水燿通信とは |
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116号たかしの見果てぬ夢 |
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松本たかし(明治39〜昭和31)は、能楽宝生流シテ方の家に生まれ能役者を志したが、病弱のため20歳前後で断念、その後、17歳頃から高浜虚子に師事して勉強していた俳句に本格的に身を入れるようになり、俳人として名を成した人である。 |
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だがたかしの作品に接してみると、彼にとって俳句は所詮次善のものであり、能楽こそが彼の一生を把えて離さなかったものではなかったのかという想いにかられることがよくある。能楽を題材にしたり、能に親しんだ者独自の視点、美意識の感じられる作品が多いことも事実であるが、それ以上に、病弱のため能役者になれなかったということがたかしの心にいかに大きな影響、もっと具体的にいえば影を落としているかを痛感させられる句が多数見られるからである。 |
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私が松本たかしという俳人を知ったのは大学を卒業して数年経った頃のこと、大学院に進んで能楽の勉強を続けたいという願望をほぼ諦めざるを得ない状態にあったが、それでもその“見果てぬ夢”に恋々としている時期であった。最初はたかしの作品の持つ美しさに惹かれたが、能役者を志しながら事情があって断念せざるを得なかったというその経歴を知るに及んで、関心は共感を伴ったものに変わっていった。だがその後別に関心のある俳人が出てきて、ここ何年かはたかしの作品にはあまり接する機会がなくなっていた。 |
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ところで昨年、私は体調を崩し三月半ばから三ヶ月近く入院した。かなりひどい状態での入院だったため、当初は「元気で家に戻れるだろうか」という思いが一度ならず胸をよぎった。そんな体験のあと久し振りにたかしの作品に接してみて、以前とは異なる句が自分に訴えてきているのに気がついた。 |
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玉の如き小春日和を授かりし |
吹雪きくる花に諸手をさし伸べぬ |
杓の下小さくかなしや甘茶仏 |
初蝶を見し束の間のかなしさよ |
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これらの句に共通しているものは、生きていることそれ自体がいとおしくなるような想い、生きとし生けるものに対する温かいまなざしやいつくしみ・共感といったものではないだろうか。たかしの作品にはこういった類いのものが少なくない。彼のこの傾向は彼が病弱だったこと、そしてそれ故に能役者としての道を断念したことと深い関係にあるように思う。ここには紛れもなく病者たかしがいる。 |
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私には〈玉の如き〉は病いが小康状態になった時の、また〈吹雪きくる〉は死まで覚悟した病いの床から生還した時の作品のように思われてならない。こうして生きていることがどんなに有り難いことか、次々と降ってくる桜の花びらを受けながら、たかしは心からそう思ったに違いない。〈杓の下〉の“かなし”は「愛し」の意味だろうが、ふっと「悲し」と思わせるようなものをも持っており、それがこの句をより味わい深いものにしているように感じられる。この世に存在するものすべて、特に小さいもの、弱いものに対する共感、いとおしさなどは、病気によって自らの存在のもろさ、危うさを痛感した者には殊の外強いものであると思う。 |
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〈初蝶〉の句、春が訪れたとはいえまだ寒さ厳しい折りもあるそんなある日、初蝶を目にした作者は、そのいかにも繊細な生き物のけなげさ、美しさに思わずうたれたのだろう。その心寄せは、やはり病いによってある断念を強いられた者にしてはじめて切々と感じられるものであるように思う。 |
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志摩芳次郎は『現代俳人伝』の中で次のように述べている。 |
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〈初蝶を見し束の間のかなしさよ〉の詠嘆も、このかなしみの実態は、かれを終生とらえてはなさなかった能への郷愁であり、追慕であった。かれは自分の悲劇をかならずしも意識してはいなかった。だがかれの作品の美しさをささえているのは、まぎれもなくこの悲しみである。 |
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鼓を詠んだ句にも、たかしの“見果てぬ夢”に対する想いを底流させているものが多い。たかしは鼓が好きで体調の良い時はよく打っていたという。 |
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餘花の雨布團の上の鼓かな |
人来ねば鼓打ちけり花の雨 |
めりがちの鼓締め打つ花の雨 (〈めりがち〉は“湿りがち”の意味) |
チチポポと鼓打たうよ花月夜 |
花散るや鼓あつかふ膝の上 |
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偶然、桜の花の頃(俳句で「花」といえば桜を指す)の句ばかりになったが、いづれも静かなかなしみをたたえているように感じられるのは私だけであろうか。中でも〈花散るや〉は俳句としても上々のものといえよう。たかしが最も親しく交わった俳人川端茅舎は、たかし句集『鷹』の跋で次のように述べている。 |
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思い出すと初めて會ったたかしから受けた印象は白晢な美しい顔が能面のやうに見えて何か一つ親しめない感じを感じさせた。それにも拘らずその白晢な顔は又未能力者的な気品が縹渺と動いてゐて時々人懐しさうな感じを流露してゐるのだった。この最初の印象は今も殘ってゐてたかしの姿を明瞭に割り切れさせない。たかしは生來の芸術上の貴公子でありそれがたかしを親しみ難く或は親しみ易く僕に印象するのに相違ない。だがその親しみ難い感じもその親しみ易い感じも勿論たかしの全身に漲る香氣に他ならない。 |
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そんな端正な風貌のたかしが鼓を扱っている、その膝の上には桜の花びらがはらはらと散りかかる。実に美しい取り合わせであり、その美しすぎるとすら感じられる美が、たかしのかなしみをいっそう哀れに効果的に表しているように思う。また、こんな句もある。 |
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この能役者はたかし自身であろう。能役者としては〈秋扇〉のような自分にいくばくかの自嘲を感じつつ、しかも能に対する未練、思慕を捨て切れずにいる、心情的には〈生まれながらに能役者〉たる自分をいとおしんでいる、味わい深い作品である。 |
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さて、能役者になるというたかしの“見果てぬ夢”を詠んだものとしてよく取り上げられるのは、昭和16年に作られた次の句である。能に志すことを諦めてからすでに20年ちかい歳月が流れていた。 |
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この句は下五の〈冬籠〉がいかにも安易な俳句臭を感じさせるようで、私は好きになれない。だがこの句は、歌人塚本邦雄の個性的で癖のある、しかもなかなか魅力に富んだ鑑賞文を引き出した。 |
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……凡手の能役者でも夢に見る自分の舞姿だけは美しからう。まして作者は名手を約束されてゐた。最早決して實現することを得ぬ晴姿を、彼は幾度夢みたらう。夢「にも」見るのではなくて、夢の中に「しか」見ることのできぬおのが舞ゆゑに、この句の心は悲痛である。……能を捨てた能役者の一生は、あるいはそのまま「冬籠」、すなはち苛烈な自己幽閉ではなかつたらうか。…… (『秀吟百趣』 毎日新聞社刊) |
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私がたかしと能との関係を考える時、能楽用語がまったく使われていないにもかかわらず、どうしても看過することのできないのは、むしろ次の句である。 |
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月の明るい晩、たかし居の薄は今が盛りだ。それはまるで地中から湧き出したような豊かさだ。豪華な景である。その景を見つめていると、何かが聞こえてくる。じっと耳を澄ましてみると──それは囃子の音。鼓が激しく打たれ笛の音も鋭く鳴り響く。と、いつの間にか、仕舞を舞っているたかしが目の前に浮かぶ。羽織袴姿の痩せた端正な顔立ちのたかしの見事な舞姿。何の曲だろう、激しい動きの舞だ。しばしたかしの舞に見とれる…。 |
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ふと気がつくと、たかしの姿は消えて、明るい月と湧くような薄だけが目の前に広がっている。虚を突かれたような寂しさの後、やがて測々としたかなしみがひろがってくる。 |
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このような味わい方は、そのような意味の語句がまったく使われていないだけに、こじつけと否定されるかもしれない。だが私には、この句に接する度にいつも、今述べたようなたかしの舞姿が鮮やかに浮かんでくる。そしてそこに、たかしのかなしみをやはり感じてしまうのである。 |
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(1996年4月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |