水燿通信とは
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97号

放哉晩年の日々

放哉書簡を通してみた小豆島の自然

 瀬戸内海に浮かぶ小豆島、『二十四の瞳』の舞台となった島、そこの気候は一年中穏やかで、春の訪れもきっと早いに違いない……、寒い北国に育った私は、長いことそう思っていた。
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 大正14年8月20日、自由律俳句の作家尾崎放哉(おざきほうさい)は、香川県小豆島西光寺奥院の南郷庵(みなんごあん)に住み始める。一高、東京帝大を出て、保険会社の要職にあった彼だったが、性格的なこと、病気になったこと(左胸部湿性肋膜炎)、その他様々な理由から仕事を続けることができず、妻とも別れ(子供はいなかった)、最初は京都の一燈園という修養団体に入り、その後は寺の堂守となった。独居・句作に専念したい放哉だったが、様々な理由から、2年近くもの間いくつもの寺を転々とすることになった。心身共に疲労しきって小豆島に至り着いた放哉は、南郷庵という動かずに落ち着けそうな場所を得て、心から安堵する。
……南郷庵主人放哉として、寝るも起きるも勝手と云ふ事に相成申候。……庵の風景中々よろしく、六畳にオ大師と、地蔵サマを祭り、八畳が小生の寝室、食堂、勉強部屋、応接室といふワケ。……八疂ノ窓より、遥に小生の大好きな、海を常に望む。一寸、岳ではないが小高い処にして、朝から夕迄松風ばかり。誠に気持よい処、小生大ニスキになり候。…… (8月26日付 小倉康政・まさ子宛)
ここから浪音きこえぬほどの海の青さの
風音ばかりのなかの水汲む
山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
 だが実際のところ、春になってお遍路がやってくるまでは庵の収入は全くなく、無一文で島にやってきた病身の放哉には、ともに「層雲」の作家である西光寺住職杉本宥玄(ゆうげん)と島の素封家井上一二(いちじ)の温情に頼り、師である「層雲」主宰荻原井泉水からの経済的援助をうけ、俳句仲間には無心を繰り返さない限り、生きてゆくことはできなかった。
 それでも島に来てしばらくの間は、しのぎやすい時節だったからまだよかった。だが徐々に寒さが募る頃になると、放哉はこの島の厳しい自然に向き合わされることになる。
 彼は、南郷庵に落ち着いて間もない9月1日から『入庵食記』(にゅうあんじっき)を書き始める。これは庵での日々の食事の内容を日録風に記したものであるが、12月も半ばを過ぎると、食に関する記述はほとんど無くなり、主に島の気象の記録、特に風の記録といった内容になってくる。彼の食事が、焼き米、焼き豆、梅干し、ラッキョ、番茶を中心とした極めて変化の乏しいものであったこともあろうが、何よりもこの島に吹く風が放哉を驚かせる態のものであったことが、記述に現れたととるべきだろう。小豆島には、晩秋から冬の間中、ずっと北西の強風が吹きつけるのだ。
昨夜大暴風、島ノ風ニハアキレカヱル、コンナ処ニ住ンダ事今迄ナシ、四日デモ五日デモ昼夜ブツ通シ吹キヅメ也、シカモ北西風、之デ狂人ニナラヌモノハ、鈍感ナリ、馬鹿ナリ 呵々 (12月22日)
 こんな具合で、寒がりやの放哉は、たてつけの悪い庵で震えあがる。年が改まっても烈風は相変わらず吹き続け、寒さはますます厳しくなる。この寒さで、放哉の病気は急激に悪化、しつこい咳と啖に苦しめられるようになる。
 だが、病状が悪化するにつれて、句はいよいよ冴えたものになっていく。
咳をしても一人
とつぷり暮れて足を洗つて居る
墓のうらに廻る
 島の人は、慣れているせいか烈風にも至って平気で、放哉の世話をよくしてくれている裏のおシゲ婆さんなどは、「コンナにひどい風がよく吹くから、此の島は空気がよいのです」などとすましている。
 厳しい寒さの中でも、2月になって、庭に水仙の花が咲き始めると、放哉の心は和んでくる。“春が近づいてきた。やがて梅が咲き桃が咲き、そして菜の花の頃になったら、その中をお遍路が鈴を鳴らしてやってくるだろう……”と放哉は想像する。
 ところが、じきに、庵のある一帯では、潮風がきついせいか、梅の木も桃の木も一本も無いことがわかり、放哉を落胆させる。
……梅の木、梅の花の咲かぬ処、桃の花の咲かぬ処、なんと云ふ淋しい春でせうか? 只遠く離れた、山の奥の方から(梅の木)や(桃)を売りに出て来るさうです……実に、ナサケナイ土地ですな…… (2月20日付 荻原井泉水宛)
 島は相変わらず烈風吹き荒れる毎日だ。
 3月1日、放哉の心は弾んだ。3月になれば、お遍路が札所巡りにやってきて、庵にもお金を落としていってくれる、その3月がいよいよやってきたのだ。
 そんな彼の気持ちをさらに浮きたたせてくれたのは、朝起きた時に見た外の様子だった。
啓、本日は三月一日、早いもんですな……今朝早く起きた処が、モヤが辺りに下りてゐてシツトリとして、無風……アゝ春が来たかな、と思ひました…… (3月1日付 住田無相宛)
 数日後、放哉はおシゲ婆さんに猫柳を買って来てもらう。
……島も、一時よりハ非常に春らしくなつて来ました。……■(註)に「春」……昨日、山の奥から切り花の「猫柳」をもって出たのを買つて床柱にさしました、アノ和やかな光りがなんとも云はれず私ハスキだ、アノ大人しいなごやかな、つゝしみ深い、ゑんりょ勝な、柔かな光りを放つ「猫柳」……春の花ですネ… (3月6日付 島丁哉宛)
 しかし、春らしさは長続きせず、また、すぐに寒気と烈風の日々になる。20日、放哉は木瓜(ぼけ)の鉢を探してきてもらう。
啓、島は此頃又、メツキリ寒くなりまして、風が弱つて居る時でも寒くてたまりません、アンマリ淋しいので、ウラのおばあサンにたのんで探してもらつて、(木瓜)の小サイ鉢植ヲ弐拾銭で買つて来てもらひました、蕾の大きなのが二ツ三ツ見えるやうであります……以前カラ私はこの(木瓜)と云ふ花が好きです……此頃、例の山海の珍味何一つ(タトヒ目前にありとしても)たべられないのだから……自然、眼で見るもの、匂ひをかぐものに限ります。…… (3月20日付 荻原井泉水宛)
 書簡にもあるように、3月を迎えた頃から、結核の末期症状ともいえる喉頭結核になり、ほとんど何も喉を通らず、足腰も立たなくなる。衰弱甚しく、最早、死期が間近に迫っていることは、誰の眼にも明らかだった。
 しかし、京都の病院に入院するようにとの井泉水のすすめを、放哉はきっぱり拒む。
……今朝は、よい凪で、小さい窓から、朝日が、イツパイ、さし込む……風は少しもない、和やかに光つて居る……窓迄行って見ると、アノ小さい庭に、イロイロな青草が芽を出してゐる、……コレカラ「島」も、暖かくなるでせうよ……今死すとしても、カウ云ふ自然の景色の中で、青空と青草とを見つゝ死なせてモラヒたいのです。……この庵……を死んでも出ない事……之れ丈が確実な決心であります……若し、無理に庵を押し出されるやうな事があれば、意識的に、食を絶つて、放哉、死にます……
 病院…アノ、芝居の売店騒ぎのやうな、不自由極まるツマラナイ病院なるもの──聞いたゞけでも…死にたくなる……食欲がなくなる、放哉は、モウモウ(人間社会)は、イヤイヤ。自然の中で、ダマツテ、死にたい…一人で…… (3月23日付 荻原井泉水、内島北朗宛)
 病院に入るのが嫌だというよりは、病院に代表される人間社会に戻るのが絶対嫌だということなのだろう。放哉の悲痛な叫びが聞こえてきそうな書簡である。
 島は、3月末になっても、相変わらず強風が吹き、寒さも厳しい。病放哉にとって何とも不運だったのは、彼の過ごした冬の寒さと烈風が、島でも60年ぶりのものだったということだ。
 このような厳しい気候の中で、なかなか咲かなかった木瓜が、ようやく咲く。
……木瓜が遂に咲きましたよ、二輪……一ツハ赤、一ツハ青(白ダトヨイノダガ)毎日眺めてゐます。 (3月30日付 飯尾星城子宛)
 それから幾日も経たない4月7日、放哉は亡くなった。享年41歳。木瓜の花は、末期の放哉の心をどれ程慰めたことだろう。
春の山のうしろから烟が出だした
 放哉最後の作品である。彼は、この景に待ちに待った春を感じていたのだろうか。それとも、自分が荼毘に付される様を予見したのだろうか。
(註)■の部分は、りっしんべんに造と書いて「たしか」と読ませている。表記できないためここでは■で代用した。
(1995年3月10日発行)

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発行人 根本啓子