仏教学・禅学の再検討
種々の「支」縁起説=平川彰氏
種々の縁起説
本来、仏教とは何なのかを考察する上で、縁起説の意味を検討することが重要である。原始仏教の経典には、十二支縁起説が多く出てくるが、ほかにも種々の支を縁とする縁起説がある。
ここには、平川彰氏の研究により、種々の支縁起説を図示する。
下記の図では、五支縁起説ならば、「愛」によって「取」があり、「取」によって「生」があり、というように見る。第一に置いたのが、すなわち、「苦」である。
すべてが「苦」は、何に縁りて起こるかという「苦」の原因を追求している。そして、それぞれ、最初の支に置かれたものが、滅すれば、「苦」が滅する。
これを見ると、次のことが推測される。今後、さらに研究者による研究の進展を期待したい。
- 十二支縁起説は、ごく初期にはなかったもので、十二支縁起説は、後期に完成したものという説が有力である(下記、注6)。
- そうだとすれば、釈尊が悟ったのは、十二支縁起説である、という学説は誤りであることになる。十二支縁起説がなくても、釈尊は説法できたということは、釈尊の成道は別のことであるということになる。
- まして、仏教は十二支縁起説を思惟するのみであるという説は、偏見であることになる。
- 支縁起説には、どうすれば、最初の支が滅するかは述べられていない。ただ、最初の原因がつきとめられているだけで、滅する方法は含まれない。
- これらにはすべて「取」が含まれている。「取」は、欲取・見取・戒禁取・我語取の四取とされる。これは、中道の実践が含まれている。二元分別の戯論を離れて中道の実践をすることが、すべて含意されている。
- このように種々の縁起説があるが、仏教の目的が「苦」を滅することにあることを意味するであろう。原始仏教は、四聖諦を重視した。平川彰氏は、「十二縁起は四諦説に依存しうるのであり、独立の教説とはなりえない」(7)という。
「道元禅師の坐禅は目標がない」というと、仏教ではないことになる。道元禅師の仏道とは何かということについて誤解・偏見がある。本来、仏教とは何かという点から、道元学説を再検討する必要がある。
なお、十二縁起説は、修習するものでもあったという説(西義雄氏など)があり、これは、上記の種々の支縁起があった理由になること、現代の坐禅でも何か苦悩を持つ人が坐禅する場合、十二縁起と同じようなことを、苦悩が起こるプロセスとして観察させるということから、原始仏教でも十二縁起観が修行の初歩段階で導入された可能性もある。西義雄氏の研究や、同様の研究を参照して後に、考察したい。
種々の支縁起
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支 |
十二支縁起説 |
十支縁起説 |
九支縁起説 |
八支縁起説 |
五支(渇愛)縁起説 |
(注)
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(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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(5)
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1
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老死・愁・悲・苦・憂・悩
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老死・愁・悲・苦・憂・悩
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老死・愁・悲・苦・憂・悩
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老死・愁・悲・苦・憂・悩
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老死・愁・悲・苦・憂・悩
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2
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生
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生
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生
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生
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生 |
3
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有
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有
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有
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有
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有 |
4
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取
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取
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取
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取
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取 |
5
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愛
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愛
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愛
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愛
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愛 |
6
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受
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受
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受
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受
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7
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触
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触
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触
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触
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8、9、10
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六処
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名色
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識
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六処・名色・識
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名色・識
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六処(四食・再生・六処)
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11
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行
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12
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無明
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苦の滅には
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無明の滅
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識の滅
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愛の滅
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患観に住す |
(注)
- (1)「行」と「無明」が加わる(425,516,521頁)。
「識」と「名色」は相互依存。六処以下は一方的であるが「同時存在」。「行」とは、「身行」「語行」「心行」である(469頁)。行は「行為」。後には、三業となる。「無明」は、四聖諦における無智とする説(469頁)や、仏教の種々の教説(四聖諦もその一部)の無知という説(470頁)がある。
- (2)六処が加わる。識と名色は相互依存(418頁)。
- (3)
「名色」は人間の「心身」を示し、「名」は受・想・思・触・作意で、「色」は身体(467頁,419頁)。九支縁起の「識」は、来世に母胎に入る識と解釈している(413頁)。識と名色は相互依存(415頁)。九支縁起では、六処が省略されている。
「五蘊説」では身心を「色受想行識」とするが、これにあてはめると、「名」は、「受想行識」ということになる。
- (4)六処で始まる縁起説。逆観には、受・触・六処はない。「六処は「認識の六つの領域であるから、これが認識の起点である。即ち認識論的には六処が認識の始原であるから、縁の追求も認識論を立場とするかぎり、これ以上には進むことができないわけである。」(409頁)。六処は、六内処(眼耳鼻舌身意の六識)と六外処(色聲香味觸法)。次に、四食から始まる縁起支もある。「四食」は、擅食、触食、意思食、識食。「識食は未来再生の縁である。それ(未来再生)があるとき、六処がある。六処を縁として触がある。」(410頁)。輪廻説と関連する。
- (5)苦の原因を渇愛に求める。渇愛は煩悩の中の最も強力なもの。「渇愛縁起は、四諦説の苦諦と集諦との関係を、縁起の道理を利用したものと見ることができる」(407頁)
- (6)三枝充悳氏は、十二支縁起説が最も新しいとされたが、平川彰氏は、部派分裂以前の原始仏教を全体として考察するため、新旧を問題としない(432頁)。しかし、新旧を考えれば、十二縁起説が新しいこと、釈尊の成道は、縁起説ではなく「四禅三明」によるということが有力な説である。
- (7)同上、470頁。
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