水燿通信とは |
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133号ベルリン、そして東欧へヨーロッパの秋を行く |
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10月4日(アムステルダム) |
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14時45分、定刻通りオランダ、スキポール空港に到着。晴れ、15℃。空港から2階建ての電車でアムステルダム中央駅に向かう。所要時間20分、6ギルダ(1ギルダは約66円)。2階席から見る景色は空が広く、雲がとても印象的だ。どこかでよく見た風景……、そう、オランダ絵画の画家達の風景画と同じなのだ。彼らの描く風景画では、空は多くの場合画面全体の三分の二にも及ぶ広さを占めており、そこに広がる雲の表情は実に豊かだ。私は日本人にはないオランダ人特有の画面構成であり、雲の描き方だと思っていた。だが私の解釈はいささか好意的過ぎたようだ。オランダの画家達にとっては景色とはつまりこういうものであって、必ずしも彼らが独創的だったからではなさそうである。 |
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町の中心地ダム広場に面したASCOT HOTELにチェックイン。ツインで405ギルダ。 |
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10月5日(アムステルダム〜ベルリン) |
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14時35分発の便で、スキポール空港からベルリンのテーゲル空港に飛ぶ。所要時間約1時間。さらに空港から、バスで旧西ベルリン地区の主要駅ツォー駅に向かう。空港周辺の紅葉はちょうど今が見頃、まだ紅葉が始まっていない東京から来た私たちの目に、日本の紅葉よりはるかに鮮やかなその色彩が印象的に映る。 |
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ツォー駅で今日中にやる予定の事柄はつぎのようなものだ。 |
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@ 東欧各国に向かう列車の発着駅リヒテンベルク駅に行く。
A その駅でプラハ行きの列車の時間を調べ、翌日の切符を買う。
B 同駅近くで泊まるホテルを探す。 |
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日本ではリヒテンベルク駅に関する情報が殆ど手に入らず、たったこれだけのことだが果たしてできるかどうか、とにかく現地に行ってみないと何とも言えないという状態だった。 |
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さてツォー駅、事はなかなかうまく運ばなかった。どの電車に乗るのか、切符はどこで買うのか、それからしてわからないのだ。そもそもの間違いはSバーン(近郊電車)は駅構内で手に入ると思い込んでいたところにあった。確かに駅構内には切符を売る窓口がいくつもあるのだが、これらはすべて遠距離切符用のもので、近郊を走る電車に乗るときの切符は売っていないのだ(1月に訪れた時にはSバーンは利用しなかったので知らなかった)。しかも窓口の駅員の対応が素っ気なく、ここは駄目だというだけで、間抜けた旅行者に丁寧に説明してくれたりしない。 |
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随分無駄な時間を費やした挙げ句、インフォメーションで教えてもらってようやくわかった。未知の土地を訪れたらまずインフォメーションで尋ねるのが常道だが、1月に訪れた時ここは閉鎖されていたので、今回そこに行く発想はなかったのだ。近郊電車の乗車切符はといえば、駅を出たところにごく小さな建物(後でBVG、ベルリン交通連盟の案内所であることを知った)があり、そこで売っていた。 |
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こうして何とか切符を手に入れ、リヒテンベルク駅に向かって電車に乗った。電車は程なく旧東ベルリン地区に至る。左手は進行するにつれ急激にさびれた町並みになっていき、線路沿いには誰も住んでいないような朽ちた建物が目立つ。そんななかで紅葉が今を盛りとひときわ美しい。反対側の窓に目をやると、ベルリンの壁があったために無人地帯になっていた広大な地域があり、そこはダンプカーやクレーンが動き回って急激に変貌している様がうかがえる。電車の中には皮ジャンを着た酔っぱらいや麻薬中毒者のような人も居て、結構こわい。旧西ベルリン地区と明らかに違う雰囲気があり、緊張する。 |
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途中の駅(Ostkreuz)で乗客がごっそり降り、車内には私たちを含めてほんの3〜4人になった。不安になったが、「何度も確認して乗った電車だ、間違うはずがない」と信じてそのまま乗っていると、周囲の景色はいっそうさびれた感じになってきた。インフォメーションでもらった地図で駅名を確かめ、二つめの駅まで行ったところで間違いに気がついた。先ほどの駅で行き先がいくつかに分かれており、リヒテンベルク駅に行くには乗り換えが必要だったのだ。慌てて降り、逆方向の電車を待った。その駅のわびしく淋しかったこと、そして周囲の紅葉の見事だったこと。 |
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多少時間はかかったものの、なんとかリヒテンベルク駅に到着。降りてみると構内は全体に暗く天井は低く、しかも工事中(作業員はいない)で木枠や網があり、なんとも殺風景でさびしい感じだ。東欧諸国への玄関口にあたる駅とはとうてい思えない。駅前も閑散としている。 |
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まず列車の時間を調べる。プラハ行きの列車は1日2便あり、早いほうのはベルリン発12時42分、プラハ着17時40分とある。この列車に決め切符を買うことにする。 |
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いつものように日、列車名、出発時刻、行き先、等級、枚数などを書いた紙片を窓口で示した。これが切符を入手するときの最も確実な方法であることを、何回かの旅行の経験で知ったからだ。ところが窓口にいた中年の女性には、それが何を意味するのか、殆どわからない様子。Class、day、trainといったいくつかの英語がネックになっているのだ。しかも事情は他の窓口の人でも変わらないようだ。しかし、何としても切符を手に入れなければならない。窓口の女性と私たちでお互い理解できない言語ですったもんだやった揚げ句、その女性が適当に機械にインプットし、その画面を私たちが見て指を指して誤りを訂正し、何とか切符の体裁を整えた。更にしばらく経ってたまたま英語のわかる駅員がやってきて、ようやく希望する列車の切符であることを確認した。旧西ベルリン地区ではこんなに英語が通じなくはなかった。同じベルリンなのに、あまりの違いにショックを受けた。 |
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リヒテンベルク駅周辺のホテルに関する情報は、日本のガイドブックには全くなし。予約もなしで一体泊まれるようなところがあるのかどうか、それに旧東ベルリン地区では英語は通じないといった話も耳にしており、少なからず不安だった。ところが列車が駅に滑り込む直前、駅前の建物のうえに「HOTEL」の文字を見つけた。他にあるのかどうかもわからないし、「今晩はあそこ」と決めて、プラハ行きの切符を手に入れるとすぐそのホテルに向かった。 |
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ところがいざそのホテルに行ってみると、灯りが消えていてドアも開かない。もう日はすっかり暮れている。どうしよう。でも「ものは試し」とベルを鳴らすと、意外にも応答がありドアが開いた。若い男性が出てきて応対したが、英語が通じたのでほっとした。清潔なきちんとした感じのホテルで、宿泊代も手頃ということで、迷いなくすぐ決めた。HOTEL NOVA。ツインで165マルク(1マルクは約74円)。 |
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部屋に入って荷をほどくと、外はもうすっかり夜だ。お腹も空いたし夕食にしようと外に出てみる。だが町並みは暗く雨も降り出してきた。見渡したところレストランらしきものもない。かといってここは旧東ベルリン地区、暗い街中を歩き回って探すのも不安だ。そこでホテルに戻ってフロントで尋ねてみた。教えられたレストランはホテルのすぐそば、同じ区画にあった。(後でレシートを見て気がついたのだが、名前もホテルと同じ「NOVA」だった。同系列なのかもしれない) |
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入ってみると、パンク風の格好の良い若い女性がひとりで客の接待をしていた。各々のテーブルにろうそくを灯し雰囲気はなかなかなのだが、何しろメニューはドイツ語のみ、しかもこのおねえさん、英語はまるで駄目。メニューとにらめっこして、どんな料理か何とか推測できるものをオーダーした。赤ワインを頼むと白ワインが出てくる始末で、言葉のバリアは意外に大きい。料理の味付けは全体にコンチネンタル風というか、嫌みや癖が無くて食べやすかったが、日本のどこででも食べられるようなものが多く、はるばる遠くから旅してやってきて異国で食事をしているという感じはまるでなかった。 |
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それでも、今日の午後ベルリンに着いたときは、ここまで事を運ぶことができるかどうか、全く予測がつかなかった。 |
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東欧行きなど諦めて、ずっとベルリンに居ることも覚悟していたのだ。それなのにまともなホテルをみつけ、まともな食事にありつけ、しかも明日はプラハに行く手筈が整ったのだ。 |
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「いろいろ大変だったけど、結構道は開けるものだな」 |
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満足そうに夫が言った。パンクのおねえさんのいるレストランnovaで、夫と私は時間をかけて食事をしながら、旅の醍醐味を感じ始めていた。 |
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(1997年3月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |