禅と日本文化

世阿弥

忘我への仕掛け

 世阿弥は、役者は無心、観客はそれを見て忘我になる。つまり、役者も観客も無心、無我になることがねらいである。そのために、役者には無心の境地への稽古が要求され、観客の忘我のためには、謡曲や歌舞に工夫がされる。

忘我

 見所とは観客のことである。世阿弥の能は見所(観客)を、能になりきらせるという「忘我」がねらいである。役者も観客も我を忘れ(無心)て、能になるのが最高の境地である。うまいだの、面白いだの、批評が頭にわいている間は、感動が低い。我を忘れてぼうぜんとなる。その後、我にかえって、「ああ、さっきのは何とすばらしいのだろう(後心に安見)」と後に感動がわく。
「見所も妙見に忘じて、さて後心に安見する」(1)
「批判にいはく、「出来庭(できば)を忘れて能を見よ。能を忘れて為手(して)を見よ。為手を忘れて心を見よ。心を忘れて能を知れ」となり。」(2)

演者の鍛練

○師の指導

 観客をそれほど感動させるためには、上位に至った名人の師について指導を受ける。名人になる には、「この道を教ふべき師」が必要である(3)。
「初心の人は、常に師に近づいて、疑問な点を質問し、指導をうけて、自分自信の芸の力量について明確な指示をうけるべきである。」(4)

○常に禅を行じる

 前に、世阿弥の言葉を紹介したように、明らかに世阿弥は禅者である。世阿弥は能の芸と、禅の得道の両方を修めることを考えている。金春禅竹は、両方を完成するのを期待できるが、今はまだ至っていない。至った頃、世阿弥は生きていないだろう。それでは誰が印可するというのだろう、と言っている。これは世阿弥には、最高の位に至ったかどうか判定するのに、ある明確な基準があることになる。第一の関門は、無になる、ことである。
 「ここに金春大夫、芸風の性位も正しく、道を守るべき人なれども、いまだ向上の大祖とは見え ず。芸力の功積もり、年来の時節至りなば、定めて異中の異曲の人とやなるべき。それまでは又、 世阿が生命あるまじければ、おそらくは、当道に誰あって、印可の証見をもあらはすべきや。」(5)
 しかし、世阿弥は長命であったため、幸いに禅竹の得法を見届けることができたようである。宗旨の参学を油断なく持てとは、禅の工夫を油断なくせよ、ということであろう。得法の印可も実際を見て確かめた上でというのは、禅の印可と同じく、実際に面会して、点検することをいう。
 「かへすがへす宗旨の参学を、御心に油断なく持たせたまひ候べく候。−−−得法のことはもとよりの御事にて候あいだ、かれこれ成就かと覚えて候。さりながら、千聞も一見にはしかず候べく候。御能を見もうし候て、治定(じじょう)のご返事もうし候べく候。」(6)
 佐渡よりの書状で、法を守れというのも、仏法、禅の工夫を怠るなということである。
 「道の心は妙法諸経の御法をだに藁(わら)ふでにても書くと申候へば、道の妙文わ金紙とおぼ しめされ候べく候。なをなを法をよくよく守らせたまふべく候なり。」(7)

観客を忘我へ

 世阿弥は観客を忘我に導くために、種々の工夫をした。それをあげてみる。それが世阿弥の能が他の人の能と違っている理由であろう。

準備なく、自然にはいって行ける素材

 世阿弥は、全く新しい内容の作り能はやらない(8)で、素材はよく知られた『平家物語』などから選んだのは、観客に緊張、身構えをおこさせないためである。未知の筋だと筋を理解しようという緊張、身構えが起こる。能をみに行く時は、あらかじめ謡曲を読んでいったほうがよい。当時の人は元の物語りを知っていた。 素材は舞と歌にふさわしいもの(9)を選ぶのも、その場面を頂点にもっていきたいからである。鬼は扱わない(10)。心も姿も鬼というものは世阿弥は信じない。筋の面白いもの、ドタバタ劇、大勢登場するものは扱わない。そういうのは観客のこころがふりまわされる。振り回されていては、真の自己に目覚めない。

夢幻能の構造は、幅広い人が受容する筋を準備する

 後場で主人公が物語の中の有名人(過去の人)に扮して出てくるが、夢の場面としている。この形は、時間、空間を超越した筋を導入できる。その筋を幅広い人が自分なりに解釈して、受容してくれる。ということは観客のこころにすんなりとはいっていくということである。

懸詞、縁語、引用が心地よく受容される

 能のせりふは、懸詞、縁語が多く、他の物語、和歌、経典からの引用が多い。役にふさわしい言葉を、耳なれた和歌、古典からとってくるのもそれを聞く観客に心地よく受容される(11)。

シテに集中させる

 世阿弥の能では登場人物が少ないのが特徴である。観客の心を一点に集中させようという意図であろう。観客が大勢の人物を追っていては、心が散乱するであろう。
 「一同の気分を演者(シテ)一人に集中させて謡いつづけるうちにその気分をしだいに視覚的な姿にも移行させ、もって観客全員の交感が成立して称賛を得るならば、これが成功した理想的な上演だといえるだろう。」(12)
 「為手一人へ諸人の目・心を引き入れて、その連声より風姿に移る遠見をなして、万人一同の感応となる褒美あらば、一座成就の遊楽なるべし。」(13)

序破急が考慮される

 世阿弥は「序破急」ということをよく書いている。序は、はじめ、導入部。破は、最も肝要の部分。「序の、本風の、直ぐに正しき体を、細かなる方へ移しあらわす体なり。その日の肝要の能なり。」急は、最後、名残の能。(14)
 導入から徐々に盛り上げ、最後近くで頂点に盛り上げ、最後に静かに終わる。一日の能の配列にも、一曲の中でもこれが配慮される。一曲の中では、後場で、動きの多い舞が舞われる、ここが頂点。

はからいなく、自然に動かされる演者

 舞は音に舞わされる、しぐさは詞に先導されるようにせよ。これはシテが詞に舞わされるのである。これが続くのを見ていると観客も引き込まれて舞わされるような気分になり、忘我にはいりやすいと思われる。

▽舞は音声より出て、音声におさまる
 「舞は、音声より出ずば感あるべからず。一声の匂ひより舞へ移る堺にて、妙力あるべし。又、おさむる所も、音感へおさまる位あり。」(15)
▽先聞後見
 演戯というものは、台本に書かれた言葉の内容を本位として見せるべきものである。そこで、言葉(謡い)に少し遅れて、しぐさをするべきである。(16)
 「まづ諸人の耳に聞くところを先立てて、さて風情を少し遅るるやうにすれば、聞く心よりやがて見ゆるところに移る堺にて、見聞成就する感あり。−−−  「まづ聞かせて、後に見せよ」となり。」(17)

中初、上中、下後(名人への過程)

 みだりに種々の芸に手を出さず、必須の基本をしっかり稽古をして名人になる。『九位』や『遊楽習道風見』で最高の能の位への道程に般若心経の言葉を使って言う。

 しかし、この修行の道程に関連して、世阿弥の仏典解釈を誤解だという学者がいる。世阿弥の『遊楽習道風見』の解題で、世阿弥の仏教観が誤解であるという。
 「『花鏡』や『至花道』に説いた安位、妙所、闌けたる位、無位などの高級な芸境を『心経』に関連させて説いているが、色即是空と空即是色に段階を設けるような誤解を含みながらも、論として説得力を持つのは、『心経』の引用が契機に過ぎない事を示すものであろう。漢籍、仏典、歌論や先人の言句を参照するに際し、それに引きずられる事なく、誤解しながらでも自己の論に生かしてしまうのが世阿弥の論の特色である。」(18)
 これは、仏典に関しては、世阿弥が誤解しているというのは当たっているのだろうか。仏道の悟りまで至るには段階がある。まず、無(空)になりきり(色即是空)、ついで、無(空)が無でないことを悟る(空即是色)。その期間に長短はあるが、必ずあるはずである。人間の本質はひとつであるが、般若心経を上の位まで体現する修行過程には段階がある。その解釈をしらず、仏教学者の机上の本質論のみの解釈を絶対のよりどころとしていては、世阿弥のような体現者の言葉をうけとめそこなう。原始経典も大乗経典も禅からの解釈(釈尊の成道と禅の悟道が同じ)がされる。世阿弥が禅体験に基づき修道論を組み立てたとすれば、上の批判は当たらない。能の修行にも、師の指導を受け基本型になりきる段階と、その後、自己の独創を入れて型から離れる段階があるというのである。これは仏教や禅と同様である。世阿弥が禅の言葉をいうのをただの契機であり、仏典解釈に誤解があると思っていては世阿弥の謡曲も理解されないかもしれない。謡曲も禅、仏道すなわち、人間の本質を密かに織り込んでいるから。

(注)
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