水燿通信とは |
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156号放哉再読〈山に登れば〉の句のことなど |
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ここ暫く精神的に低調な状態が続いている。とくに5月は心屈することの多い日々が続いた。そんなひと日、ふと尾崎放哉の句に接してみたいと思った。そしてそんな気持ちになった自分に驚いた。放哉の作品は好きでよく読んでいる。しかし彼の句は非常に暗く、落ち込んでいる時に読むと底無しの穴に落ちて容易に立ち直れなくなってしまいそうな気がするので、これまでは精神的に安定している時だけ接するようにしていたからである。 |
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ある日――病院の受診日だったが――病院の近くにある公園のベンチに座ってぼんやりしていると、雀が2羽やってきた。1羽はすぐそばに、もう1羽は少し離れた処に。それらを見ているうちに、次のような言葉が口をついて出た。 |
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雀によびかけたのは、雀が寺男になってからの放哉のほとんど唯一の親しい生き物だったということが頭の隅にあったのだろう(註)。 |
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お堂しめて居る雀がたんともどつてくる | 『大空(たいくう)』 |
雀のあたたかさを握るはなしてやる |
畳を歩く雀の足音を知つて居る |
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それから2、3日経った。心は相変わらず晴れなかったが、放哉を読みたいという気持ちはいっこうに消えないばかりか、むしろ強くなるようだった。そこで思い切って『大空』をひもといてみた。 |
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読後、何かこれまでと異なる印象を持った。以前に比べてどこかやさしく感じられるというか、共感する心が湧いてきて、慰められる感じなのだ。少なくとも、落ち込んでいる気分を底無しの穴に引きずり込むようなものではないと思った。 |
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尾崎放哉の唯一の句集『大空』は、小豆島南郷庵に移ってからの作品に優れたものが多いように思われる。けれど、私は須磨寺時代の作品に南郷庵でのそれとは異なる関心を持っている。仕事をやめ妻と別れ独りになって入園した京都一燈園での作品は、当時の放哉の心を反映したような極めて暗いものが多い。しかし次の須磨寺での生活は、彼にある心の変化をもたらしたようにみえる。須磨寺での最初の作品6句をあげてみよう。 |
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あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める |
一日物云はず蝶の影さす |
友を送りて雨風に追はれてもどる |
雨の日は御灯ともし一人居る |
なぎさふりかへる我が足跡も無く |
軽いたもとが嬉しい池のさざなみ |
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ここには全てを放下したった独りになった後に訪れた静かな心の安らぎ、自足感がある(第3句は少し違うが)。なにか新しいことが始まるような、かすかな興奮すら感じられるようだ。この後には暗い作品も多いのだが、須磨寺時代の最初のこの雰囲気が私はとても好きなのである。〈なぎさふりかへる〉の句について、“自分さえ見失おうとする一人の人間の悲しみがある”(彌生書房刊『尾崎放哉全集』註解 井上三喜夫)という見方もあるが、私には好きな海に出て裸足で気持ちよい解放感に浸っている放哉を感じる。また、次のような句には、独りで居ることの淋しさよりはむしろその豊かさが描かれているように感じられる。放哉俳句の魅力のひとつはこういった作品の存在にあるのではないだろうか。 |
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たつた一人になりきつて夕空 |
潮満ちきつてなくはひぐらし |
障子しめきつて淋しさをみたす |
こんなよい月を一人で見て寝る |
紅葉あかるく手紙よむによし |
夕飯たべてなほ陽をめぐまれてゐる |
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この後、放哉は小浜常高寺などを経て終焉の地小豆島南郷庵にたどり着く。放浪に疲れ切っていた彼はやっと落ち着ける場所を得て心から安堵し、ここでの生活に自足し、病状が悪化しても決して動こうとはしなかった。しかし南郷庵での作品はより内省的なものになり、須磨寺時代のような“孤であることの豊かさ”を素直に表現した句はみられなくなる。 |
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ところで、この南郷庵での作品に〈山に登れば淋しい村がみんな見える〉というのがある。この句に初めて接した時、私は『新古今和歌集』巻第七の巻頭にある仁徳天皇の御歌〈高き屋に登りて見ればけぶり立つ民の竈はにぎはひにけり〉を思い出した。というのも、この句の中に村人よりも自分を上位に置く放哉の余裕のある心情(ただし仁徳天皇のあたたかいまなざしとは逆の冷ややかなものではあるが)を感じたのである。寺男になってからの放哉は、自らを乞食放哉などと称しながら、一方で一高、東京帝大卒というエリート意識を終生失くすことはなく、何かの折りにこの意識がひょいと頭をもたげることがあったから、おそらくこの時も、山の上から村の人々の貧寒とした生活をいささかつめたいまなざしで見下ろしたのだろうと思ったのである。 |
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ある日、脚本家の早坂暁が“『山に登れば淋しい村がみんな見える』は淋しいで切れる”と語っているのを目にした(平成7年3月19日 朝日新聞読書欄)。視点の鮮しさに衝撃を受け強く心に残ったが、さりとてすぐに共感することもできなかった。その後折りに触れこのことを考えてみたが、「淋しい」で切るのと「淋しい村」とするのとどちらの解釈がいいかなかなかわからない。 |
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わからないままに何年かが過ぎた。ところが今回放哉の作品に接してみて“共同体からはみ出し、二度と戻れない村を見た痛恨の思いをはきだしたと解釈します”という早坂の言葉がすっと心の中に入ってきたのである。これまで迷っていたのが不思議なくらい、それは明白なことのように思われた。 |
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この句は〈花火が上がる空の方が町だよ〉と同じような思いから作られた作品なのである(当通信9号)。独りでいたいと強く願った放哉は、同時に大変なさびしがりやで誰よりも人恋しさを募らせた人間でもあった。〈山に登れば〉の句は「淋しい」で切ることによって味わいはぐんと深まる。いい句だ。今は心からそう思う。 |
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(註) | 1996年、荻原海一氏(井泉水長男)宅で発見された放哉句稿(小浜、小豆島時代のもので、2700余句にのぼる)には様々な生き物が詠まれており、放哉を慰めたものは必ずしも雀だけではなかったようである。しかし本稿をまとめた段階では、筆者はこの句稿の存在を知らなかった。 |
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(1998年7月15日発行) |
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発行人 根本啓子 |