島のあちこちに作られ、平成6年4月7日(4月7日は放哉の亡くなった日)には小豆島尾崎放哉記念館が開館した。これは南郷庵をそのまま復元した建物で(実際に放哉が住んだ庵は白蟻に食われた為、昭和50年代半ばに取り壊された)放哉書簡など貴重な資料を展示している。
 本年12月の初め、私はこの記念館となった南郷庵を訪れる機会を得た。
 庵を訪れてまず感じたことは、西光寺と庵が大変に近いということであった。寺の三重の塔が手の届くような近さに見えるのだ。放哉は住職の杉本宥玄に度々手紙を書いている。近所の子供に頼んで直接持っていってもらうこともあったが、寺よりずっと遠い郵便局経由のこともあった(この場合も子供に依頼)。体調のよくないことが多かったとはいえ放哉の門外不出はそれ程までに徹底していたのだろうか。それとも、住職に会うのがそんなに嫌だったのだろうか。
 庵は高台にあると思っていたのに、これも違う。庵の前の道はすぐに急斜面の墓地に導かれるが、庵そのものはとくに高い位置にあるという印象はない。記念館の人(土地の人が交代で無償で詰めている)の話によると、海が埋立てられたことが印象を変えた大きな原因ではないかとのこと。放哉の居た頃は周りにはほとんど家がなく、東側の窓を開けるとすぐ海が見えた、普通の土地よりずっと低い位置に塩田があり、そのむこうが海だったのだという。
 句集『大空』の最後に置かれた〈春の山のうしろから烟が出だした〉の春の山は南郷庵から見える百足山(むかでやま)であり、煙はその麓にある火葬場から出たものだったのではないかといわれている。しかしその百足山も現在は“その一角には「ホテルニュー観海」が建って今は煙を見るすべもない”(藤井豊「山のうしろから……」「放哉」3号所収)。
 放哉の墓は、南郷庵のすぐ側の斜面に広がる墓地の上の方、西光寺の墓域の一角の見晴らしのいい場所にある。土庄町役場の森克允氏によると、遺体は一旦は共同墓地の中にある西光寺の墓地で土葬にされたが、翌年掘り起こされて火葬に付され、故郷の鳥取に分骨された、共同墓地はかつては百足山の麓の火葬場付近一帯にあったが、放哉の居た時分から、少しずつ現在地に移されてきていたらしい、また西光寺の墓地は杉本宥玄(昭和39年没)の三十三回忌の時整備された、ということである。
 現在の共同墓地は、目立つような大きな樹木もなく日当たりのいい明るい感じで、放哉が『入庵雑記』の「石」で述べているような“寂然”たる雰囲気はない。だが庵の真ん前、墓地の入り口に当たる場所にあるピラミッド形に積まれた無縁仏の墓は異様な感動を与えるもので、放哉の見た“白々と無数に林立して”(「石」)いた島人の石塔もこの中にあるのだろうか、などという想像を誘われたりした。

 今回の小豆島訪問に際し、自由律俳句誌『随雲』同人、「南郷庵友の会」会員で、井上一二の親戚筋に当たる井上泰好氏より、「友の会」の機関紙「放哉」など貴重な資料を数多くいただきました。また、土庄役場の森克允氏には、放哉が住んだ当時の庵の周囲の地理などに関していろいろご教示いただきました。ここに深く感謝申し上げます。
 なお、当通信の放哉に関する号は、記念館の手でコピーされ来館者に無料で提供されていますので、訪館の折りには是非御覧いただきたいと思います。
(1998年12月25日発行)

※無断転載・複製・引用お断りします。
発行人 根本啓子