堪忍は無事長久の基
私は本来とても怒りっぽい人間です。
時に怒りの感情が発作の様に荒れ狂い、制御できなくなりそうな事もあります。
このままではいつか身を滅ぼすだろうと思い、武術による精神修養等を考えた事もありましたが、先ずは簡単な事から始めました。
以前にも書いたと思いますが、毎朝、不動明王のお札に手を合わせて1日の平安を祈り、徳川家康公の遺訓を唱えます。
一行づつ、しっかり心に言い聞かせるつもりで唱えるのです。
私の場合は特に『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え』の行を念入りに言い聞かせます。
怒りの感情に支配された状態で物事を考えたり行動してはいけない。ならぬ堪忍するが堪忍・・・堪忍できない程の堪忍をしてこそ、本当の堪忍であると家康公は教えています。
実は今朝、たった今もこの遺訓に救われました。
昨日、どうにも腹に据えかねる事があり、この怒りは正当なものでもある為、権限を用いて対象者を処罰しようと思っていました。
朝になっても怒りは静まりません。
野に放った火が広がって行く様に、怒りの対象はどんどん広範囲に及び、あらゆる事への不満が火を噴き始めました。
こういう時は日頃の殊勝な日課が煩わしく、手を合わせる気になどならないのです。
それでも、ここに救いがあるような、かすかな予感に促されて、半ば渋々手を合わせ、心の中で遺訓を唱えました。
ほんの数秒で、心の中の平原一杯に広がった怒りの炎は消え去りました。
『堪忍・・』の教えで自分がやろうとしていた事の間違いを悟り、『己を責めて人を責むるな』の行では、事の原因を周到に取り除いておかなかった自分に対する反省を思いました。
今日も静かな気持ちで仕事に取り組む事が出来ます。
抹香臭い事を書きましたが、若い頃には無理だっただろうこうした体験ができるのも、ある程度の年齢を重ねて来たからだと思います。
昔の人達が作り出した「神仏」という観念は本来、こういうふうに人を救う為にあるのでしょう。
お布施を強要したり、選挙活動に利用したり、私服を肥やしたりする為でない事だけは、確かです。