もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判

(この文献の中から、このテーマについて、まだ、全収録には至っていませんが、別の論考で触れているため、一応、一部を記載したものをアップロードしておきます。)
公案
道元は公案禅を否定したという主張をする研究者がいるが、そんなことはない。道元は公案を肯定しており、『正法眼蔵』でも公案を参究させている。
(A)公案の肯定
(注)
- (1)「xx」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、xx頁。
(B)種々の公案
「正法眼蔵」
- (獨坐大雄峰)
「先師古佛示衆曰、記得、僧問百丈、如何是奇特事。百丈曰、獨坐大雄峰(先師古佛示衆に曰く、記得す、僧、百丈に問ふ、如何ならんか是れ奇特の事。百丈曰く、獨坐大雄峰)。
大衆不得動著、且教坐殺者漢。今日忽有人問淨上座、如何是奇特事。只向他道、有甚奇特事。畢竟如何。淨慈鉢盂、移過天童喫飯(大衆、動著すること得ざれ、且く者漢を坐殺せしめん。今日忽ちに人有つて淨上座に問はん、如何ならんか是れ奇特の事と。ただ他に向つて道ふべし、甚の奇特の事か有らん。畢竟如何。淨慈の鉢盂、天童に移過して喫飯す)。
佛祖の家裏にかならず奇特事あり。いはゆる獨坐大雄峰なり。いま坐殺者漢せしむるにあふとも、なほこれ奇特事なり。さらにかれよりも奇特なるあり、いはゆる淨慈鉢盂、移過天童喫飯なり。奇特事は條條面面みな喫飯なり。しかあれば、獨坐大雄峰すなはちこれ喫飯なり。鉢盂は喫飯用なり、喫飯用は鉢盂なり。このゆゑに淨慈鉢盂なり、天童喫飯なり。飽了知飯あり、喫飯了飽あり。知了飽飯あり、飽了更喫飯あり。しばらく作麼生ならんかこれ鉢盂。おもはくは、祗是木頭にあらず、黒如漆にあらず。頑石ならんや、鐵漢ならんや。無底なり、無鼻孔なり。一口呑虚空、虚空合掌受なり。」(1)
- (喫茶去)
「 趙州眞際大師、問新到僧曰、曾到此間否(趙州眞際大師、新到僧に問うて曰く、曾て此間に到れりや否や)。
僧曰、曾到。
師曰、喫茶去。
又問一僧(又、一僧に問ふ)、曾到此間否。
僧曰、不曾到。
師曰、喫茶去。
院主問師、爲甚曾到此間也喫茶去、不曾到此間也喫茶去(院主、師に問ふ、甚と爲てか曾到此間も喫茶去、不曾到此間も喫茶去なる)。
師召院主(師、院主を召す)。
主應諾(主、應諾す)。
師曰、喫茶去。
いはゆる此間は、頂Aにあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗管道曾到不曾到なり。このゆゑに、 先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶(誰か畫樓沽酒の處に在つて、相邀へ來つて趙州の茶を喫せん)。
しかあれば、佛祖の家常は喫茶喫飯のみなり。」(2)
- (枯木裏龍吟)
「舒州投子山慈濟大師、因僧問、枯木裏還有龍吟也無(枯木裏還龍吟有りや無や)。
師曰、我道、髑髏裏有師子吼(我が道は、髑髏裏に師子吼有り)。
枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。しかあれども、外道のいふところの枯木と、佛祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。外道は枯木を談ずといへども枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。外道は枯木は朽木ならんとおもへり、不可逢春(春に逢ふべからず)と學せり。佛祖道の枯木は海枯の參學なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。いまの山木、海木、空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。百千萬圍とあるも、枯木の兒孫なり。枯の相、性、體、力は、佛祖道の枯06なり。非枯@なり。山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松栢と稱ず。田里木、よのなかに人天と稱ず。依根葉分布(根に依つて葉分布す)、これを佛祖と稱ず。本末須歸宗(本末須らく宗に歸すべし)、すなはち參學なり。かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。幾度逢春不變心(幾度か春に逢ひて心を變ぜず)は、渾枯の龍吟なり。宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり。
しかあるに、遮僧道の枯木裏還有龍吟也無は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり。」(3)
- (香嚴上樹)
「香嚴寺襲燈大師[嗣大@、諱智閑]示衆云、如人千尺懸崖上樹、口B樹枝、脚不蹈樹、手不攀枝。樹下忽有人問、如何是祖師西來意。當恁麼時、若開口答他、即喪身失命、若不答他、又違他所問。當恁麼時、且道、作麼生即得(香嚴寺襲燈大師[大@に嗣す、諱は智閑]示衆に云く、人の千尺の懸崖にして樹に上るが如き、口に樹枝をBみ、脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず。樹下にして忽ち人有つて問はん、如何ならんか是れ祖師西來意と。當恁麼の時、若し口を開いて他に答へば、即ち喪身失命せん、若し他に答へずは、又他の所問に違す。當恁麼の時、且く道ふべし、作麼生か即ち得ん)。
時有虎頭照上座、出衆云、上樹時即不問、未上樹時、請和尚道、如何(時に虎頭の照上座有り、出衆して云く、上樹の時は即ち問はず、未上樹の時、請すらくは和尚道ふべし、如何)。
師乃呵呵大笑(師、乃ち呵呵大笑す)。
而今の因縁、おほく商量拈古あれど、道得箇まれなり。おそらくはすべて茫然なるがごとし。しかありといへども、不思量を拈來し、非思量を拈來して思量せんに、おのづから香嚴老と一蒲團の功夫あらん。すでに香嚴老と一蒲團上に兀坐せば、さらに香嚴未開口已前にこの因縁を參詳すべし。香嚴老の眼睛をぬすみてA見するのみにあらず、釋迦牟尼佛の正法眼藏を拈出してA破すべし。
如人千尺懸崖上樹。
この道、しづかに參究すべし。なにをか人といふ。露柱にあらずは、木Cといふべからず。佛面祖面の破顔なりとも、自己他己の相見あやまらざるべし。いま人上樹のところは盡大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。落時あり、上時あり。如人千尺懸崖裏上樹といふ、しるべし、上時ありといふこと。しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。左頭也千尺なり、右頭也千尺なり。這裏也千尺なり、那裏也千尺なり。如人也千尺なり、上樹也千尺なり。向來の千尺は恁麼なるべし。且問すらくは、千尺量多少。いはく、如古鏡量なり、如火爐量なり、如無縫塔量なり。」(4)
- (牆壁瓦礫)
「大證國師曰、牆壁瓦礫、是古佛心。
いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると參詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古佛心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈來して、坐佛し作佛するを、發心と稱ず。
おほよそ發菩提心の因縁、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔に@せられて禮佛する、また發菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造佛造塔するなり。讀經念佛するなり。爲衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一禮三寶するなり、一稱南無佛するなり。」(5)
(注)
- (1)「家常」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、126頁。
- (2)「家常」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、128頁。
- (3)「龍吟」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、151頁。
- (4)「祖師西来意」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、155頁。
- (5)「発菩提心」、「道元禅師全集」第2巻、春秋社、1993年、161頁。
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