第1部: 苦の解決手法=仏教経典による検証

研究メモ1部 

苦を回避しても根本解決にはならない=初期仏教

 苦からの逃避は、根本的な解決にはならないと仏教経典はいう。これは現代の心理療法を同じ主張である。職場や学校など外部の環境では、自分がつらい、苦しいからといって、ひきこもる(逃避)のでは、解決にならないのというのと同様であろう。ほかに、苦からの逃避として、強迫行為、依存行為、自虐行為、非行・暴力行為などがある。こういうことに逃避しても、根本的な解決にはならない。それを仏教経典はいうのである。

苦を回避しても根本解決にはならない=箭経

 初期仏教経典の主題は「苦」であり、苦の解決である。

「苦」からの逃避は解決でない

 仏教を知らない凡夫は、環境や人間関係、仕事、身体の病気などの身体的な苦を感じると、心までが苦悩するという。そして、苦を回避しようとして、誤った対処行動を取るが、一時的な楽を得るに過ぎず、根本的解決にならないという。初期仏教経典の「箭経」の教えである。この教えは、現代人の心の病、種々の悩みの原因をいいあてていて、その治癒、解決への方策を示唆する理念として妥当する。現代の精神療法、臨床心理学も、この方向に向かいはじめている。  仕事、人間関係、身体の病気など外的・身的な苦に直面するや、彼の心に瞋恚(いかり)、不安、不満が起こり、それがいつまでもおさまらない。彼は苦を感じると、反対に、「欲楽」を求める。たとえば、アルコールや食べ物、薬物依存がある。また、怒り、不安、不満を逃避しようとして、怒り、不安、不満のない「楽な場所」に逃避したり、とじこもる。あるいは、暴力を振るい、他者をいじめて、その楽にまぎらす。
 「これ何の故ぞ。」これは、なぜなのか。
 仏教の修行をしない凡夫は欲楽に逃避するしか苦受よりの脱出(解決)法を知らないからではないか。
 苦から逃避させる、苦を麻痺させる「欲楽」を喜ぶ彼には、その楽受より生ずる染れた欲の煩悩そのままにとどまる。これでは根本解決にならない。苦が生じ生活現実から逃避している。
 彼はこれ等の苦や欲楽が、なぜ起きるかの仕組みと、その消失の様子と、欲楽の誘惑の依存とわざわいと、苦からの脱出法とをありのままに知らないからである。そういうことを知らない彼には苦楽がわからなくなり、いつまでも無明の迷いの生活が続く。そんな人は、もし楽受を感ずれば繋縛せられて依存的となり、もし苦受を感ずれば繋縛せられて苦悩にあえぎ、もし苦楽受を感じないときにも繋縛せられて感じて心がはれない。
 このような人々は、生、死により、憂い悲しみにより、苦、悩により、絶望によって繋縛せられたと言う。苦によって縛られていると言う。
 この仏教経典の言葉は、現代人の苦悩からの逃避、根本的解決への道をいいあてているではないか。神経症系の病気は、不安を起す事物を回避して、その間だけの「欲楽」を味わうが、根本的解決にはならず、予期不安を持つ。回避できる身分である間はよいが、扶養する人が老齢になったり、リストラにあったりすると、ひきこもっていることも許されなくなり、問題が悪化するだろう。「うつ病」になった場合には、その問題の起きた現場(仕事、学校など)から去るという「休職」「不登校」で、一時的な「楽」を味わうが、もちろん、根本的解決ではない。再び、復帰しなければ、いつまでも、呪縛を感じている。薬で治っても、また再発の不安がある。だから、外的・物理的状況で「苦」を感じても、その現場を回避せずに、逃避、依存することの欠点、苦の起こる仕組み、苦からの脱出の方法を知ることが根本的解決である。仏教の経典がいうとおりなのである。そのようなことを知るのが、仏教の修行の中に含まれているのである。

 続いて、経典は、仏教の修行のすすんだ人々のありさまについて言及する。仏教の教えをよく実践する聖なる弟子たちは身における「苦」を感じても、心の苦を感じないという。その現場の苦の起きる仕組みと消滅する仕組みを知り、楽に逃避、依存することの欠点、苦からの脱出の方法を知ることによって、心の苦から解放されているという。  これは、心の病気や種々の世俗的な苦悩を脱した段階である。一時的な感情に振り回されず、つかのまの欲楽を与えるものに逃避、依存せず、根本的な解決策に挑戦する仏教者の様子を記述する。

 経典は、さらに修行のすすんだ段階の「有智多聞の人」は、楽受も苦受も感じないという。楽受に執著しない。ここは省略する。
(現代の心理療法との関係)
 怒り、不安、嫌悪、よくうつ、いらいら、不満などの苦悩を、逃避行為、強迫行為、依存行為、自虐行為、非行・暴力行為などでまぎらすのは、根本解決にならないと教えている。それを仏教経典はいうのである。  このように、仏教は、現代の心の病気を治癒する精神療法と似た治療方針を主張しているのである。だから、本来の仏教の修行法(今や、僧侶からも学者からも見失われたので、私は「臨床仏教カウンセリング」の手法というが、これが仏教そのものであった)は、こういう世俗的な苦をまず解決するものであった。そういう部分を見失ってしまった学者と僧侶(開祖は正しく認識、実践していた)の解釈を見直す必要がある。
 仏教や禅の学問が、これと同様の心理でゆがめられてきた。ひどいことに、坐禅の実践や悟り(貪瞋癡にまみれなくなること)を嫌うようになった学者や禅僧は、禅(や悟り)を強く主張する禅僧に不満(貪欲が根底にある)、怒り(瞋恚である)を覚え、その不満、怒りを回避するには、それを否定するしか方策を持たないために、「禅は仏教ではない」とか「道元禅師は信の仏法を説いた」と激しく主張する。根本解決にはならない対策で、自分の感情をおさめる手法である。自我の防衛である。経典の文字の選択的抽出、意識的無視、極端な一般化などで操作する「認知のゆがみ」を用いて、愚癡の行為(ゆがんだ学説の発表、正師の排斥など)を起す。精神医学者や心理学者は、このような学問の心理的ゆがみを理解している。
 仏教や禅の真実は、仏教や禅があまりに自分にかかわっていて利害関係があるために、自己関連づけによって、よき実践を否定するような学者や禅僧ではあきらかにすることはできないだろう。仏教がどういうものであってもさしつかえなく一歩離れた立場にあって、心の病気の患者を真に治癒しなければなならない現実的な要求を持つ精神医学者、心理学者、西洋の仏教学者によって、仏教や禅の真実はあきらかにされるであろう。仏教学、禅学が真に学問となるのは、今後のことである。
 仏教経典を慎重に読むと、現代人の心の病気や、種々の苦悩にかかわりがある臨床仏教カウンセリングのモデル、手法が仏教経典に記載されていることを確認できる。そういう目を持たない者が、文字を読むと、違って見えるのである。『法華経』でも、伝統仏教の教団、種々の新興宗教教団、道元禅師、白隠禅師、など、種々に解釈されているように。
 仏教は、現代と同じく、人々の種々の苦悩を解決しようとしたものであったのである。

(11/13/2003)
研究メモ1部 
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