水燿通信とは
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24号

さくら咲くその花影の水に研ぐ
夢やはらかし朝(あした)の斧は

前登志夫(まえとしお)

 「櫻の樹の下には屍軆が埋まってゐる」といったのは、梶井基次郎である。腐臭漂う屍軆からたらたら流れる水晶のような液、それを桜の根が貪欲な蛸のように抱きかかえ、毛根を聚めて吸い上げる――そう考えて初めて桜のあの美しさが信じられるようになるというのだ。
 この幻想は、結核の病状悪化によって死を予感した梶井の心の在り様を反映していると思われるが、またこの幻想ほど、爛漫と咲き誇る桜の美をいやましにするものはない。
 そもそも美の極致とはいかなるものであろうか。退廃、滅亡、腐爛、闇、死といった凶々しいものを裡深く蔵している美、醜なるものと背中合わせに辛うじて成立している美、これこそがその名に値するものといえよう。美とは本来そういったものなのだと思う。「美といふことだけを思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかる」(三島由紀夫『金閣寺』)のだ。
 いま現代短歌の中から、こういった感性に通じる作品をいくつかあげてみよう。
春の夜の闇に酔ひつつ思ひをり跡もなく人を殺しゆくすべ
岡野弘彦
うつせ身のいのち狂ふとおもふまであはれ今年のさくら散りゆく
同上
褐色の般若一面目病みつつ春を見ており無韻の窓辺
馬場あき子
ほのかにも鬼は居るなりさくら花咲きゆく日々の花の麗(もゆら)に
同上
さくら樹下卵を茹でる店ありて未生(みしやう)の昼のその花吹雪
前登志夫
 ある人を完全に抹殺する方法を思い巡らしている春の夜の闇には、まぎれもなく今を盛りと咲き誇っている桜の花がある。それにしても、殺人などというまがまがしいことを考えていながら、〈春の夜の〉の作品に漂っている悲哀感のなんと深いことか。身を裂くほどの激しい憎悪の果てには、深い悲哀感が存在しているとでもいうのだろうか。
 女が悲嘆の極みになるという般若、その般若に変貌する前に、想像を超える苦患の日々がぶ厚く存在している。しかも般若に変貌した後も涙はかわかず、目を病んでいるのだ。そんな目で〈褐色の般若〉は何を見ているのだろうか。重く咲き満ちた桜であろうか。いや、おそらく、般若の目は何も見ていないだろう。その目はもはや何をも映さず、ただただ深い倦怠感、絶望感があるのみである。
 本来孵化して鶏として生きるべく約束された卵、だがその卵は茹でられて鶏となる機会を永遠に奪われ、そして桜樹下、人々はその死を喜々として購う、〈さくら樹下〉は花見の何気ない景をアイロニーを込めて詠った作品である。
 こういった作品に接していると、しきりに能のことが思われてくる。能もひたすら美というものを追求してきた結果、ひどく暗黒な、それでいながらなんとも哀しい側面を持つようになってきているのではないだろうか。
 冒頭の〈さくら咲く〉の歌は、これまで述べてきた作品に比べるとずっと淡々(あわあわ)とした清浄な桜が描かれている。だが、この歌に込められているものはそう単純ではない。作者前登志夫は、歌をつくる以前に各地を遍歴したりしながら詩作に心を注いだ月日があった。その後、吉野にある生家を継ぎ、晴林雨読の生活に入ったが、こういった山林に己れを閉じ込め文明から疎外された状況を、前は自らの谷行(註)として位置づけてきた。
しんしんと青き傾斜(なぞへ)に陽は差して谷行(たにかう)といふ亡びもあらむ
 〈さくら咲く〉の歌に接したとき、私は作者のこういった経歴に思いをいたさないではいられない。その前が桜咲く朝、斧――それはなりわいのための道具であるとともに、凶器と化すものでもある――を研ぎながら、人生に対する深いいとおしみとかなしみを込めて〈夢やはらかし〉と詠うのだ。
 この歌は、数ある桜を詠みこんだ作品の中でも、私のとくに愛唱するものである。吉野の桜は今年も見事に咲くのであろうか。一度、桜の盛りの吉野を訪れてみたいものだ。
(註)たにこう。修験道で、峰入りの途中、病気にかかり修行の続行が不可能となったとき、その者を谷底に突き落として捨てること。同名の能がある。
(1991年4月5日発行)

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発行人 根本啓子