もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

悟道の強調ー普勧坐禅儀・学道用心集
(A)悟道の強調
「普勧坐禅儀」
- 「ゆえに須らく言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。須らく回向返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。」(1)
(注)
- (1)「普勧坐禅儀」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、4頁。
- (2)同上、x頁。
「学道用心集」
- 「ただ暫く吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり。ゆえに六十二見は我をもって本となす。もし我見起るの時は静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何をもってか本とせんや。身体髪膚は父母にうく、赤白の二滴、始終これ空なり、所以に我にあらず。心意識智寿命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我にあらず、彼此執るべきなきをや。迷う者はこれを執り、悟る者はこれを離る。しかるに無我の我を計し、不生の生を執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世間の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む、あに錯らざらんや。」(1)
- 「参禅学道は正師を求むべきこと
右、古人云く、発心正しからざれば万行空しく施すと。誠なる哉この言。行道は導師の正と邪とに依るべきか。機は良材の如く、師は工匠に似たり。縦い良材たりといえども、良工を得ざれば奇麗未だ彰われず。縦い曲木といえども、もし好手に遇わば妙功忽ち現わる。師の正邪に随って悟の偽と真とあること、これをもってさとるべし。ただ我が国昔より正師未だ在らず、何をもってかこれが然るを知るや。言を見て察するなり、流れを酌んで源をたずぬるが如し。我が朝古来の諸師の篇集せる書籍、弟子におしえ人天に施す、その言これ青く、その語未だ熟せず、未だ学地の頂に到らず、何ぞ証階の辺に及ばん。ただ文言を伝え、名字を誦せしむ。日夜他の宝を数えて自ら半銭の分なし。古の責ここに在り。あるいは人をして心外の正覚を求めしめ、あるいは人をして他土の往生を願わしむ。惑乱ここに起り、邪念これをもととす。縦い良薬を与うといえども、銷方を教えざれば病となること、毒を服するよりも甚だし。我が朝古より良薬を与うるの人なきが如く、毒薬を銷するの師未だ在らず。ここをもって生病除き難く、老死何ぞ免れん。みなこれ師の咎(とが)なり、全く機の咎にあらざるなり。所以いかんとなれば、人の師たる者、人をして本を捨て末を逐わしむるの然らしむるなり。自解未だ立せざる以前、偏えに己我の心を専らにし、みだりに他人をして邪境に堕ちることを招かしむ。哀れむべし、師たる者、未だこの邪惑を知らざれば、弟子何すれぞ是非を覚了せんや。悲しむべし、辺鄙の小邦仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず。もし無上の仏道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥かに心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学ばざるにしかず。それ正師とは、年老耆宿を問わず、ただ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応するこれ乃ち正師なり。」(2)
- 「心においても身においても住することなく着することなく、留まらず滞らず。趙州に僧問う、狗子に還って仏性ありや也なしや、趙州云く、無と。無の字の上において擬量し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。請う試みに手を撒せよ、且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り看去れば、自然に動静の二相了然として生ぜず。この不生の時、これ頑然なるにあらず、人のこれを証することなく、これに迷うものはこれ多し。参学の人、且く半途にして始めより得たり、全途辞することなかれ。」(3)
- 「その風規たる、意根を坐断し知解の路に向かわざらしむ。これ乃ち初心を誘引するの方便なり。その後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。」
(初心の人には、特別の指導がある。次に放下させる。)
「おおよそ、自己仏道に在るを信ずるの人、最も得難し。若し正しく道に在るを信ぜば、自然に大道の通塞を了し、迷悟の職由を知らん。人試みに意根を坐断せよ。十の八九は忽然として見道することを得ん。」(4)
- 「仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須らく自己もと道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、依りてこれを行ず。乃ち学道の本基なり。」(5)
- 「ただ宗師に参問するの時、師の説を聞いて己見に同ずること勿れ、もし己見に同ずれば師の法を得ざるなり。参師聞法の時、身心を浄くし、眼耳を静め、ただ師の法を聴受して更に余念を交えざれ。身心如一にして水を器に瀉ぐが如くせよ、もし能くかくの如くならば方に師の法を得ん。今愚魯の輩、あるいは文籍を記し、あるいは先聞を蘊み、もって師の説に同じくす、この時、ただ己見古語のみありて、師の言と未だ契わず。ある一類は、己見を先として経巻を披き、一両語を記持して以て仏法と為す。後に明師宗匠に参じて聞法の時、若し己見に同ぜば是と為し、若し旧意に合はずんば非と為す、邪を捨つるの方を知らず、あに正に帰するの道に登らんや。縦い塵沙劫にもなお迷者たらん、尤も哀れむべし、これを悲しまざらんや。参学して識るべし、仏道は思量分別卜度観想知学慧解の外に在ることを。もしこれ等の際に在らば、生来常にこれ等の中に在りて常にこれ等を翫(もてあそ)ぶ。何が故に今に仏道を覚せざるや。学道は思量分別等の事を用いるべからず、常に思量等を帯び吾が身をもって@(けん)検点せば、ここにおいて明鑑なるものなり。その所入の門は、得法の宗匠のみありてこれを悉(つまびら)かにす。文字法師の及ぶ所にあらざるのみ。」(6)
- 「右、身心を決択するに自ずから両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。聞法は心識を遊化し、坐禅は行証を左右す。ここをもって仏道に入るのは、なお一を捨てても承当すべからず。それ人みな身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。この身心をもって直に仏を証する、これ承当なり。いわゆる従来の身心を廻転せず、ただ他の証に随って去るを直下と名づけ、承当と名づくるなり。ただ他に随い去る、所以に旧見にあらず。ただ承当し去る、所以に新巣にあらざるなり。」(7)
- 「右、仏法修行は、必ず先達の真訣を稟けて、私の用心を用いざるか。況や仏法は、有心をもっても得べからず、無心をもっても得べからず。ただ操行の心と道と符合せざれば、身心未だ安寧ならざれば、身心安楽ならず。身心安楽ならざれば、道を証するに荊棘生ず。」(8)
(注)
- (1)「学道用心集」、「道元禅師全集」第5巻、春秋社、1989年、17頁。
- (2)同上、22頁。
- (3)同上、32頁。
- (4)同上、36頁。
- (5)同上、36頁。
- (6)同上、28頁。@(けん)点の「けん」は、「検」の字のつくりで手偏。
- (7)同上、36頁。
- (8)同上、20頁。
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