「古谷ってば昨日カレんトコ、泊まったらしいよ?」
雑誌を広げながら流行りの店をチェックしていた娘がふと口にした。
「え?何、古谷ってば例の男に告ったの、一週間くらい前やなかった?」
「一週間か……、意外に早かったな」
「んだね。古谷ってオクテそうにみえるのに」
この会話がなされているのは某大学の一室である。生徒達は段のついた座席に座り、教授を見下ろすようにして講議を受けているはずの場所。これが大学を選んだ理由の講議なら真剣にもなろうが、単位
を取る為だけに組まれた科目では講議にも身が入らない。
そんな訳で最上段にかたまって座っている一団は世間話に花を咲かせていた。その中の1人はそれでも何やらノートをとっていたが、どうやら飽きてきたのかとうとうノートを閉じて会話に加わる。
「古谷って、入学式のとき一緒に居たコだよね」
「そうそう、谷山と一緒に迷子になってたあの子だよ」
「うっわ〜懐かし。そんで『親切に』案内してやるなんて男に二人で付いて行こうとしたたんだよね」
「うち等と反対の方向に歩いて行くンやもん。驚いたわ」
「猪飼に感謝しときなよって、言ってもまだ分かってないだろ」
「宇山も新川も、猪飼まで〜。なんで人をそこまで疑うかな?もしかしたら別
の行き方で教えてくれようとしてたのかもしんないじゃん」
「甘い! 谷山は甘い! あんた特定の彼氏早く作んなさいよ」
「ほんまやわ。でもいい加減な男に捕まったらあかんで? うちらにちゃんと相談してや」
「谷山もオクテだからなぁ〜。でさ、泊まったってことは『やっちゃった』んだよね?」
「その話、何処までホント?」
「ふふ、本人からばっちり聞いておいたよ」
「それで、どんなって?」
「谷山、顔赤いよ」
「谷山お子様だから〜」
「違うもん」
「う〜ん。お子様な谷山には刺激のきつい話しかもね」
「それじゃしょうがない。後で教えてあげよう。谷山には彼氏が出来てからね」
その場は、話題提供者が話しを切り上げて此れで終わりとなってしまったが、その後、谷山と呼ばれた彼女がバイトに行った後、残りのメンバーがこの話題に戻って好奇心を満足させたのは言う間でも無いだろう。が、ただ一人話題から弾かれた少女だけは複雑な気持ちを抱えていた。
話しはここから始る。
◆
「お子様じゃないもん」
ぷくっと頬を膨らませてソファにうずくまっている彼女のその姿は『お子様』と言われても仕方が無いように思われたが、賢明な彼は聞こえない振りをして手元の本に視線を戻した。彼女は今日、バイト先の事務所に現れた時から機嫌が悪かった。いつもなら帰れと言っても聞かない連中までがそそくさと帰って行った。彼等の間でどのような会話がなされていたのか知らないが、今日は彼女の機嫌を直す事に成功した者は居なかったらしい。
放っておけば一時間で機嫌の変わる彼女は、だから一日中しかめっ面のままだった。
そんな状態だったから、今日は仕事にならないと判断して早めに事務所を閉めたのが一時間程前。ここは事務所から程遠く無い彼の私室である。
実を言えば、彼女がここに来たのは初めてでは無い。以前から彼女に不用意にまとわり付く男達に不快感を覚えていたものの、その不可解な感情に対処しようとしていなかった彼も有る事件を切っ掛けにとうとう降参した。
彼女が他の男と居るのを不快だと感じるのなら、他の男が側に来ないように出来れば良いのだが、それには限界が有る。四六時中側にいる事は出来ないから。だけど、彼女の方から側に来る分には問題ない。
自分の気持ちに自覚が出来たら今度は独占欲まで出てくるらしく、自分から人目の有る所でキスをした。もしかしたら彼女が拒否するかもなんて考える事も出来なかった。
それは彼女に纏わり付く男達に対する宣戦布告。彼女に対する自分の気持ちを伝える為の手段。結局言葉にする事は出来なかったけれど、その後、なんとなく別
れ難くて、彼女を部屋まで案内する事になってしまったのだ。ただ、その日、彼女は一日中忙しく働いていたので彼の部屋に付いて直ぐ安心したように眠ってしまったのだが。
普通の男ならそこで落胆するのかもしれないが、彼は普通とは懸け離れた存在だった。
それでこそ彼女らしいと思ったし、少なくとも夜があけるまで彼女の寝顔を1人占め出来るという事実。彼女に自分のベッドを占領されるかわりに、その報酬として彼女の唇の感触を存分に楽しませて貰っていたりする事は、勿論、彼女には言っていない。
とにかく、この彼の部屋に訪れる事の出来るのは現在、彼の優秀な助手と彼女の二人だけだ。だから彼女がこの部屋にいる限り、他の誰かに割り込まれたり、彼女を攫いに来る存在も気にする事は無いと言って良いだろう。だが、肝心の彼女の御機嫌が斜めなのはあまりよろしく無いようだった。
普段、彼が相手をしようがしまいがそんな事に慣れている彼女が機嫌を悪くする事はそれ程無い。(全く無いと言えない所がなんとも……ではあるが)
大抵は事務所にいる時と同じように彼の為にお茶の用意をする事が彼女の役目だ。
彼にとって、彼女は空気のようなものだ。
居ても居なくても、気にした風が無いのに、居ないとなれば息苦しく感じ、物足りなくなる。それは彼女の纏う空気が彼の生活環境の一部になってしまった事を物語っている。
その彼女の空気が乱れている。
本当ならここでいつものように「お茶」と言いたい所だが、彼女は自分の感情に素直なだけ、彼女の入れるお茶に味が微妙に反映されてしまう。どうしたものかと、自問してみるが答えは出てこない。彼女の不機嫌の理由が分からないのだからそれも無理からぬ
事ではあるのだが。彼女から発信される不機嫌ビームが気になって、手に入れたばかりの貴重な本の内容も頭に入ってこない。彼は観念して本を閉じた。
「お前は拗ねる為にここに来ているのか? だったら帰れ」
言って、帰ってきた時から椅子に掛けっぱなしだった上着に手をのばす。
これは言外に「送って行く」と言っているのだ。だけど、彼女はむくれたままソファに置いてあったクッションを握りしめたまま動こうとしない。
「帰りたくない」
「麻衣」
毎度の事ながら、拗ねている彼女―――麻衣は、彼―――ナルの思い通りには動いてくれなくなる。これもナルにとってはいつもの事なので動じる事は無いが、このままここに居られてもナルの気がつられて滅入るだけだ。
「だって……」
何があったのだと問いつめるナルの視線に、麻衣はポツリポツリと昼間の大学であった事を話しはじめた。
自分よりオクテだと思っていた友人がさっさっと彼氏をつくり、さっさと泊まりに行って、どうやらその日のうちに『初めての夜』を過ごしたらしいこと。その話題になったとたん、他の友達が麻衣には刺激が強すぎると仲間に入れてもらえなかった事などを。
それでようやっとナルは納得した。大学に行くようになってもまわりに『お子様』と言われている事が堪えているのだろう。現在の麻衣を見ていれば、彼女の友人達の評価はそれほど間違っていないと言える。ナルは思わず微かな頭痛を感じて額に手を当てた。
「そんな下らない事で、ずっと拗ねていたのか」
「下らなくないもん。なんでみんなして子供扱いするの? あたしってそんなに子供っぽいかな?」
「そうやって拗ねている事自体、自分で子供だと認めているようなものだな。誰が何を言おうがお前はお前だろ。言いたい奴には言わせておけば良いだろう」
他人の視線や評価を無視する事に慣れているナルには、麻衣がどうしてそこまで他人に言われた事を気にするのか分からない。他人の意見に惑わされて自分を見失う事の方がよっぽど嫌だ。
「ナルは自分に自信持ってるから。だから、他人が何言っても気にしないんでしょ。あたしはナルと違って自慢出来る事なんてないもの」
自分を知らないとは恐ろしいものだなと、ナルは麻衣に分からぬ様嘆息する。本人は分かっていないようだが、麻衣は酷く目立つ。容姿の美しさを問うなら原真砂子や松崎綾子の方が上だろう。だが、それと違った意味で麻衣は人目を惹く。多分、一番適切なのはキュートなという形容だろうが、その時々で表情の変わる麻衣は時折コケティッシュな魅力も持っていた。
そのおかげで勘違い男が時折事務所の前に現れるが、麻衣に気付かれないうちに撃退するのは毎度の事(主に、滝川やジョンが進んでそれとなく妨害工作をしている)なのでナルも慣れている。
もっとも、今年は昨年までと事情が変わったので一度、きっちり釘を刺しておいた方が良いかもしれないと密かに計画をたてる。
「気にするなって言われても、なっちゃうものはなるの!」
ナルが思考に耽っている間も麻衣は何事か愚痴り続けていたらしい。本当に帰る気が無いらしく、かたくなにソファに身を沈めている麻衣の隣にナルは自分も腰を下ろした。腕を伸ばして麻衣の柔らかな髪に指を絡ませ、そのまま頭を胸の方に引き寄せる。見れば目尻に涙さえ浮かべている。なにをそんなにむきになるのかと呆れつつ、涙を舌先で拭ってやる。そして麻衣が無意識に目を閉じた所を今度は唇に唇を重ねた。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に馬鹿だな」
「じゃあ何が子供で、どうすれば子供じゃないの? どうしたら大人に見えるの? そんなの分かんないよ」
「そうやって拗ねてる姿は子供だろう?」
「だって、新川は彼氏出来たらって言ってたけど、そしたらナルって何?」
「……」
あんまりはっきり問われてしまったので、ナルは言葉を失った。もともと人付き合いの良い方では無い為に、自分の気持ちを他人に話す事等滅多に無い。このところ、二人っきりになると挨拶は大抵キスで済ませていたので、言葉にして言った事等無い事にナルは突然気が付いた。
以前、言わなくても気持ちは伝わっていると思っていて、自分の気持ちを言葉にし損ねた青年が、たった一人の女性を失った事をナルは思い出していた。
分かっていても言葉にすると言う行為はなかなかできるものでは無い。特にナルのようなタイプの人間には。
「一般的には付き合っていると表現すると思うが?」
それがやっとの事で言葉に出来た全てだった。
(※情けないぞ……ナル ← ※注 これは煩悩の神の呟きである)
◆
彼氏が出来て、彼の部屋に一晩泊まれば大人なのか?
そうでは無いだろう。
だったら麻衣は経験済みだから。にも拘わらず、誰も麻衣を子供だと評するのはまだ、麻衣の知らない事(?)があるのだ。大体、皆(大学の友人達)が言いたい事は分かっているつもりだ。麻衣はナルから自分との関係をはっきり言葉にしてもらった事は無い。だけど、それらしい扱いは受けていたと思っている。それでは何が足りないのか……
麻衣はそれを自分から言うのはどうかと思っていたが、この時ばかりは悔しさの方がまさっていて羞恥心の方が何所かへ隠れていた。
ナルをじっと見る。
「それで、お前はどうして欲しいんだ?」
ナルが意地悪く聞いてくる。
「ナルは『大人』なの?」
「さぁ?」
聞けば軽くかわされる。
「ナルって、そーゆーこと、嫌いそうじゃん。それに、言ったらしてくれるの?」
どうせ、嫌がるだろうと麻衣は尋ねた。ナルは他人に直に触られるのを嫌う。そんな事は百も承知で聞いてみた。
「して、くれるの?」
「してみたいのか?」
二人とも何を、とは言わなかった。だが、麻衣はナルがそう答えるとは思っても見なかったので少し、たじろぐ。
「……してみたい」
重苦しい沈黙が流れる。
二人で見つめあう時間が永遠に続くかと思われた時、最初に動いたのはナルの方だった。ナルは普段と変わらぬ
様子で麻衣の頤に手を添えてまず、その口を己の唇で優しく塞いだ。そしてその次に麻衣の手を取ってその手の甲に、手のひらに唇を押し当てる。
そのまま今度は指の一本一本にまで唇の洗礼は続いた。
呆然とする麻衣はただ黙ってナルのする行為を見ている事しか出来なかった。
それどころか、瞼をふせて自分の指にキスの雨を降らせているナルにみとれてしまう。
なんで、こんな時までこの男は綺麗なんだろう?
ドキドキする。
手に洗礼が済むと今度はその腕を引いて麻衣の身体を引き寄せた。今度は両手で麻衣の顔を包み込むようにして唇に、瞼に、新たにキスの雨が降り注ぐ。
ナルの少し冷たい唇の感触に酔っているうちに、ナルの手はいつの間にか麻衣のブラウスの裾をスカートからたくしあげ、その下にある素肌を弄り始めていた。左手で脇腹を背中をゆっくり撫でていく。空いた右手は麻衣のブラウスの釦を一つづつはずしていく。
ゆっくりナルの手は麻衣の躯の輪郭を確かめるように上に下にと移動する。
いつしかナルの唇は麻衣の唇から喉を通り、首筋へ。優しく触れるだけのキスが妙にくすぐったい。時々、わざと舌先を這わせて軽く舐める。その度に麻衣は現実に引き戻されて羞恥に赤くなる。してくれと言った手前、恥ずかしいから止めてくれとは今さら言えなくて、ただひたすら麻衣はこの状況に耐えていた。
ナルの愛撫は何時の間にか麻衣のスカートの下に潜り込み、麻衣の内腿を撫で上げる。
誰も触れた事の無い部分の手前で焦らすように円を描いている。
そしてナルの唇が首筋から緩やかな弓形を描く鎖骨まで降りてきて、歯を、たてた。
「な、なに?!」
背中を一瞬にして駆け抜けた謎の感覚に耐えきれず、麻衣の口から声がもれる。
だけどナルはそんな事等そ知らぬ振りで、更に舌の方へと舌滑らせていった。
先程の驚きで一気に羞恥心が戻ってきた麻衣は慌ててナルの肩に手を置いて上半身を離そうとするが、ナルの舌が臍の辺りを弄り始めたのに悲鳴をあげた。
「や、ご免、恥ずかしいからっ……くすぐったい!やだ、ナル!」
これ以上、先に進んだら自分を見失いそうで、麻衣は始めて抵抗した。
弾む息の下で、麻衣は自分を見下ろしているナルに気付いた。
「ごめん……」
「べつに。麻衣に期待していない」
何をだ?
麻衣は一瞬そう思ったが、止めてと言った麻衣の言う通り、ナルは行為の途中で止めてくれたらしいと分かると恥ずかしくなってきた。誘ったのはどんな形であれ自分なのだ。
それを途中で中断させると言うのは男の人にとっては、酷く残酷な事ではないのだろうか?そんなふうに考えて麻衣はナルの方を見た。
「嫌なら、無理にしなくて良い。後味の悪いのはご免だ」
そう言って、ナルが先程はずしたばかりの麻衣のブラウスに釦をかけていってくれる。別
に怒った様子が無いのがまた、恥ずかしい。麻衣は釦をかけていくナルの手を止めさせてその胸に顔を埋めた。
「ごめんついでに泊まってって、良い? 今日はソファで寝るから。頭冷やしとく」
「今日は寒いから風邪をひくぞ。後でお前に風邪を移されるくらいなら早く先に寝ておけ」
コツンと頭を小突かれた。ナルのベッドは広くて一人で寝るには広すぎるくらいだが、二人で寝るには少し、狭い。密着しなければならない状況で、今日は本当に眠れるのだろうか?
こうして考えると、自分が異常な状態であった事に麻衣は始めて気が付いた。
ふつう、ベッドが一つしか無い状況で、片方が女性の場合はベッドを女性に譲って、男性がソファで寝そうなものだが、ナルは絶対譲らなかった。だから寒く無い状況で寝ようとしたらナルの寝ているベッドに潜り込むしか無かったのだが。
やっぱり、子供だったかも。
麻衣は反省すると共に、この状況でなお、態度を変えないナルに溜息を漏らした。
何故だろう?
して、と頼んだのは自分だ。
止めてと頼んだのも自分だ。
それなのに、なぜだか、今頃になって『惜しい』とも思っている。
乙女心は複雑で、あのまま全部して欲しかったと訴えている自分の何所かと、いう事を聞いて止めてくれたナルに不満を感じている自分と……
あ〜あ、
本当に惜しい事、した。
果たして、麻衣とナルが本当に始めての夜を迎えるのは何時の事か?
それは作者にも謎である。
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