道彩展のことなど

会員
折 登 朱 実

 はじめて出品したのが5回展で、9回展で明らかに気がのっていない絵を並べて、八木保次先生にひどく叱られた想い出がある。
 先生はお忘れで「ひどく」ではなかったかもしれないが、こたえた。それは心の持ち方の問題であったと今も理解している。構成や技法のことを言う先生はあっても、思想のことをおっしゃる先生を他に知らない。
 描き方の違いはあっても、自身のおおらかな気持ちと良いモチーフと色とかたちと線がからみ合った「最後の瞬間」を手に入れたいと作家なら誰でも夢みる/その一瞬を逃さぬようつかまえることのなんと困難なことか。通り過ぎてから気がついても、同じ手順は踏めない。自分かど
んな状態の時によい仕事ができるのか、この10年そんなことを考えなが
ら描いてきたようにおもう。
 公募展に出品し続けていると酸い思いをさせられることがある。息んで他を圧倒しようとする絵が毎年並ぶ。誰彼が批評をしてくれるがそれは呪縛にもなり、最大の魅力である「欠点」を矯正し、よくあるおもしろくもない絵にしてしまうかもしれない。団体展の負の部分だ。幸いにも、道彩展は自然のまま好きなように描かせておくところが残っている。多勢の絵や意見を真に受けてはいけない。
 先頃、長谷川利行展をみた。まっかな少女の絵の前で同行した人が「こんな絵は一寸描けない」と言ったが、同じ土俵に立する者が道彩展には幾人でもいるようにおもった。
 「対象」を生け捕りにし、考える隙をつくらぬためにも驚くほど性急に絵の具を置き描きあげて、行き倒れた利行。作為のない絵と向き合っていると、自分を縛っているものから解放されるような気がするのだった。



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