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禅と日本文化

世阿弥

秘曲はどれか

台本に優劣あり

 世阿弥の能はまだ解明されていないようだ。謡曲のひとつひとつに密(ひそか)に織り込まれた人間の心の解明である。世阿弥が自らよい謡曲(上三位)だという謡曲がなぜよいのか。次に難問中の難問がある。いやそういう問題を世阿弥が残したということさえ意識されていない問題がある。

 世阿弥の詞、すなわち彼の能の台本(謡曲)自体がすぐれたものを含んでいて、演者と観客を幽玄に引き込むような仕掛けがあると解釈される。「秘するが花」「深秘」「口伝」というごとく、世阿弥はどこに秘事があるか書き残していない。それも二つある、(1)テキスト自体と(2)全体構成または筋。この二面については法華経も同様のことが言える。秘められた真意の解明が必要である。

能の理想美は「幽玄

 世阿弥の能の理想美は「幽玄」である。
「しからばただ美しく柔和なる体、幽玄の本体なり。」(1)
 幽玄が第一であるが、この境界に入る演者はいない。これは演者にレベルの違いがある。
 「幽玄の風体の事。緒道・諸事において、幽玄なるをもて上果とせり。ことさら当芸において、幽玄の風体、第一とせり。まずおほかたは、幽玄の風体、目前にあらはれて、これをのみ見所の人も賞翫すれども、幽玄なる為手(して)、左右なくなし(容易でない)。これ、まことに幽玄の味はひを知らざるゆゑなり。さるほどにその堺へ入る為手なし。」(2)

幽玄を生むような素材を選んだ曲

 しかし、演者だけに、レベルの違いがあるのではなく、台本すなわち、謡曲にレベルの違いがある。これは作者の力量による。どういう人間観、思想を織り込むか、それが成功しているか。
 世阿弥は自分の創作に自信を持っていた。後世の評価にも耐えられると思っていた。この確信は禅者のものであろう。人間の実相を自覚したという自信から来るものであろう。思想や考えでなく、実相であるから、時代や政治状況、国が変わっても、評価は変わらないという自信がある。
 「本当に幽玄の正統的な芸風で最高位をきわめた者は、時世の好みがどうであっても、その舞台効果にはなんの変りもないもののように思われる。従って能を書くにつけても、幽玄の舞台成果をもたらすような素材を本位として書かなければならない。くりかえし強調するが、上代においても、昔も今も、時代ごとに芸人が得意とする芸風はさまざまであるが、このうえもなく、しかも永久に天下の名望を得る演戯者というのは、幽玄風を身につけた者だけであるにちがいない。 −−応永年間に自分が創作した能の数々は、後の時代にもさほど評価に変動はあるまいと信じている。」(3)

上三位の曲

 世阿弥は自分の創作した曲にも優劣があることを認めている。世阿弥がよい能だといっている曲は、井筒・通盛・松風村雨・蟻通・忠度などであるが、能の「九位」にあてはめれば、第一位から三位までのすぐれた能、上花であるという。これらをよく研究して、なぜ、これらがすぐれているのか、その要素をさぐりあてる必要がある。現在の研究書をみていると、ただ、感覚的に、これらは「幽玄美」をつくしているという程度で、その厳密な解明はされていないと言われている。
 「祝言のほかには、井筒・通盛など、直ぐなる能なり。実盛・山姥も、そばへゆきたるところあり。ことに神の御前・晴の申楽に、通盛したきなりと存ずれども、上の下知にて、実盛・山姥を当御前にてせられしなり。井筒、上果(花)なり。松風村雨、寵深花風の位か。蟻通、閑花風ばかりか。通盛・忠度・義経、三番、修羅がかりにはよき能なり。このうち忠度、上果か。西行・阿古屋松、おほかた似たる能なり。後の世、かかる能書く者やあるまじきと覚えて、この二番は書き置くなり。」(4)

 却来花、謎の秘曲

 世阿弥は『九位』に、能の役者は「中三位」から始めて、上三花に至った人は時々、下三位の芸もてがけるといった。この上三位、下三位ということは、能の台本である「謡曲」にもあるという。 世阿弥が七十歳のとき、長男の元雅が死んだ。元雅の死んだ翌年に、世阿弥は『却来花』(きゃくらいか)を書いた。元雅は道の奥義をきわめていて、世阿弥から元雅へ口伝したものがあると書いている。四十歳以前は、見せてはならない曲で、元雅には、見せたが、まだ演じなかった。そいういう曲があることを、口伝で伝えたが、その事実だけを記しておくという。その内容は「秘す」という。それは奥義に至り得た者のみに理解され、伝え得るものだからである。

一期一度の秘曲

 「そもそも、元雅、道の奥義を極めつくすといへども、ある秘曲一ケ条をば、四十以前は外見あるまじき秘曲にて、口伝ばかりにて、そのその曲風をばあらはさざりしなり。これは、却来風とて、四十以後、一期に一度なす曲風なり。元雅は、芸道ははや極めつくしたる性位なれども、力なく、五十に至らざればその態(わざ)をなす事あるまじき秘伝にて、口伝ばかりにてありしなり。最期近くなりし時分、よくよく得法して、無用の事をばせぬよし申しけるなり。無用の事を せぬと知る心、すなはち能の得法なり。
 そもそも、却来風の曲といふは、無上妙体の秘伝なり。「却来を望みて、却来を急がず」といへり。これは、口外なき秘曲なるによって、元雅一人の相伝なれども、早世の上は、後世に曲名をだに知る人あるまじければ、紙墨にのするところ、深秘々々。」(5)
 『申楽談儀』で、世阿弥は、上三位にあたるすぐれた曲名を挙げている。「却来」とは、悟りを得た後、人を救うために衆生の元へ帰ってくることである。世阿弥は、上三花に至った人は時々、下三位の芸もてがけるといった。上三位、下三位ということは、能の台本である「謡曲」にもあるという。上三位の演技力に達した人が、演じる下三位の曲は、一生で一度演ずべき曲である。演戯面で、上三位に達した人は元雅しかいなかったと世阿弥はいう。元雅にはいつかその曲を演じるように元雅にはそれを見せたが、まだ演じたことはなかった。元雅が死んで、このことを口伝すべきほどの力量の人はいない。そのため、ここに記す、というのである。
 これがどの曲なのか、議論した本をまだ見たことがない。『世阿弥・禅竹』の注釈でも、推定もしていないから、これも解明すべき課題であるはずであるが、まだ解明されていないようである。

秘曲はどれか !!

 初めは、曲を見せないというが、一度上演されると、曲は秘密でなくなる。しかし、人の目にふれていながら、その曲がそういう秘密を秘めている曲だということが容易に知られない曲である。『申楽談儀』で、世阿弥は、上三位にあたるすぐれた曲名を挙げている。曲で下三位というと、素材、筋、詞などが能の基本をわきまえておらず、駄作である。そういうものは世阿弥は絶対、作らないし、上演しないであろう。しかし、「上三位」に達した人が、一生に一度てがける。『却来花』の曲は、「ただの下三位」ではなく、「上三位」であると同時に「下三位」の曲である。
 「上三位」を超えた「下三位」、一見くだらない下の曲のように見えるが、人間の本質を裏に秘めた曲ということであろう。世阿弥はその曲名をあかさなかった。禅的見地からいえば、この謡曲であろうと思うものがある。(秘す)  これは至高の能の境地に達した人が検討すれば、わかるものであろう。世阿弥が「却来花はどの謡曲か」その題名を秘したのは一種の公案である。解答を教えることだけが教育ではない。苦労して身体ごとぶつかり、弟子が自分から解答を発見する手助けをする師である。そういうふうにして得たものは、その人のものになったのである。禅者として、芸術家としての世阿弥らしい教育法である。役者が向上して自ら解明すべき問題である。能に興味があるかたは、謡曲集の世阿弥のすべての謡曲を読んでそれを発見されるべきであろう。この課題は能の演者と能研究の学者が取り組むしかない。能を専門とする人が生涯をかけて取り組むべき課題である。それが在家禅としての能である。『却来花』の曲はどれか、この題名と理由を指摘しなければ、世阿弥を理解したとはいえまい。世阿弥もまた、現代でもなお解明されていない芸術家の一人であろう。
 この困難な課題には、禅僧や禅学者は取り組まない。禅の分野には研究課題が多いから、能まで手をだしている余裕はないからである。禅とは何か、さえ解明されていない状況である。
 禅や本当の仏教の教育法はこうである。説法を聞いて、本を読んで理解するだけが禅ではない。頭での理解ではなく、生活が違ってこないと、解答が出てこないものがある。行動医学、臨床心理学などでも、それが指摘される。今の仏教学、禅学はこの人間の基本が理解されず、ただの理解(しかも浅い)に落ちてしまった。その結果、人を感動させ、救うことができなくなった。芸術も同じであろう。芸術を頭で理解することと、自ら美を発見し創作する喜びとは全く違うであろう。
 禅には「公案」というのがある。その解答はあかされていないだろう。禅の師と弟子が一対一で口伝するものである。師から解答は教えないで、弟子が、修行しながらとりくみ、その解答になりきったと思ったら、師に告げるが、体得でない限り否定される。正しい解答を持ってくるのを待つ。そして、正しい解答を持ってきた時、「よし」と言われる。その内容は、禅の師と修行者の間でのみ議論されて口外されていない。本にも書かれていない。口伝の一種である。

他の能にも注目

 しかし世阿弥の「夢幻能」のみが本質を表しているということは言えない。この形でないものもすばらしい曲がある。世阿弥の物狂い能、元雅、禅竹の能にも見るべきものが多い。却来花の能も上を超えた曲であるから、夢幻能ではないかもしれない。世阿弥に限らず、テキストとしても深い意味をもった作品を創作しようという努力がなされた。

(注)
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