「青い金魚、そしてくり抜かれた体。」 近藤雄三
「先生は悲しいよ。」
そう言うと、先生は教壇に手をついたまま、目を閉じた。顔は正面に向けたままだ。
グランドから小さく歓声が2度上がる。
今日も曇り。今にも地面に灰色の重ったい雲が落ちてきそうだ。
ゴールが決まったのだろう。きっと誰かがガッツポーズをしてそれを見てまたみんなで小さく歓声を上げたのだ。
午前10時。
どこかで鳥が鳴いた。いつも気になるが、ぎーぎーと苛つく声で空を低く横切って飛ぶ鳥だ。どこまでも地を這いながら飛んでいく鳥。
「金は盗まれる、いすは燃やされる、掲示物はぼろぼろ、壁は真っ赤だ。ちょっとやりすぎじゃないか。そりゃあこんな世の中だ。ストレスもたまるさ。やった奴にも事情ってもんがあるに違いないさ。だから言ってくれよ。
って言ってもう半年なんだ。悲しいよ。俺は悲しい。お互いオープンにしたいんだ。辛いことはお互い、みんなで分けてみたいんだよ。そう言ってるじゃないか。信じてみようよ。まず信じ合ってみようよ。それができないのが悲しんだ。先生は悲しい。」
ふーと大きくため息をつくと、先生はどすんといすに体を沈めた。手を組み、また目を閉じる。
35歳、担当は英語でぼくらの担任だ。最近結婚した。少し悪ぶっていて、熱血も馬鹿にして、偉そうな説教もしない。いい先生だがそれだけだ。カッコだけ。最後の一歩は踏み出さない。
それに何が悲しんだ。自分の思い通りにならないことが悲しんだろ?
でもそれも当たり前だ。誰が好き好んで人の人生にまで責任を持つ?とりあえず先生として言わなきゃならないことは言っておく。
あとは悪いのはぼくたちだ。
朝っぱらからクラスごっこ。べつに授業は塾でやってるから問題ないけど、この停滞感はだるいな。だるい。
ピシッ。
背中に小さなものの当たる感じ。
それが連続する。カッターで小さく削った消しゴム。その柔らかな尖った先端に、一瞬背中の2箇所が続けて熱くなる。言わないよ言わないよ。絶対に言わないから心配しないで。言わないよ、言わないから。
静かにやり過ごす。言われた通りやって、1日1日やり過ごしていけば、やがて終わる。少なくとも夏休みは来る。とりあえずそこまでだ。そこまではこらえる、つないでいく。
* * *
「今度は、何がいい?」
木村が言った。
ぼくの部屋だ。もうすぐ10時。ピザの匂いが部屋にまだ残っている。そろそろ両親も帰ってくる。
木村幸一とは小学校から一緒だ。
幸一は頭が良い。小学生の時、中学受験組の連中のやる難しい算数の問題も黙ってじっと問題を見つめたあと、見事に解いて見せた。それも参考書には無いやり方で解く。それはクラスのちょっとした見物だった。
でも中1の時先生と折り合いが悪くなり、それ以来授業はまじめに聞いていない。でも中間でも期末でも10番を切った事は無い。
サッカー部の中心選手でゲームは彼が作る。マイペースでみんなに一目置かれている。彼はいつも背筋を伸ばし前を見ている。彼にいじめられて1年が経つ。
「机燃やそうよ。」
遠山実が言った。
こいつは家が厳しい。父親は社長で、母親はPTAの会長。兄貴は東大を狙っている。
笑っちゃうくらい典型的なパターンだ。本人はできが悪く、でも家では家族ごっこ。そのストレスをここで晴らしている。自分でもこんな境遇だったらグレないとおかしいよな、しっかりぐれてやるからな、と言って、ほんとにバカやっている。いい迷惑だ。
「今度は俺自分でやろうかな。おまえにやらすのも面白いけど、石油かけて火つけるのなんか最高だよな。」
「でも量とか難しんだろ?リュウ。」幸一が言った。
「ああ、むずかしいよ。とても。学校燃えちゃったら大変だからね。」
「別にいいけどな。燃えたって。」
実が言って幸一がうなづいた。
遠くで鳥の声がした。昼間のあの鳥かもしれない。夜の闇の中を満月に映る自分の影を追いかけながら朝まで飛び続けるのだ。
それにしてもなんて会話だ。こんな会話はおかしい。何でこんな会話を寝転がって家でしなければならないのだろう。何を間違えたのだろう。
言いなりになって、金を盗んだり、火をつけたり、掲示物を破きスプレーで壁を真っ赤に塗る。
面白くも何とも無い。じゃあ何でこんなことする。でもそれはぼくがクズだからだ。クズで弱いから。それだけだ。
* * *
朝6時、教室。
ストーブの石油を入れたペットボトルを持ち、ぼくは教室に立っている。
寒かった。教室には明るい朝の光が斜めに差し込んでいる。小さなほこりがきらりと光り、ゆっくりと光の層を昇っていく。床のほこりが暖かな日の光にふっと舞い上げられていく。ぼくはそれをしばらく見つめていた。
知らぬ間に涙が流れ、汚れた床に小さくしみが広がっていく。
自分のいすに石油をかけ火をつけた。ぼっと火が上がり、人の形に見え、ぼくが燃え、黒く焦げていく。
ぼくは差し込む光の中に手を入れた。
* * *
「じゃぁ、今度は赤と黄色と青にしようぜ。」
実は真面目な顔で行った。
「で、床に横断歩道描くのか?」
幸一が苦笑いしながら言った。ぼくも笑いそうになって事態の深刻さを考え、こらえた。3色のスプレーを持って教室に忍び込むのはぼくなのだ。
「いいよ、机で。リュウ、机燃やせ。教卓だ。」
実が言った。
「火は勘弁してくれないかな。怖いよ。」
「リュウ。」
「えっ?」
「おまえさっきピザ食ったよな。」
「うん。」
「ピザには色んな種類がある。だよな。」
「ああ。」
「たとえば、どんな種類だ?」
「いいよ。わかった。」
「言ってみな。」
「わかったよ。やるよ。教卓を燃やすんだよね。わかった。やるよ、やるさ。」
「おまえら何言ってんだ?」
実が目を点にして二人を交互に見ながら言った。
* * *
朝の光の差し込む教室。いつかと同じだ。
ぼくは赤のスプレーを壁に向けた。シューという音と共に壁が真っ赤になっていく。ぼくは円を描く。
日の出だ。ぼくはそう小さく声に出した。いや血だ。おまえの血だ。すぐにそう声が跳ね返った。
壁が真っ赤になっていく。
ぼくの血が吹き出て行く。教室の前後左右の壁が真っ赤になる。
残りを天井に向けた時、シューという音がスーと音に変わり赤が消えた。
机の上にいすを置きスプレーを天井に向けていたぼくは、意味も無く、天井から落ちようとする赤い小さなしたたりを人差し指で受け止めようと指を伸ばした。
1cmほどの赤い滴りはなかなか落ちず、ぼくは背伸びをし、滴りを指ですくおうとした。
しばらくの間、ぼくは誰もいない朝の真っ赤な教室の机の上のいすの上で、必死になって指を全身を伸ばし続けた。
* * *
「ピザがどしたんだよ?」
実が声を荒げた。
「リュウ、あとで教えてやんな。覚えてるよな。実、帰ろう。」
「リュウ、明日だ。明日話せ。」
実はそう言うと、残ったピザを口に放り込み立ち上がった。
覚えてるよ。覚えてるさ。あれからぼくは変わった。小6の冬だった。
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ぼくは幸一と小3から同じ小学校、同じスイミングクラブ、同じ塾に通った。小3になる春、新興の住宅地に引っ越してきて、おなじ形の一戸建ての家の隣同士となったのだ。
3年、4年と幸一はいつものんきにのんびりしていた。友達にちょっかいを出されてもニコニコしていた。ぼくは幸一のそんなところに苛ついていたが、幸一のお母さんからリュウちゃんよろしくね、と言われていたので、いつも幸一を見ていた。
幸一は物事の始まりと終わりが特にだらしなかった。学校でも塾でもクラブでも遊びでも、始めと終わりの区別ができなかった。
授業が始まっても教科書は出さず窓の外を見ていたり、それまでしていたこと、ノートに絵を書いていたらその事を、かまわず続けていた。学校の先生も最初は注意していたがそのうち諦め、ぼくは言われた通り自分が幸一を見なくてはならないと思い、いつも教科書とノートを出し、落書きは引き出しに入れ、鉛筆と消しゴムを出し、幸一がぼんやり考え事をはじめたときは鉛筆で横っ腹をつついた。
そんな時幸一は体をくねらせてうれしそうに笑ってぼくを見た。ぼくも笑い返したが、苛ついてもいた。そして不思議なことにぼくと幸一は卒業するまで同じクラス、席は隣同士だった。
* * *
学校からの帰り道、幸一が春は蝶を追い、夏はせみをじっと見つめた。
暖かな6年の春の日、ひらひらと舞う蝶と同じように幸一は体を揺らしながら、うっとりとした顔をし、平気で道路を突っ切っていく。
蝶はまるで幸一をどこかに連れてでも行くかのように、2度3度と舞い戻りながら公園の花壇へと向かっていく。
アスファルトに蝶と幸一の影が薄く大きくなったり小さくなったりしながら動いていく。
ぼくは耳を澄ます。
蝶の羽音が聞こえる。
幸一の心臓の鼓動が聞こえる。
夏休みももう終わりだった。でも今日も空気はむっと熱く重く、ツーと汗がいく筋も体を落ちていく。
ぼくと幸一は塾へ行く途中のビルの壁にぽつんとへばりつくセミを見ていた。
幸一は真剣な顔つきで、じっと顔を上げ口を開け、コンクリートのざらざらした壁で鳴くセミを見つめていた。
その下を何台もの車が通り過ぎていったが、セミの声はあたりに響き渡っていく。街中に響き渡っていく。そして灰色の街から青い空へとその声は突き抜けていく。
ふっとその声がやんだ。街から音が消えた。
幸一の右手があがる。
幸一の細い指がセミに向けゆっくりと伸ばされていく。
その細い指がまっすぐセミに向かって伸ばされた時、セミはまた鳴き始めるのだ。
ぼくはそう思った。
* * *
ぼくはしかし時間の心配をした。
スイミングや塾や家に帰る時間だけを心配した。時間通りに帰るよう母さんから言われていたからだ。幸一は毎日、いつも新しいものを見るように目を見開き、ぼくには同じにしか見えない花や木をじっと見つめていた。そして幸一はいつもいじめられていた。
みんなといっしょでない以上当たり前のことだった。
* * *
4年の夏休みのプールの日、着替えに時間がかかる幸一を待って、ぼくは校庭の真中にある、校舎の屋上近くまで伸びる古い樹の下で、顔を上げ、茂る緑の葉の間に揺れる太陽の光を見上げていた。
遠くからきゃんーという子犬の叫び声を聞いたような気がし、顔を下ろした。
白く光る校庭の向こうに青いコンクリートのプールがにじんで見える。
小さな黒いしみが動いている。それは地を這い、甲高い音を出し続けていた。
ぼくは立ち上がり、その黒い子犬のほうへ歩き始めた。
それは幸一だった。
泥水を頭からかけられどろどろになっている幸一だった。
白い校庭には転々と黒いしみが続いている。幸一は立ち止まり地面に向かいしゃがみこみながら叫ぶと、地面をけりつけながら歩き出し、5,6歩歩くとまた立ち止まり、地面に向かい叫んだ。
ぼくは体を幸一の方に向けた。
幸一がぼくに気づく。
べっとりとした髪から黒い水滴が粘りながら落ち、鈍くぎらっと光る。
幸一は体をくねくねさせながら両手を広げると、ぶ〜〜んと声を上げながらぼくに向かってきた。うっとりとした笑いが泥の下に見えた。幸一はぶ〜〜んと言いながらぼくの周りを2周、3周、4周と回った。5周を回り終えると幸一は今度は逆に回り始めた。ぼくは校門に向かいながらゆっくりと歩き始めた。幸一はぼくの周りを回りつづける。
校庭にぼくと幸一の二つの影が濃く映っている。
ぼくの2,3歩前に薄緑色の小さな点が突然現れそれがバッタだとわかったとたん、羽を広げ、跳んだ。小さな緑と茶色の羽、そしてその向こうの青い空。
ぼくはゆらゆら揺れる小さな影を追った。ぶ〜〜んといいながら幸一の後を追った。
校庭には舞い上がる乾いた土がぼくたちの走る後を追いかけ、丸い飛行機雲の輪を作っていた。
* * *
ぼくは母さんの言うことを守った。母さんは約束を守る、友達と仲良くする、ウソはつかない、あきらめない、といつもぼくに言った。ぼくをじっと見つめながら言った。母さんの目の中にぼくがいた。それを初めて発見したとき、ぼくはぼくがとても小さいのだと思った。
ぼくが覚えている一番古い夢は母さんの夢だった。母さんの後姿を今もはっきりと覚えている。
海だった。波の音がまわりに渦巻いている。
小さなぼくは寄せては帰る波のはしっこを追いかけては足で踏んづけて遊んでいた。
ふと、帰っていく波を目で追いかけた。
突然それまで気がつかなかった水平線が目の前に広がった。
白い5羽の鳥がみるみる小さくなり、海と空の間に消えていく。
ぼくは海へ飛び込んでいった。柔らかな波がほおをなでてくれる。体が軽くなり、波の上をすべりながら沖へ沖へと突き進んでいく。突然後から母さんの声が響いた。戻りなさい。沖へ出てはいけません。
ぼくはもぐった。音が消え、緑色の波の中に日の光が差し込み、ぼくは頭を海の底に向ける。沖へでる。
次の瞬間、何かがぼくの両足をつかみものすごい力でぼくを引き戻そうとする。海水が柔らかく僕の体を締め付ける。ぼくはこわくてこわくて、両手をめちゃくちゃに回す。力が抜け、こわさが増した。血が抜けていく。こわかった。体が真っ青になっていく。ものすごい力で引き戻される。背骨が伸びきり、引き戻され、力が抜け………
急に動きが止まった。体にバランスが戻る。ぼくは力を入れてみた。透明な水の中にぼくはいた。波はなく、明るかった。小さな水槽の中の青い金魚。キッチンでは母さんが包丁を持ち魚をさばいている。ぼくはゆっくりと尾びれを動かした。鼻先に水槽の硬いガラスが当たった。ぼくはプラスチックの小さな岩山に向かった。振り返ると母さんがまだまな板をたたいていた。
* * *
ぼくの毎日は忙しかった。
ぼくは友達と仲良くすることが大事だと思い、みんなと仲良くするよう心を砕いた。相手の喜ぶことをした。相手が何が好きで、何を望んでいるのかをいつも考えた。ドラマの好きな子とはドラマの話を、アニメの好きな子とはアニメの話を、スポーツの好きな子とはスポーツの話を、勉強の好きな子とは勉強の話を、悪ぶるのが好きな子とは悪ぶって、ギャグが好きな子にはギャグを、女子にもいつも気を使った。
幸一をいじめているやつもぼくがいけばいじめることをやめた。ぼくがいじめることよりも楽しいことに彼らの目を向けたからだ。
ぼくは生まれてから小3まで大阪にいた。偶然にも幸一もそうだった。
越してきて大阪弁がまず目立った。笑われた。ぼくは驚き、すぐにテレビで標準語を勉強し、すぐにそれを話せるようにした。でも中には大阪弁を面白がるグループもいて、彼らとは大阪弁で話した。
4年の遠足のとき、その2つのグループと一緒になり、ぼくはその中で大阪弁を話したり話さなかったり。友達はそれを面白がったが、ぼくは必死だった。解散の声を聞き、友達とも別れた時ぼくはくたくたになっていた。
帰ってきたぼくを見て母さんはすぐにぼくを布団の中に押し込み、体温計をぼくに渡した。
5年の2月頃、クラスルームで来年のクラス替えで一緒になりたい友達、なりたくない友達を書かされた。
ぼくはクラス全員の名をびっしり小さな字でなりたい欄に書き、なりたくない欄には、いません!と大きく書いた。
ぼくはその結果が知りたかった。この結果は公表しませんと先生に言われていたが、何とかして知りたかった。いつもそのことが頭のすみにあった。
春休みに入る前、先生が何かの話のついでに、リュウ君は人気者ね、と言った。ぼくはあのアンケートのことだとすぐにわかり、心の底からほっとした。本当にほっとした。報われた、という言葉が思い浮かんだ。しばらくの間ぼくは本当にうきうきとした気持ちでいられた。
6年の秋だった。
夏休みが終わり、だらだらと休み癖が続く9月も終わったころ、ぼくは何か物足りないものを感じていた。
それが何かわからなかったが、いつもの秋とは違っていた。いや物足りなさというよりか、何かこれまでに無いものが新しく生まれていた。それは妙な圧迫感だった。何かが楽になったが何かがぼくを不安にさせた。
やがてそれが幸一とぼくとの歩くときの変化であることに気がついた。
ぼくたちは学校へもスイミングへも塾へもいつも行き帰りは一緒だった。
そしていつもぼくがその移動の時間を仕切っていた。幸一は道々で見る雲や空や飛ぶ鳥や花の色にいつも立ち止まり、突然消え、突然現れ、ぼくはそんな幸一を目的地まで連れて行くことが仕事だと思っていたのだ。
幸一がぼくの横をぼくと同じように歩いていた。
次第にぼくの先を歩くようになり、時々振り返ると雲や空や花や蝶やせみを指差し、にっこり笑うとまたぼくの先に立ち歩いて行った。くねくねとした歩き方が消え、背骨がまっすぐになり、幸一の体の輪郭がしっかりとしたようにぼくには思えた。実際はぼくと身長はほとんど同じだったが、なんだかぼくより大きく感じた。大人になった?ぼくは何となくそう感じた。
もともと幸一は頭は良く、ただテストでは時間内に答えられず点にならなかったり、宿題も気に入ったものしかやらなかったり、手も挙げず、授業中はいつもぼんやりしていたから先生からも半ばほっておかれ、クラスの頭の良い連中の中には入ってはいなかったが、生物や宇宙、歴史やむずかしい小説も読んでいて、友達からは一目置かれていた。
そして秋も深まってきたころ、幸一は授業は授業で聞き、宿題は宿題でやり、手も挙げるようになり、つまり当たり前のことは当たり前にやるようになったのだ。
最初みんなそんな幸一にことさらお〜〜と声を上げ驚いたが、すぐにそれが当たり前のことに思え、幸一は学校の勉強もでき、自分の興味や関心のある分野を自分で勉強できる力も持ち、それを自分の口で話す事のできるやつ、個性のあるやつ、というポジションをクラス内で得た。
しかも幸一は低学年のころの人懐っこい、どこか弱々しげで、恥ずかしげな笑いはそのままにしていたので、クラスでも人気者になリ始めていた。
ぼくは相変わらず友達とも母親とも先生とも、望まれている言葉やしぐさや表情を演じ続け、うまくやっていた。
もちろん6年にもなるとただ望んでいるものだけを彼らに返していても軽く見られるだけなので、彼らの知っている事の延長上にある彼らの知らない知識や情報を彼らにそれとなく示し、さすがだなと思わせるようにした。テストも手を挙げることも友達とバカやるのもぼくには何か仕事のように思えたが、だからこそ必要なことと思えた。実際ぼくは受験はしなかったが受験組と同等の力を持っていたし、人気も人望も先生や親からの信頼もあった。
ぼくはやがてぼくの演技がぼくの思いとは別に自動的になってきているのに気づいた。
ぼくはぼくの言葉や仕草を、後からじっと見てればよかった。
6年の秋それが崩れたのだ。
幸一は前と同じようにニコニコしながら全てを的確にやり始めていた。何のいやみもなかった。そして幸一はぼくのように演じてはいなかった。彼は自分の好きなようにやっていた。それがみんなからも認められていた。
受験組が互いに出し合い、手に余る問題を誰かが冗談に幸一に渡した事があった。
幸一はニコニコ笑いながら首をゆっくり小さく振り、じっと問題を見つめていた。
いかにも楽しげに見えた。みんなそんな幸一をじっと待った。
5分、10分待つのも退屈ではなかった。幸一はいかにも楽しげだった。そんな幸一を見るのはどこか楽しかったのだ。
そしていつも幸一は問題を解いた。参考書にもない彼だけの方法で解いた。
幸一は大きく深呼吸しながら背筋を伸ばし、にっこりと笑った。幸一のそのときの顔は、ぼくに昔見た体をくねくねさせながら蝶を追いかけていた時のうっとりとした幸一の顔を思い出させた。
ぼくは最初不思議だった。ぼくの人気や人望はぼくが必死になって勝ち取ったものだ。
話を合わせるために、ぼくは見たくもないテレビをつけ、聞きたくもない音楽を聞きながら、読みたくもないマンガや本に目を通し、やりたくもない受験組のやるむずかしい計算を毎日やった。すでに慣れていたので辛くはなかったし、こんな事に興味を持つ友達を馬鹿にする喜びもあり、それらはぼくの毎日の宿題の一つになっていたが、くだらなかった。
でもくだらなくはあっても、そんな自分をくだらなく思うこともなくなっていた。それをやっているのは自分ではなかった。そんな気がしだしていたからだ。自動的に母親や友達と合わせている自分、それを見ている自分、くだらないことをしているのはぼくではなかった。本当のぼくは後ろで腰をおろし、じっとぼくやみんなを見ているだけだった。だが幸一は違った。
好きなことをやり、人の思惑など気にせず、自由気ままだった。そしてみんなに好かれ、軽くも見られなかった。
* * *
そのころぼくはよくこんな夢を見た。
ぼくは犬を連れて公園を歩いている。朝の散歩だ。犬の名前はルー。
中央に野球のグランドがあり、その周囲に2キロほどのランニングコースある。そのコースをぼくはルーを連れて歩いている。すれ違う人たちともぼくは明るく挨拶をする。
ルーはぐいぐいと先へと進んでいきぼくはそれがうれしい。
こらこらルー、もっとゆっくり。
呼びかけた声にルーが振り返った。ルーの顔が透き通っている。眼のくぼみの向こうに首筋が見え、肩が見え、背中が見え、足元のコンクリートが見えた。ぼくはルーになり、ぼくを振り返った。ぼくの体は中がくるりとくり抜かれ、うれしそうにぼくを見ていた。体の輪郭の厚みだけが線となり宙に浮かんでいる。ぼくをつないでいる綱のほうがくっきりと力強い。ルーがまた先へ先へと歩き始めた。綱がぴんと張る。揺れる尻尾が消えていく。
ぼくはくりぬかれた体の中から透明なルーを見、ルーになったぼくは薄くなるぼくの輪郭を確かめながら朝の散歩を楽しむ。体の重さが消える。呼吸の仕方がわからない。ぼくはここにいるのだろうか?公園の隣りは学校だ。くり抜かれたぼくは教室で授業を受けている。
窓の外でパレードが始まった。何人かの友達がそれを見に教室を抜けた。
窓の外で誰かの演説が始まった。何人かの友達がそれを聞きに教室を抜けた。
窓の外で太陽が輝き、雲が流れ、風が音を立てた。何人かの友達がそれを感じに教室を抜けた。
ぼくは教室で教科書を開き先生の声を聞いた。ノートにしっかり板書を写した。間違いは消しゴムできれいに消した。消しゴムのかすも隅に集めた。
先生も教室を抜けた。
ぼくは黒板を見つめる。何回も見ていたので全部暗記している。教室には誰もいない。窓の外はいつも動いていて、教室では何も動いていなかった。
誰もいない。ぼくの前にも後にも右にも左にも誰もいない。誰もいない。でもここにぼくはいなければならない。ぼくはここにいるようにと言われたのだから。くり抜かれたぼく。
ぼくはニコニコと教室に一人座る。言われた通り教室にいる。僕は僕の体を見る。細くふにゃふにゃした体の輪郭が薄く消えようとし、ぼくはそれを見る。かなしい……こわい……?ぼくは笑う。ニコニコと笑う。ぼくは驚いてくり抜かれた空っぽの体を何度も見直す。何度も見直す。ぼくは驚いてくり抜かれた空っぽの体を何度も見直す。息の仕方がわからない。
* * *
冬、受験組の顔つきが変わってきた。
時々授業中、ほおを引きつらせているやつがいる。内緒でやってる塾の宿題の算数の特殊算が解けないのだ。でも何か違う気がする。
中高一貫のいい中学に入り、一生懸命勉強していい大学に入る。でもそうやっていい会社に入って、やりたい仕事もわからずオウムとかに引っ張られてサリンまいたり、逆にきちっと仕事してリストラされたり、それになんか情報革命だかなんだかで世の中変わっていくのに変わんない勉強を毎日学校でしてるのもおかしい。といってぼくには何もない。母さんや先生や友達に望まれていることをやっていく。それだけだ。おかしな世の中なら自分もおかしくやっていくしかない。その中でいい位置をキープしていくしかないのだ。教室の中で、家の中で、やがては会社や家庭の中でうまくやっていく。なのに最近はそれが重ったい。
幸一のせいだ。あいつはいつも自然に振る舞い、何の努力もしないでみんなから認められている。これからもそんな風に生きていくのなら、許せない。ぼくはそう思いだしていた。
今日の給食はピザだった。
2,3週間に一度ぐらいのペースでピザが出る。
けっこう人気がある。ぼくも好きだった。
班ごとに別れ机にピザと野菜スープ、サラダが置かれている。
もう食べだしているやつがいる。その日その日に係りがいただきますの合図をして食べ始めるのだが、いつも誰かが先に食べ始めそれにみんなが続き、それに遅れないようにいただきますが言われた。一緒に食べる先生もそれを気にはしない。
ぼくは口を拭いたハンカチを床に落とした。
それを拾うときハンカチの横に転がっていたハエの死体が小指についてきた。
干からびていたハエはそのままぼくの机の端に落ち、ぼくはそれをつまみまた床に捨てようとして、幸一の食べかけのピザに落としてしまった。ハエはピザの黒ずんだトマトの中に埋もれ、隠れた。
幸一が指でそのピザをつかんで食べた。ぼくと目があった幸一はいつものようににっこりと笑うとゆっくりと口を上下に動かし始めた。歯に軽くグシャとした感じが残り、思わず口を止め、顔をしかめる。と思った。しかし幸一はそのまま細いのどを動かし飲み込んでいく。
死んだハエが幸一の食道を通り胃へと向かう。それもほこりにまみれ干からびたハエだ。
ぼくの鼻から思わず笑いの息が漏れた。
「幸ちゃん、おいしい?」
ぼくは言っていた。
「うん。」
幸一は唇を赤くして答えた。ぼくは笑いをこらえようとして、スープにむせた。
「だいじょうぶ?」
幸一が聞いた。
「ピザおいしいよね?」
「うん。」
幸一が言った。
それからその年の終わりまで、ぼくはハエやありやごみや幼虫のふんをそっと入れ続けた。楽しかった。ほんとに楽しかったのだ。
年が明けた。
まだ雪は降っていない。
幸一は雪が降ってくるといつも雪に向けて口を大きく開けくるくると舞った。
今年はそれをまだ見ていない。
1月の下旬、今年最初のピザの日だった。
ぼくは虫の死がいを持っていた。
いつも通りそっと幸一のピザに入れた。
そのとき声が教室に響いた。それはあまりも大きく教室中に響き渡り、ぼくはいったい何が起きたのかわからなった。
「見たろ、幸一、リュウが今いれたろ?ヘンなもの入れたよな。確かめてみな。いつも入れてたんだ。へんなもの、汚いもの入れてたんだ。俺、ウソなんか言ってなかったよな。見たよな。幸一、見たよな、俺ウソなんか言ってなかったろ?」
幸一と実が教壇近くでぼくを見ていた。
クラスのみんながぼくを見ていた。
幸一はうつむいていた。かたく固まっていた。
顔が上がった。
ぼくを見た。
餓死寸前の小犬が死ぬ間際の最後の力をふりしぼり、これまでのわずかな生きてきた時間を確かめでもするように、すがるようにぼくを見た。
幸一の目は大きく見開かれぼくに向かった。
口が大きく開いていた。白い歯とだらんとした赤い舌が見えた。
幸一の体は少しずつ縮まっていき、小さくなっていき、力が抜け、ひざが折れ床に座り込んだ。
でも目だけがぼくに向けられる。
悲しいのだろうか?驚いたのだろうか?くやしいのだろうか?苦しいのだろうか?怒ってるのだろうか?あきらめたのだろうか?
こんな幸一の顔なんて。
雪を喜ぶ幸一の顔がぼくは見たかった。虫やふんやゴミを入れながらも僕は幸一の雪を見て喜ぶ顔を見たかった。
こんな幸一の顔なんて。
ぼくは何をした?
ぼくは何かとんでもないことをしたのだろうか。
ぼくは何かいけないことをしたのだろうか?
「リュウちゃん………。」幸一がつぶやいた。
ぼくは教室を出た。
「リュウ、おまえ最低のやつだな。」実が言った。
「クズだよな。」他の誰かが言った。
ぼくは廊下に出た。窓から雪が見えた。初雪だ。幸一は気付いていないだろう。
真っ白な雪。
見てる間に雪は窓の枠の中を白く一杯に埋めた。激しい雪だった。雪は斜めに速度を増していく。
そうだ、ぼくはクズだ。最低のやつだ。それはまちがいない。ぼくはクズだ、人間のクズだ。間違いない。くずだくずだくずだ。クズだクズだクズだクズだ。クズだクズだ。クズだクズだ。
クズだクズだ。クズだクズだ。
クズだクズだ。クズだクズだ。クズだクズだ。クズだクズだ。クズだクズだ。クズだクズだ。クズだ。
ぼくは、ぼくが、クズだということが、はっきりと、わかった。
ぼくはクズなんだ。
窓の外は雪。
廊下は暗く長く伸びていた。でも両足に僕の体の重みがはっきりと感じられた。苦しい息が、でも確かだった。窓の外は白い雪。ぼくの歩く廊下は暗く長く伸びていた。
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