もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
仏教学・禅学の批判
菩薩はエリートではない凡夫=三枝充悳氏
菩薩の救済、利他は、エリート主義、差別性、傲慢という批判があるが、私はそうではないと思う。三枝充悳氏(つくば大学)もそうであろう。
菩薩はエリートでない凡夫であったとされる。また、その純粋性を失い思いあがりの危険もあったが、「凡夫のボサツ」を凡夫の多くが共有して、「ひたすらたがいの宗教心を磨きあげた」、とも推測される。
三枝氏の推測に私も同調し、慈悲、利他には、エリート主義でない慈悲、利他もあった。それは、今でも可能な実践であり、決して否定すべきではないと考える。
菩薩はエリートでない凡夫
部派仏教(小乗)教団は、緻密な教義を作り上げて学問仏教になって、専門家となって、一般大衆の現実の救済をしなくなった。しなくても、教団の財産を持ち、生活できるようになった。衆生の苦を忘れた。共感できなくなった。文字の研究ばかり行っていた。(今の学者のようなものを考えればわかる。)
そこを大乗の人々が批判した。大乗は、エリートでなく、凡夫の菩薩と宣言した。一般大衆の苦を共感して、救済を実践した。その時、部派から批判されないように、実践と思想を持った。「空」で救済することである。
「在家信者のあいだに生まれた「凡夫のボサツ」は、みずから凡夫にすぎないことを熟知していた。よく知っていればこそ、これら仏伝をふくむ文学作品への傾斜ないし同化が容易であり、いな、顕著であって、仏伝のボサツの投影するものを明瞭に見極めた。それが部派教団内部のいわゆる専門家と明らかに質を異にするところである。
或る意味においてアマチュアである凡夫には、いわば資格もなく知識も乏しいけれども、それゆえに却って、従来の伝統とそれにもとづく束縛とから脱している。ここには自由があり飛躍が芽生える。凡夫はエリートではないだけに、みずから一切衆生の一員という凡夫性の自覚を深め、それがその一員から一切衆生につながってゆく重大な契機となり得る。」(1)
(注)
- (1)三枝充悳「大乗とは何か」法蔵館、2001年、231頁。
思いあがりの利他にならないように
しかし、利他、慈悲を強調すると、未熟な者は、傲慢となりやすい。「他」を強調すると、「自」が強調されるからである。「思いあがり」を生みやすい。大乗仏教の菩薩にも、未熟な者には、その危険があり、それでは、自慢・高慢の「衆愚」であるので、そこに陥らないように、自戒・他戒していたと、三枝氏はいう。
「もとより一切衆生をいたずらに強調し、さらにその同胞意識を母胎として利他をむりやり押し立てることは、凡夫の思いあがりであり、ついには一種の衆愚思想につらなる。それは部派の専門家から見れば、およそ僭越の沙汰であり、おそらく考えられないほど無謀な「つくり話」に似ていたかもしれない。しかしそのような批判はエリートの発する完結的な論理性から発せられていて、凡夫はむしろ凡夫に徹するなかで、その批判を聞き知りながら、いったんイデーとして得られた「仏伝のボサツ」をイデアールの「凡夫のボサツ」に転換せしめ、その「凡夫のボサツ」を凡夫の多くが共有して、ひたすらたがいの宗教心を磨きあげた。ここにその環は拡大し、凡夫のゆえの一切衆生、凡夫のゆえの利他は、自然のこととして受けとめられ、逆に、それが鼓舞され、強調され、いまやそのスローガンとなる。それが凡夫から「凡夫のボサツ」へのいわば琴線なのであり、その親密は揺るがない。凡夫のボサツを得た凡夫たちの熱情はやがて或る形での自信につながり、しかも凡夫なるがゆえに蓄えられ得たエネルギーの噴出のさなかに、この時代(静谷教授のいう「原始大乗」)がある、と私は考える。」(1)
「思いあがり」の利他のほかに、三枝充悳氏は、菩薩のような思想もまた、大勢の中に受容されていくと、ほかの夾雑物が付加されていく、という運動全般の特徴を指摘している。純粋なものが組織的活動となり、大きくなると、純粋なものを理解・実践する者ばかりではなく、愚かな者が参入するので、堕落していく。大乗の経典、論書にも、そういうものが、含まれる。(昭和、平成の学者にもそういう偏見・堕落もあるのは、指摘されているとおりであり、そういう部分だけを取り上げて本来の大乗仏教全体を否定するのは、ためにする偏見であろう。)
「一言つけ加えれば、さまざまの歴史や思想史が例証しているように、或る一つのイデーが生まれると、その誕生・出現がたとえ秘めやかなものであっても、そのイデーの性格・内容・奥行・背景といったものが、ひとびとに強く訴えかけて、いったん受けいれられ、さらに歓迎される段階にいたるならば、それはたちまちにしてエスカレートしやすい。そのさなかで、イデーは必ずしも本来の純一性を維持せずに、種類を異にする変容をまとい、ときには夾雑物を付随するなどのことは、しばしば散見される。」(1)
これは、あまたの宗教教団でも同様である。開祖の宗教は崇高であっても、その後の代になると肥大した組織の維持のため、幹部が種々の夾雑物を付加して純粋さを失う。道元の教団も道元が生きていた間は、道元の精神が完全に活かされていた。しかし、彼が死に、大勢が教団に参加していくうちに、種々の夾雑物がはいっていったであろう。日本でも曹洞宗にも、臨済宗にも、教団内に、種々の分裂、抗争があったのは、周知のとおりであろう。
しかし、「思いあがりの利他」にならないように、大乗には、同時に「空」「無縁の慈悲」の実践が強調された。三枝充悳氏が、「ひたすらたがいの宗教心を磨きあげた」というのは、これであろう。大乗は、慈悲をしない部派への批判者であった。部派は、煩悩を捨てよという理論的な批判の武器を持っていた。「思いあがり」や「エリート主義」は、部派から、「慢」という煩悩だと批判されるおそれがある。
大乗は、部派教団の机上の思想(自己洞察、他者救済の実践をしなくなった)から批判されないように、「ひたすらたがいの宗教心を磨きあげた」。エリート心なく、慢心・傲慢なき、「無縁の慈悲」、「三輪空寂」、「空」による救済、これを実行した。衆生縁の慈悲、法縁の慈悲は、批判されてもやむをえない。しかし、大乗の菩薩は、無縁の慈悲を強調し、実践した。
大乗には、四種の菩薩の思想がある。無生法忍(悟り)を得てもなお、仏として完成していないという。慈悲行の中で学ぶことがあり、今生では仏にはなれないという。エリート主義を生涯否定したのが大乗だと私は思う(2)。だが、しかし、現実の人間の中には、そのような謙虚さを学ばず、思いあがるものもいたであろう。大乗の実践的思想、無縁の慈悲が劣るのではない。一部の人が未熟なのである。
人は、完全な人間はいない。批判される点も賞讃される点もあるだろう。批判される点だけを列挙して、その人間の存在を否定するのは、偏見である。宗教でも、批判される点も賞讃される点もあるだろう。批判される点だけを列挙して、その宗教全体の存在を否定するのは、偏見である。大乗が慈悲をいうのは、エリート主義、差別主義、傲慢だというのは、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、程度で「利他」をいう、現代の新宗教などと同類と見た軽率ではないのか。あるいは、大乗仏教が強調した実践を否定し、どうしても初期仏教の十二支縁起説にもどりたい、学問でわかる範囲に仏教を押し込めたい、という先入見や学者の私利(自分の喜びを優先する)のせいではないのか、再考をお願いしたい。
(注)
- (1)三枝充悳「大乗とは何か」法蔵館、2001年、231頁。
- (2)中国、現代日本の禅者は、この点が違う者がいる。悟ったら仏という傲慢さを示す者がいるかもしれない。思想的にはそう(本来仏の自覚)であっても、その悟った自分をも脱落していく。救済していく自分、救済されるべき他者も脱落していく、大乗仏教の精神からは未熟である。しかし、救済を放棄するのは、自利である。在家を救済もせず、自分の心を満足させるだけの数十年の修行であったのか。在家の人々は、そういう修行に逃避せず、社会で働いているのに。そういう世間で苦悩する人々の救済の実践を強調した。それが大乗であると思う。それを忘れて、思想研究や議論操作にあけくれて、苦悩する人々に共感せず、救済を忘れて釈尊の精神さえも忘却して自己満足におちた部派仏教(小乗)を大乗仏教は批判した。
(研究を離れて)
私自身が、仏教の学者でなく、僧侶でもない。つまり、仏教のエリートではない。ゆえに、経典の知識や、教団の教義などを用いて、「救済をいうのはエリート主義、差別性」という学者の主張に充分な、反論はできない。だが、私も幼い時から、種々の問題で苦しんだ。そのすべてを救済してくれたのは、仏教であった。私を導いた師には、エリート主義、差別、傲慢さを感じなかった。無我を悟った人の救済実践には、そういう現実があった。私は、人の事実を見た。学問よりも、事実、人を信じる。私も、仏教のエリートではないから、「救済をいうのはエリート主義、差別性」という点については、充分に学問的には、反論できない。大乗は、「無縁の慈悲」「三輪空寂」「救済する自己の空」を強調した。これも単なる思想ではない。実践である。それを、実際に実践した人がいただろう、と推測する。
三枝充悳氏が、大乗の菩薩はエリートではない、というのに賛同する。「無縁の慈悲」「三輪空寂」「救済する自己の空」を説明できる学者が、それを実践しているのではない。実践しない者に、その真の事実は実感されない。世阿弥に『花伝書』がある。これを詳細に解説できる学者がいても、彼は、能を舞うことはできない。『花伝書』の極意を知らない。宮本武蔵に『五輪の書』がある。これを詳細に解説できる学者がいても、彼は、剣術がうまくはない。『五輪の書』の極意を知らない。仏教には、実践と表裏一体の思想、文字がある。学者は、その真実の極意を知らない。そのことをごく少数の学者が指摘している。
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