思い切った冒険を!
 ―道彩展30周年展によせて

作家
札幌時計台ギャラリー代表
荒 巻 義 雄

 東京八重洲のブックセンターで入手した、『感覚の論理』という本を今、読んでいるところだが、これはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが書いたフランシス・ベーコン論である。
 ドゥルーズは現代のもっとも先鋭的哲学者だが、しばしば理解不能の迷路に誘われる。しかし、読みほぐしていくと、たとえば、人体が歪み、融解するようなベーコンの作品を解析する“手付き”から、逆に、ドゥルーズの独特な手法が朧気ながら理解されてくる。
 ともあれ、この本から、私は、画家が世界に挑む姿勢と現代哲学が同じ位相にあることに改めて気付いた。本稿では、一部の紹介しかできないが、考えさせられたことを述べておく。
 たとえば、みなさんは、絵は描写だと思いこんでいないだろうか。それはちがう。たとえば、クレーの有名な言葉、「見えるものを描写するのではなく、見えるようにすること」これが画家の努めなのだ。
 眼球が捉えた網膜に写る像を写し取るだけでは、画家の仕事は終わらない。視覚以外のもの、たとえば〈力〉を描ききる必要がある。これが、クレーの言う「(見えないものも)見えるようにすること」の意味である。
 音楽は響かない力を響くようにし、絵画は見えない力を見えるようにする。たとえば時間だ。見えない時間を見えるようにしてこそ、画家はその使命を果たす。
 物理的な力では圧力。慣性も重力もある。風圧もある。上昇力と墜落、加速度。生物的な力では、成長する力。芽の発芽。心理的な力ではたとえば、女性の魅力、誘惑、反感、嫉妬など。
 セザンヌは南仏の風景を描いて、サンド・ヴィクトワール山の重力を、あるいは山脈の摺曲力を描きあらわすことに成功した。
 ゴッホは向日葵の生命力を描き、ミレーは重力に引かれるジャガイモ袋の重さを描いた。
 さらなる絵画的冒険を望んでいます。                             (2010/6/3)



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