水燿通信とは
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134号

ベルリン、そして東欧へ(2)

ヨーロッパの秋を行く

10月6日(ベルリン〜プラハ)
 定刻より20分ほど遅れて、午後1時過ぎ、ベルリン、リヒテンベルク駅からチェコのプラハ行きの特急列車が出る(ベルリン〜プラハ間の料金は122.5マルク)。
 ドレスデンを過ぎると、エルベ川が線路に平行して流れるようになった。対岸の紅葉は始まったばかりだ。ドレスデン駅で東洋系の若い男性が乗ってき、通路をはさんで私の隣の席に座った。程なく軍服を着たドイツ人が2人、次いで車掌、そしてやはり軍服姿のチェコ人2人がやってきた。間もなくチェコとの国境になるので検問ということで、パスポートとビザをチェックされた。一瞬緊張を強いられるものものしさだ。検問の過程で、隣の席の男性が日本人だということがわかったので、話しかけてみた。彼は技術者で、会社から派遣されてプラハから1時間ほどの町でダムを造っており、来年1月まで滞在予定だという。
 彼にプラハで予約なしでホテルに泊まれるのか訊いてみた。というのも、ガイドブック(『地球の歩き方』です)にはチェコのホテル事情に関して怖いことがいっぱい書いてあり、しかも今回、私たちは「日曜日に着くな」「夕方以降に着くな」という教えを破っているのだから、少なからず不安があるのだ。私の質問に関して彼は、プラハは観光地でホテルはいっぱいあるし今はオフ・シーズンだから、泊まるところは予約なしでもすぐ見つかる、ときっぱり答えてくれた。
 このほかに、彼から聞いた現地情報をいくつか紹介してみよう。
 ○食べるものに関して。チェコ独自のものというのはないが、とにかく安い。またビールはとてもおいしい。
 ○チェコはドイツになんらの抵抗もせずにあっという間に征服されたような国。そんな国民性のせいか、チェコ人の顔はやさしい。また混血が多く、従って美男、美女が多い。
 ○チェコとドイツの国境に目印のようなものはない。列車の揺れがひとつの判断材料になるかもしれない。ドイツ側はわりあい静かだが、チェコ側に入ると横揺れがするようになる。
 ○国立オペラ劇場で毎晩オペラがあり、切符も簡単に手に入る。料金も安いし、旅行中のラフな格好でも入場に差し支えない。
 ○チェコ語でありがとうは「デクイバン」、こんにちはは「ドブリーデン」と言う。
*
 午後6時少し前、プラハ中央駅に到着。青年とは降車の際にいったん別れたが、私たちがチェコの貨幣コルナに両替して駅舎の中央まで進んだところで待っていてくれて、インフォメーションの場所を教えてくれてから、乗換えホームの方へ去っていった。ありがとう。
 駅舎を出ると町はもうすっかり暮れている。地図を頼りに町の中心地バーツラフ広場に向かう。地の利も考えてその通りに面したホテルにしたいと思っていたが、最初に行ったホテルで何の問題もなくすぐチェックインできた。HOTEL EVROPA。アムステルダムで泊まった4ツ星のASCOT HOTELは勿論、昨日のベルリンのHOTEL NOVAに比べても設備は大分落ちるし、建物全体が古くてがたついている感じだが、造りには格調がありパティオも素敵で、全体に歴史や伝統をずっしりと感じさせられるところが気に入った。ツィンで3360コルナ(1コルナは約4円)。
 ホテルが決まれば次は食事だ。バーツラフ広場を散策しながらレストランを探す。お店の前に貼ってあるメニューを見ると、どこも随分安い。結局、チェコ第1夜ということで生演奏も聴ける結構高級そうなレストランにすることにした。お店の人は蝶ネクタイのきちんとした格好で、チノパンにワイシャツ、ラフなコートという姿の夫と私はちょっと気が引けたが、別に構わないということだったので、入ってみた。
 まず食前酒がワゴンで運ばれ、つまみが数種類出され、スープが続いた。やがて演奏が始まった。1曲目、2曲目、3曲目、みんなロシア民謡だ。ソ連邦が崩壊した今、日本から遠く旅してきて、元共産圏の国チェコでロシア民謡を聴く、何か淡い哀愁のようなものがそこはかとなく感じられ、私は雰囲気に酔った。
 夕方に着いて街中をほんの少し歩いただけの印象だが、現在のプラハには、情報に閉ざされた暗い東欧といったイメージは殆ど感じられない。しかしこのような形でロシア民謡を聴いたりすると、ああ、ここはロシアに近いのだということを実感する。しばらくすると、今度はビートルズナンバーが聞こえてきた。軽い驚きとともに「ああ、いい時代になったんだ」と明るい気分になった。
 料理は丁寧に作ってありおいしい。シェリー酒、ビール(うまい!)、ワイン、スープ、肉料理、コーヒー(エスプレッソ。砂糖をたっぷり入れて飲んだ。満足感が体中にひろがった)、これに行き届いたサービスと音楽の生演奏までついて1260クロネ、申し訳ないような額だった。
10月7日(プラハ)
 「プラハに行ったら、プラハ城とカレル橋は外せない」とどのガイドブックにも書いてある。夫も私も遺跡や名所旧跡の類は殆ど関心がないが、ともかくもとプラハ城に登ってみた(山頂にある)。しかしこの城に関する知識のまるでない私たちにとっては「ふ〜ん、すごいね」だけで、さしたる感動は湧かなかった(夫はこの日の日記に「名物にうまいものなし。名城にろくなものなし」などと書いてしまった)。
 カレル橋もやたら人が多いばかり(自作のアクセサリーや絵を売っている若者を眺めるのは楽しかったが)。まるで新宿の雑踏を歩いているような気分でこの人混みをかき分けて橋を渡り、土産物店の並ぶ小路(ここはよかった)を過ぎ、旧市街地に入った。するとあんなに大勢ひしめいていた観光客が突然潮を引いたように居なくなり、目の前に中世を想わせる古い町並みが広がった。今にもカツカツと音を立てて馬車がやってきそうな雰囲気だ。
 プラハは世界でも有数の古い町並みを残している都市だという。だがここは古い町並みと言っても、例えばバルセロナの荘重な建造物が立ち並ぶ重々しい感じのものとも、またリスボンの朽ちるに任せたほろびゆくような町並みとも違い、まるで中世の人々の生活が何百年という歳月をとびこえて今に息づいているというように、ごく自然な形でそこにあった。こういった町並みを静かに歩くのはいい。旅することの豊かさ、喜びをしみじみと感じる。そう言えば、映画「アマデウス」や「べートーヴェン・不滅の恋」でもプラハがロケ地に選ばれている。映画のいくつかの場面に目の前の町並みを重ねながら、夫と私は秋の一日、プラハの古い町並みの散策を楽しんだ。
10月8日(プラハ〜ベルリン)
 ハンブルクまで行く特急列車に乗ってプラハからベルリンに戻り、ツォー駅近くのHOTEL HARDENBERGにチェックインする(ツインで195マルク)。1月に利用して朝食がとても充実していたし部屋もよかったので、ベルリンでは今回もここと決めていた。ところがフロントの男性は「今日は空き室があるが、明日は予約でいっぱいだ」と言う。朝食を取る場所の説明などを始めたので「今年1月にも泊まったので知っている」と言うと、「明日になって予約のキャンセルでもあれば宿泊できる可能性も出てくる」と語調がちょっと揺らいだ。歯切れの悪い物言いにある種のひっかかりを感じつつ部屋に入り、荷物をほどいた。
 翌朝、食堂に行き期待通りの充実した朝食に満足したが、宿泊客は決して多い感じではない。時期的にみてもこの程度の混みようが自然だ。そこで朝食の後フロントで今晩泊まれるのかどうか尋ねてみた。実に明快に「No problem.」と言われた。予約状況を調べることもなかった。昨夜言われたことをごちゃごちゃ説明したのが愚かしく思えるほどだった。つまり、昨夜対応した男性は、日本人あるいは東洋人を泊めたくなかったのに違いない。
 だが私たちは彼を恨む気にはなれなかった。夫は昨夜の男性を記憶していた。1月に来たときは、とても愛想が良かったらしい。あれから今までの1年近い間に何かがあって、日本人(か東洋人)を嫌悪するようになったのだろう。
 日本人観光客のマナーの悪さはよく指摘される。確かに同国人として恥ずかしくなるような日本人がいないわけではない。特に空港の免税店や土産物店での買い物の漁り様はちょっとすごい。だがこの点に関しては韓国人も引けを取らない。彼らもすざましい勢いで買いまくる。中国人(正確には香港人や台湾人だろうが)の場合はとにかく声が大きい。町を歩いているときなど道路いっぱいに広がって大声で話しながら歩く。こういった様子に眉をひそめる人々も少なくないだろう。そして西洋人には韓国人も中国人も日本人もみな同じように見えるだろうから、そういった不快感が東洋人全体に対する嫌悪感になってしまうのだろう。後から来る日本人のためにもあまり恥知らずな行動は慎まなければと思う。
10月9日(ベルリン)
 ツォー駅のそばを歩いているときだった。Uバーン(地下鉄)の階段を上ってきて、紙片を片手に何かを探している風の若い日本人女性を見かけた。偶然私と目が合うと、緊張した表情をほっと緩ませ、にこっと笑った。どちらからともなく「こんにちは」と言った。その人は現地に住んでいる日本人に会えたと思ったらしい。なんでも、クロアチアを訪れ、それからワルシャワに行ったが、そこでバッグパックの後ろを切られトラベラーズチェックを盗まれたので、再発行してくれる銀行を探しているのだという。彼女は「ポーランドも体制が変わったので、治安が悪くなって」と顔を曇らせた。
 彼女を見ながら、私の中で様々な思いが駆けめぐった。小田実の『何でも見てやろう』が出版されたのは昭和36年(1961)、フルブライトの留学生としてアメリカに渡った日本青年の、アメリカ人を相手に物怖じすることもなく好奇心いっぱいで送る生活振りは、GHQによる占領も体験した当時の日本人に痛快なショックを与え、爆発的な売れ行きを見せた。東北の田舎町で私はこの本を存分に楽しみながら、しかし外国に行くことも外国人に混じって生活することも、私には全く無縁の遠い世界の出来事だった。
 沢木耕太郎の『深夜特急』が出たのは昭和61年。ユーラシア大陸をバスを使って気ままに横断した若者の旅の記録であるこの本は、行動の自在さ、旺盛な好奇心、興味深い体験の数々にあふれており、私は夢中で読んだ。読後、私は吸収力の大きい若い時期に殆ど旅をしなかったことに悔しさを覚えると同時に、未知の国に独りで旅をしてみたいと強く思うようになった。『何でも見てやろう』から25年、経済大国になった日本ではもはや海外旅行は珍しくなくなっていた。だがそのころ私は健康を害して療養中であり、外国に出掛けることなど思いもよらない状態だった。幸い、その後何年か経って体調もよくなり、ここ数年の間に海外旅行の経験の多い夫に連れられて何度かの海外旅行を体験し、今また初めて訪れたチェコのプラハからベルリンに戻ったばかりの旅の身であった。
 気丈に独り旅を続けている若い女性を目にしながら、こういった思いが私の中を駆けめぐった。“この人はかつて私が強く願った形で旅をしている!!” 私は羨望と驚嘆の念にとらわれた。だがこの女性は政治的、経済的、社会的困難のなかにある国々を回ってきており、しかもある程度長い期間、旅行を続けているように見受けられた。おそらく大きな孤独感、困難をも体験しているだろう。夫にいたわられながら旅をしている私は、羨望と同時にそのような思いにもとらわれ、痛々しさを覚えた。目的の銀行の所在が分からず役に立てなかった私たちに「ご夫婦で旅行なんていいですね」と言い、「お会いできて元気が出ました」と言う言葉を残して人混みの中に入っていった彼女を、私は立ち去らせがたいような切なくいとおしい思いで見送った。
*
 前回ベルリンを訪れた時は、夕食はいつもホテルのそばのマルシェでとった。好きなものを自分で選び勘定してもらうセルフ・サ−ビス式のお店だ。選ぶものが豊富にあって野菜を沢山取れるし、おいしいし、やすいし、ということですっかり気に入った。
 ベルリンでの最後の日、やはりそこで取った食事が大方終わったときだった。通路をはさんで私の隣で独り食事をしていたドイツ人女性が、英語で話しかけてきた。どこからベルリンに来たのか、日本人か、など。そして私が日本人と知ると日本を褒めること、ほめること。「1年間日本に住んだことがあるが、日本は素晴しい国で大好きになった。日本人は考えに広がりがあり、繊細でやさしい。日本料理もすばらしい。大きな容器に少しだけ料理をよそうあの美的センス。お箸は繊細で実に芸術的な道具だ。そして箸置きの愛らしさ、そういうものを思いついたアイデアのすばらしさ」。 「確かにその点に関しては私も同感だが、味に関してはどうか。多くの西洋人はプレーンだとかまるで味がないと感じるようだが」と尋ねたら、
 「味がないなんて全然思わない。味もfineだ。また刺身の話をすると大抵のドイツ人は食べたこともないのにウェッという顔をする。一度食べてみれば決してそんな態度は取れなくなるのに」と言う。その他、日本家屋の美しさ、お店の対応、人々の親切心など、何もかも気に入ったらしい。そして「それに比して、ドイツ人は視野が狭く繊細さに欠け、冷淡だ。食器などには意を払わないし、ナイフやフォークの味気なさと言ったらお話にならない。日本からドイツに戻ってきて、ほんとうにがっかりした」と自国に対しては身も蓋もない。
 「でも日本人である私からみると、日本人もいろいろ問題のある国民性を有していて、私など生活していて違和感を持つことがとても多い。一方、ドイツを旅行していると豊かな国でドイツ人は優れた民族だと実感することが多いし、音楽の分野では世界に冠たる国ではないか。娘はクラシック音楽が好きでドイツ語を勉強し、ドイツを高く評価している」と言っても納得しない。そこでまた日本を訪れる予定はあるのか尋ねてみた。
 「ぜんそくの治療中でこれを治すのが先決。医師には肉も乳製品も砂糖も他のいくつもの調味料も禁じられている。許されているのは魚と野菜だけ。(目の前の皿を示しながら)こんなものしか食べられないのよ。たばこも駄目って言われているのだけれど、これは止められない」と言って、葉巻のような色のたばこを吸っている。似たような食事制限をうけたことのある私は、その味気なさがよく分かった。
 話が長くなるにつれて、私はついにはその人と同じテーブルの向かい側にすわった。私たちの話に耳を傾けていた夫が、なにか飲み物を持ってこようかと言ったら、その人は「私がごちそうする」と言って私たちの希望を聞き、夫にはビール、私にはコーヒー(その人の勧めでクリ−ムと少量のショコラをのせたもの)をおごってくれた。いつまでも話していたい気持だったが、翌日の飛行機がわりあい速い時間だったので、九時を回ったところで帰ることにした。ごちそうになったお礼を言い、はやく病気が良くなるように願い、そして最後にお名前をうかがった。コーネッツ・スミスさん、これがその女性(イギリス人と結婚したらしい)の名前だった。
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 外国を旅行していて時に日本に関わる新聞記事などを読むと、思いがけない視点に「ふーん、よその国の人たちにはこんな風に見えるのか」と感心させられることがある。だがそれよりはるかに多いのは、ずいぶん的外れな内容になっているなと感じさせられる場合である。ドイツ、チェコを旅行しているときは、ちょうど衆議院議員選挙が公示され選挙運動たけなわの頃で、それに関する英字新聞の記事を二、三読んだが、いずれも首を傾げたくなるようなずれた内容であった。
 ということは、その逆もまた真なりで、日本で報じられている海外からのリポートなども、それぞれの国の人たちからみたら的外れなものが少なくないのではないだろうか。
 報道記事は丸ごと信じるのではなく、ある程度のスタンスを置いて情報のひとつとしてみるという態度が必要だといつも思っている。なのに日本に居ると、いつのまにか報道されるものをそっくり信じてしまっているお人好しの自分になっている。海外特派員のリポートを新聞で読んだりテレビのニュース番組で見たりしても、特派員たちの言葉を丸ごと信じ、それらのリポートによって海外の事情を正確に知ったような気分になっている。外国旅行はそんな愚かしいお人好しの自分に気付くいいチャンスになることもある。
(1997年3月18日発行)

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発行人 根本啓子