水燿通信とは |
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107号放哉の鉦叩き |
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もう20年も前のことになる。その頃、私は秋になると庭で様々な虫が競って鳴きしきるような家に住んでいた。庭が広いわけではなかったが、庭木がたくさんあったし、何よりも私が芝をまめに刈らなかったため、虫には居心地のいい場所だったのだろう。 |
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ある晩、深い眠りに陥っていた私は、どこかでチーン、チーンという音を聞いたような気がした。夢か現つか判然としないもうろうとした意識の中で聞くその音は、とても澄んでいて不思議にかなしく聞こえた。私は耳をすました。チーン、チーン、チーン。その音は庭からではなく戸袋のあたりから聞こえてくるように近い感じもしたが、一方、地の底から聞こえてくるようにも思えた。私は不思議な想いにとらわれながら、しばらくその音に耳を傾けていたが、そのうち、「ああ、これが放哉の鉦叩きだな」と気がついた。初めて聞く虫の音だったが、鉦叩きに違いないと直感した。 |
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自由律俳句の作家尾崎放哉は、終焉の地となった小豆島の南郷庵に落ち着くとまもなく、『入庵雑記』を書き始める。これは「海」「石」「風」などと題した7編の文章から成る随筆集ともいうべきものだが、その中に「鉦たたき」という一文がある。長くなるのをいとわずに、その一部を引用してみよう。 |
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瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、チーン、チーン、チーンと云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。どう考へて見ても、この声は、地の底四五尺の処から響いて来るやうにきこえます。そして、チーン、チーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の声ではない、……坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黒い衣をきて、たつた一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ。何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、静かに、……鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、仏から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでもなく、只、チーン、チーン、チーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない……只而し、秋の空のやうに青く澄み切つた小さな目を持つて居る小坊主……私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。 (……は原文のまま) |
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この黒い衣を着た小坊主は放哉自身であり、叩いている鉦の音は彼の俳句であると、一般には考えられているようである。しかしそうだとすれば、放哉にとって俳句とはあまりにもさびしくかなしいものではないかという気がする。 |
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放哉の俳句の師で俳誌『層雲』の主宰者でもある荻原井泉水は、放哉句集『大空』の序文で、東京帝国大学を卒業、東洋生命保険株式会社に入って、エリートコースをまっすぐに進んでいた放哉が、その間に社会生活の必要悪としての虚偽、人間関係の宿業的な矛盾に苦しみ、又、朝鮮赴任中に起きた関東大震災に大きなショックを受けたと述べ、以下のように文を続けている。 |
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かれは社会的な地位も財産も凡て空しいものに感じた。職を辞し、財を捨て、生れたままのハダカになって、人生とは何かを問い直そうとして、京都の一燈園(註)に飛び込んできた。……彼は一燈園に失望し、放浪生活に失望し、遂に小豆島に遁れて、一堂守となる。その間に彼が一筋の信念としたのは俳句の道であった。かれは此の俳句の世界に、虚偽のなき自然を見出だした。矛盾のなき自由を見出だした。そして、ただ風雅としてのワビやサビの遊びを離れて、“無”の中にある永遠なる“有”としての自己を肯定したのである。 |
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いかにも立派な放哉像だが、これはかなり美化された放哉だ。彼は仕事での功績は大きかったものの酒の上での失敗を度々犯し、それが主な原因となって会社を馘首になったのであり、しかもその時すでに肋膜にかかっていて仕事を続けることはもはや無理な体であった。一燈園に飛び込んだのも“人生とは何かを問い直そうとし”たというよりは、〈此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる位なら早くくたばってしまへ〉(『入庵雑記』)といったところが真相であろう。放浪生活にしても、自ら求めたのではなく、どの寺に行っても放哉の酒の上での失敗や寺側の事情で長く居続けることができず、結果として放浪を余儀なくされただけのことである。只、放哉の俳句は一燈園に入った頃から目立って深みを増し急速に優れたものになっていったのは確かで、その点からみれば、井泉水の言は美化として簡単に捨て去る訳にはいかない真実も含んでいる。 |
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それにしても、「鉦たたき」の文の何という暗さであろう。私にとって、放哉の作品はいつでも味わえるというものではない。精神的に不安定な状態の時に接すると底無しの穴に落ち込んでしまいそうで、近づくのがこわいのである。しかも放哉にはこのかぎりない暗さだけでなく、読者を不用意に近づけさせないきわめて意志的、拒否的なものがある。彼の生活が帝大在学中の半ば頃から荒れ始めたことについて、放哉はかたくななまでに口を閉ざしその理由を語ることはなかった。酒に乱れて毒づく放哉の姿にも、触れてはならない暗い何かが在るように感じられてならない。 |
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一方、放哉と同じように放浪の詩人、漂泊の俳人などと称されている種田山頭火の作品には、読者をあまやかに感傷に浸らせてくれるものがある。彼の一生は何ら意志的なものではなく、ひたすら何かからの逃避であった。彼は自分に甘かったが、同時に他人に対しても厳しくはなかったのではないかと思う。 |
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山頭火と放哉では、作品の完成度は放哉の方がはるかに高いと私は思う。にもかかわらず、山頭火の圧倒的な人気のかげで放哉がもうひとつ人々の関心を呼ばないのは、おそらくその暗さと拒否的なものの存在があるような気がしてならない。 |
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(註) | 明治38年、西田天香が京都市鹿ヶ谷(現在は山科にある)に創立した修養団体。入園者は托鉢奉仕の懺悔生活をする。 |
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(1995年10月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |