水燿通信とは
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9号

花火があがる空の方が町だよ

尾崎放哉(『大空』大正15年刊)

 尾崎放哉(明治18年〜大正15年)。大正時代の自由律俳人。種田山頭火と共に、よく放浪の俳人、漂泊の詩人などと称される。だが、彼自身は決して放浪を求めたわけではなかった。一高、東京帝大を卒業したエリートで一時は保険会社の要職にあったが、人間関係をうまく処することができず、酒の上での失敗を繰り返し、また病気になったこともあって、寺の堂守にでもなって無言、独居の生活をしたいと願った。しかしそのような仕事を見付けても、酒で失敗したり寺の事情などで長く居ることができず、結果として3年もの間各地の寺などを転々とすることになったのである。このように人との関わりを極力絶ちたいと願った放哉であったが、同時に彼は大変な淋しがりやで、誰よりも人恋しさを募らせた人間でもあった。
 上の句、終焉の地となった香川県小豆島西光寺奥の院南郷庵(みなんごあん)での作。放哉はしばしば回想や創造に拠った句を作っているので、実景に即した作品とは断定できない。しかし、彼が南郷庵に入ったのが大正14年8月20日で、翌年4月に亡くなっているから、この庵で花火の句を作っても不思議ではない。ここでは一応、実景を詠み込んだものとして味わってみよう。
 放哉は南郷庵に入ってまもなく随筆集ともいうべき『入庵雑記』を書き始める。それによると、高台にある庵からは、夜間は遥かの遠くに3つほど灯りが見えるだけで、周囲はほとんど真っ暗だったという。そんな中に一人佇って、花火が揚がる方角の町に想いを馳せる放哉。その町の生活に自分は決して入っていけないことがわかっているだけに、なおのことそれに対する恋しさは募る。
 放哉にはまた、次のような作品もある。
雪空にじむ火事の火の遠く恋しく
(1990年7月16日発行)

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発行人 根本啓子