それはほんの偶然がもたらしたモノだった。
普段からアルバイトの為に学校を休む事の多い麻衣が久しぶりに学校行事(文化祭より幾分小さめの研究発表会なるもの)に参加出来ると思ったら、例によって他人の都合など何所吹く風の渋谷サイキックリサーチの所長様には好奇心探究心をそそられる対象に巡り会ってしまったらしく、いきなり泊まり掛けの出勤命令が言い渡されてしまったのである。
いつも参加どころか、手伝いもままならぬ身で(クラスの誰もそんな事は思っておらず、本当に忙しいのだなと感心すらしているのだが)肩身の狭い思いをしている麻衣は連絡のあった日、事務所の方を休んで準備が終わるまでとばかりに手伝いに励んだ所、作業は深夜に及び、その日麻衣は疲れていた為に自分の部屋に着いた途端睡魔に襲われて寝てしまったのが始まりだろうか。
翌日、疲れの溜まっていた麻衣が目を覚ました時、時計は無情にも出勤時間を告げていた。
無論、何の準備もしていなかった麻衣が必要最低限の手荷物をスポーツバッグに放り込んで、出かける準備を整えた時には時計は遅刻を知らせている。
それからふらつく頭と身体を無理矢理に動かして、指定された待ち合わせ場所に移動すると、しっかり所長様はお冠で麻衣の到着と殆ど同時に車は発車し、その道中、麻衣は休む暇なく所長───ナルのお小言を聞く羽目になっていた。
さて、現場に着いてからの事は説明の必要もあるまい。
お仕事大好き人間のナルとリンが時間を無駄に過ごす分けもなく、着いた瞬間から機材の設置がなされていく。現場は無人の廃虚で、車が現場に着いたのがお昼ちょっと前、今回は助っ人が参加していない為最低限の機材を設置し終わるのに数時間を要し、気が付けば夕方の風が吹いていた。
加えて云うなら、その日、関東地方は記録的猛暑を更新した日でもあったのだ。
機材の設置が終わり、今日は車で野宿の体制が整いつつある頃、何気なくナルがいつも通りに麻衣にお茶(何故か機材の中にいつも含まれている)を頼んだ時、それは起きた。
簡単な電気コンロを設置してお湯を湧かしている時、麻衣に不審な所は見られなかった。だが、お茶の用意が整い、振り帰ってナルとリンを呼ぼうと一歩を踏み出した時、麻衣は目の前が暗転し、全身から力が抜け、自分が倒れた事さえも分からぬままに地面にうつ伏していた。
■□■
「麻衣?」
確かに麻衣の自分を呼ぶ声を聞いたと思ったナルは、訝しむように機材の山の向こうに声の主を探した。だがそこにいるはずの少女の姿はなく、沸かしたてのお湯が湯気を立てているのが見えるばかりである。
お湯を放っておいて何所に行ったんだと、溜息をつきながらナルが機材を避けてまわり込んだ所で見つけたのはプラスチック製の皿やカップに突っ込むように倒れ込んでいる麻衣の姿だった。
「麻衣!」
目の前の機材の山を退けるのももどかしく麻衣の側へ駆け寄って座り込み、そっと頭を抱え込む。
「麻衣、どうした?」
顔色は真っ青で、呼吸は荒い。麻衣の手を拾い上げれば微かに痙攣している。どう見ても貧血とは思えぬ症状に、ナルは困惑を隠せない。
一瞬の事で恐慌状態に陥りかけたナルを現実に戻したのは、彼の優秀な部下にしてメンバー最年長者のリンだった。
「頭を動かしてはいけません。谷山さんの意識が有るかどうか、確認はされましたか?」
麻衣の呼ぶ声でここへ来たのか、ナルの麻衣を呼ぶ声の変化に気付いて来たものか、リンは一目見て素早く現状を把握したらしかった。
そして、珍しく我を忘れかけている上司にそれとなく次に取るべき行動を示唆する。ナルはナルでリンの言葉にさも今それをするつもりだったかのように装って、麻衣の耳もとで囁くように声をかけた。
「僕の声は聞こえているか? 分かるなら手を握り返してみろ」
微かに麻衣の瞼が動いて、ナルの声のした方を見ようと頭を動かす気配がしたが、上手く行かないのか、殆ど姿勢は変わらなかった。そして痙攣しながらも麻衣の指先がナルの手を握ろうとうごめく。
「苦しいなら無理にしなくて良い。今、救急車を呼ぶ。おとなしくしていろ」
ナルが振り返るとそこに既にリンの姿は無く、何所か遠くでサイレンの鳴る音が響いていた。
■□■
「まったく、あんたは何をやってんのかしら」
口調は怒っていても麻衣を心配しているのは明らかで、ペシンと額を叩く指先に力は込められていない。
「うえぇぇ〜〜ん、もう勘弁してよぉ〜」
麻衣は訪れる見舞客から漏れ無く同じような事を云われて、そろそろ我慢の限界がきたらしい。
「反省してるから、皆してそこまで云わなくたっていいじゃない〜〜〜」
「馬鹿ね! 倒れるまで我慢してるような子に同情の余地はないわよ」
「そうですわ。今回はお手伝い出来なくて申し訳ないと思っていましたのに、安原さんから麻衣が倒れたと聞いた時は心臓が止まるかと思いましたのよ」
「ごめん……。でも、そんなに心配してくれたんだ?」
「ここで貴方に何か有れば、その後始末粗するのはナルですのよ? 只でさえ足手纏いでいらっしゃるのに、更に面倒事を追加されてはナルの方も迷惑でしょう?」
真砂子の容赦無い言葉にがっくりと肩を落として「そうでしょうとも」と麻衣は力無く呟く。
その横で、手早く綾子は差し入れの果物にナイフを入れている。
一口大に切られたそれは、慣れた手付きで小皿に選り分けられ、サイドテーブルの上に置かれた。
「食べ物は点滴が済むまで御預けね」
恨めしそうに上目遣いで見上げる麻衣の視線をものともせず、綾子は優雅に足を組み換える。
「大体あんたは、自分の事に無頓着過ぎるわ。
あんたにしてみれば、なんとかなるなんて甘い見通しを立ててたんだろうけどね、実際何とかなった試しがあったかしらねぇ?」
「全くですわ。一人で勝手に勇み足を踏んで、玉砕を飽きもせず繰り返して、その度に私達がどんな思いをしてると思っていらっしゃるのかしら」
「少しは信用して欲しいわよね」
「信用して無い訳ないじゃん!」
綾子と真砂子の二人から交互に云われて麻衣の身が更に縮こまる。だが、二人を信用していないと思われるのは心外で、思っていたより大きな声が麻衣の口からこぼれる。
「信用して無かったら、こんなに長い時間一緒に居られないよ」
「だったら、こうなる前になんで、誰にも言わなかったの?!」
その言葉を聞いた綾子はそれ迄座っていた椅子から立ち上がり、麻衣を威圧するように頭の上から見下ろして来る。
「リンにしろ、ナルにしろ、あんたよりは立派なプロで、あんた一人欠けたって、その穴を埋めるくらいわけないわよ。もともと二人でこっちに来てたんだし、不摂生が原因で仕事中に倒れて迷惑かけるのはプロとして失格なの。覚えておきなさい!」
言いたい事を言って、気分がスッキリしたのか綾子は大きく息を吐き出して肩の力を抜いた。
「本当に必要な時に、自分が倒れていて役に立たないなんて、情けない状況を一度体験されてみたら良いのですわ。体調が悪い事を理由に休む事は甘えではありませんのよ?
本当に大事な事を忘れてはいけませんわ」
飽くまでも毅然として真砂子が言う。
それに静かに綾子が頷いた。
「役に立ちたくたって、何にも出来ない人だっているんだしね。自分が恵まれた環境に居る事をちゃんと理解しておきなさい」
「綾子は生きた御神木が無いと、役立たずだモンねぇ」
「ヘッドロック!」
折角の綾子のお言葉に麻衣がわざと憎まれ口を叩けば、御返しとばかりに綾子の腕が麻衣の頭を抱え込むようにして首を絞めに掛る。
麻衣の口から「ぐごごごご……」と、意味不明の声と云うか、音が漏れて手を大きくばたつかせる。
「ろ、ろ〜ぷ!」
「あら、ここはリングでしたの?
あたくしはてっきり土俵かと思っておりましたわ」
「「あたし達はおすもうさんかい?!」」
着物の袖で口元を隠し、くすくすと上品に笑うのは真砂子だ。その真砂子に力士扱いされた綾子と麻衣が不本意そうに睨みつけている。だが、次の瞬間には3人揃って大爆笑だ。
知り合って間もなくの頃は、3人でこうして笑いあえるだなんて誰も想像などしていなかったが、3人寄れば姦しいと云う文字通りな関係を築いている麻衣達。綾子を長女と称し、3人姉妹を気取ってみたりもする。但し、麻衣と真砂子の二人の時は、こっそり綾子の事を「おかあさん」と呼んでいるのは一応、秘密だ。
麻衣と親しくなったのはこの二人だけでは無い。綾子達と知合う切っ掛けになった事件当時、自称『歌って踊れる密教僧』こと滝川法生や、日本人よりバリバリの童顔エクソシスト、ジョン・ブラウンが居る。ナルがその実力を認める数少ない協力者だ。
それと、その後の事件で知り合いになり、何故か麻衣と同じく事務所のアルバイトにおさまっている安原修。皆、一癖も二癖もある人格形成をしているが、麻衣にとっては気の好い友人達だ。
見ただけでは分らないが、実は寂しがりやの麻衣の為に、用も無いのに事務所にやって来ては均きり騒いでナルに「五月蝿い」と怒られるのを飽きもせず繰返すのが彼等の日常である。だから、綾子は気になった事を口にしてみた。
「今日の所は大事を取って、一日入院だって聞いたからさぁ、あんたの事でしょ。暇を持て余してんじゃないかと思ってたんだけど、結構元気よね」
「大病患った訳じゃないからね。御飯食べたら元気だよぉ〜。それにね、綾子達が来る前にぼうさん達も来てたんだ」
嗚呼と、真砂子が頷いた。
「そうですわ。ここへ来る途中、ブラウンさんや滝川さんとすれ違いましたけど……、あまりお時間は取られなかったようですわね。滝川さんなど、このお部屋に貼付いて離れ無さそうですのに」
「ナルにね、勾引(かどわか)されてっちゃった★」
ぐぶっと、えも言われぬ音が喉元から零れる。
「あんたを餌に、人手を釣るとは流石よねぇ」
「お仕事を早々に切り上げていらっしゃったのに、お気の毒ですわね」
綾子と真砂子が各々慰めにもならない事を云う。
「ま、それじゃあ、あたし達が来る前から賑やかなのが居たんだ。退屈する暇も無かったかな?」
「お陰様で。みんな来てくれて有難う」
にっこりと微笑まれれば、悪い気がしないのが人情である。甘えん坊の妹に「明日、迎えに来るからね」と念を押して綾子が部屋を出ていく。それに続いて、真砂子も部屋を辞する。
「今日ぐらいはゆっくりおやすみなさい」と、釘を刺すのも忘れずに。
■□■
二人が出ていって、静寂が戻って来た室内に一人残された麻衣は、ぽふんと音をさせて枕に倒れ込んだ。
本当に今日は忙しかった。
朝からの強行軍に、病院に運ばれてからは引っ切り無しの見舞客。 休む暇無しとは、この事である。
実を云うと、病院は少し苦手だ。
だから、大勢の見舞客には助けられた。
1人きりになると不安が押し寄せてくる。
父は帰って来なかった。
母も帰っては来なかった。
このまま、何所か別の場所に魂だけが攫われて行ってしまうような気がして、独り、肩を抱いた。
不意に、人形のような白い顔に赤みが差したのを思い出す。男にしておくのが勿体無い程綺麗な顔。
彼も病院へ運ばれたのだった。
だけど、彼は帰って来た。
彼だけは、帰って来たのだ。
シンテイシシテイタハズノソノヒトハ
フタタビイキヲフキカエシ
カノジョノマエニモドッテキタノダ
大丈夫。
帰れるから。
自分は元気だから。
自分を励ます様に心の中で繰り返しそう唱える。
「どうした。何所か痛むのか?」
顔を上げたら、そこには黒衣の青年が立っていた。
まだ続く・・・・すみませ‥‥(がふ/吐血 )