禅と日本文化
柳宗悦と民芸運動
柳の宗教観
柳は宗教の研究から入って、民芸の美の発見におよび、民芸と宗教は一つであることを証明した。民芸は民衆による真の美を持つ工芸品である。柳の言う宗教は学者や僧侶による学問宗教ではなくて、民衆による直観に基づく真の安心を得る宗教であるから、宗教と民芸が一つになるのである。柳は、次のような宗教観を持つ。死の問題を解決すること、自力の宗教といわれている禅と他力といわれている念仏の真宗やキリスト教は深いところで一つであるという。
- 死の問題を解決するのが宗教
「宗教とは死の問題を解決する唯一の道を吾々に教えるものであります。」(1)
道元禅師も「生死を超える」という。学問では得られない「死の問題」の解決をみる宗教。
- 学問はもろい
「知識を持つ吾々は、彼ら(無学な人)が無心に捕えるものに、容易に近づけない。この場合、吾々は彼らの無学をわらうよりも、吾々の学問の脆(もろ)さを省(かえり)みる方がよい。」(2)
確かに、現在でも、大学を出たエリ−トが心を病み、自殺している。学問は、人生の深い問題には役に立たない。学問は、最も自力的である。禅も念仏も、自我を捨てる。他力的である。その自力の学問は、死の問題を解決してくれない。禅は他力的といったが、禅に批判的な勢力は、禅は自力だという。禅は場所的には、自分の根源の場であり、自力に見えるが、方法は自我を捨てる他力である。学問では得られない方法である。
- 生活と宗教とが不可分
「宗教と生活、即ち宗教とわが生活とは切っても切り離すことの出来ぬ間柄といえましょう。」(3)
すべての日常生活の場にあるのが深い宗教である。教団施設の中だけとか、特別の宗教行事の時(坐禅、念仏の時)だけとか、信者同志が会合している時だけとかいうような宗教は浅い。
- 自力と他力の極地は一つ
「自力と他力と分けるのは、吾々がまだ道の途中にある時に過ぎない。」
「漸次登るにつれて視野に入る展望は、近寄ってくるのである。そうしてついに嶺に達する時、二つの道は絶え、一つの頂きに結ばれてしまう。」(4)
禅は自力、他は他力、などという人は、自力も他力もわかっていない。浅いところしか知らない。深い宗教は、自力も他力もない。
(注)
- (1)『柳宗悦妙好人論集』 岩波文庫、194頁。
- (2)同上、52頁。
- (3)同上、175頁。
- (4)『南無阿弥陀仏』 岩波文庫、213頁。
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