もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

    
禅と哲学

西田幾多郎の生涯

北陸の小村に生まれる
西田幾多郎の参禅>
哲学の研究


北陸の小村に生まれる

 西田は、明治三年(1870)五月十九日、石川県宇ノ気村字森で誕生した。現在、宇ノ気町という。父、得登(やすのり)、母寅三(とさ)の、長男で、家は代々旧加賀藩の十村役をつとめた家柄だった。
 十六歳で、石川県専門学校附属初等中学科第二級に補欠入学(翌年第四高等中学と改称)した。この時、北条時敬(ときゆき)宅に寄寓して、数学の指導を受けた。在学中、鈴木大拙(後に世界的な禅学者となる)と同級だった。北条は鎌倉の今北洪川(こうせん)に参禅して大悟した禅居士だった。
 『北条先生に始めて教を受けた頃』という随筆に、西田は次のように書いている。
「先生は測り知られないような深い大きいものがあり、非常に厳格なようで、その奥に何処かまた非常に暖かいもののある人であった。しかしその頃の私には先生は無口で、盤石にでも突き当ったようで、話しにくい人であった。いつかも、先生が黙っているから、こっちも先生が何かいわれるまで黙っていようと思って、夜深くまで黙って対坐していたことなどもあった。私が先生の御宅にいた頃かと思う。一日、東京からT君が来て先生と話している時、先生は黙って私とT君に『遠羅天釜』を一冊ずつ下さった。T君は禅というものはどういうものかというようなことをいったら、先生は脇腹に刃を刺し込む勇気があったらやれというようなことをいわれた。ただそれだけである。」(E16)
 『遠羅天釜』(おらてがま)は、臨済宗の禅僧、白隠の仮名法語。
 明治二十四年[21歳]、哲学を志して東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学した。この頃、親友の大拙は、円覚寺に住み込み、今北洪川老師に参禅中であった。そこで、十一月下旬、西田も円覚寺の大拙をたずね、老師から公案をもらった(F98)。大拙の方は、まもなく大悟するが、西田は、この時は機が熟さず、熱心でなかった。

西田幾多郎の参禅

 明治二十七年[24歳]、東大選科を卒業し、翌年、石川県尋常中学校七尾分校教諭になり、寿美と結婚したが、翌年には、分校が閉鎖になった。そして第四高等学校の講師となって、ドイツ語を担当した。この頃から、西田に猛烈な参禅意識がめばえた。洗心庵(金沢市卯辰山にあった)の雪門玄松老師(もと国泰寺住職)に参禅を始めた。二十七歳の時、山口県高等学校教に赴任したが、参禅の関心は高く、しばしば京都妙心寺に参禅した。
 明治三十二年[29歳]、また金沢市の第四高等学校教教授となったので、雪門老師に参禅。雪門老師から「寸心]の居士号を受けた。
 三十六年[33歳]、雪門老師が還俗して金沢から離れて和歌山に行ったため、師を変えて京都大徳寺広州老師に参禅し、「無字の公案」をとおった(普通は、見性であるが、西田の場合は、そうではなく、知解でとおされた。この点は別に詳細に考察する。)。しかし、満足せず、さらに坐禅を続けた。雪門も、時々、金沢に戻っており、西田の日記には、明治四十一年[38歳]まで洗心庵に関する事が書かれている。

雪門老師

 雪門老師のことは、水上勉氏が『破鞋』という評伝を書いている。雪門は、臨済宗国泰寺の管長であったが、在家禅を推進しようと、管長をやめ、洗心庵で在家の指導にあたっていた。実家が事業不振になり、父が死んで、長男であった雪門は、還俗して和歌山に帰った(Z137)。明治35年、西田は、和歌山の雪門を訪ねた。和歌山に西田は十九間滞在して指導を受けた。雪門の家業立て直しは失敗し、実家は破産した。雪門は晩年には、若狭で在家禅をひろめた。国泰寺の頃の侍僧であった木下越宗が高浜町の真乗寺にいたからである。そこと本郷村海印寺に居候して、禅を指導しながら、大正四年に死んだ(西田46歳の時)。
 雪門について、その業績はよく知られていなかったが、水上勉が『破鞋』という評伝を書いた。これによれば、雪門老師は、西田の見性も捨てて、さらに励むよう指導している。西田が、「無字透過」を雪門和尚に報告する手紙を書いたらしい。その雪門からの返事が残っている。(読みやすいように、句読点をつけた)

「大徳寺に於て少分の所得これある趣き、法幸の至に候。ついては云々の事ごもっともに候。しかしこの事は入所の強弱にかかわらず、工夫間断なき時は自然に熟練して時々所得にあるものにてついに見地の明白を得る域に進むものなれば一層の奮発を希望いたし候。実はこの事は大丈夫の漢にあらざれば信じがたきものにてその要各自の根機次第にて所得の深浅あるものに候なれど又鉗鎚(けんつい)の巧拙なしと言ひがたし。故に丈夫の学者は所依を撰ぶものなり。さりながらこの事は師家にあらず学者の精神にあるものなれば今回の現境は大徳寺和尚の不可是にあらず、君の妄想なればそんなものは捨ててしまひ本参の活路を拈提して隻手に何の声あると間断なく参得するがよろしく候。他日大に笑うべき事あらん。夢々一念も法を疑ふ心を生ぜざるべからざるなり。」(Z198)

哲学の研究


 西田は、参禅のかたわら哲学の研究を続け、明治四十一年[38歳]の時、『純粋経験と思惟、意志、及び知的直観』を「哲学雑誌」に発表した。翌年、学習院教授になり、東京に住んだが、一年でやめて、京都帝国大学文科大学助教授になり、哲学概論及び倫理学の講義をした。この歳、鈴木大拙が学習院教授になった。
 四十四年、『善の研究』、大正四年に、『思索と体験』を出版した。大正八年[49歳]に、妻寿美が脳溢血にたおれ、以後5年余り病床についた。大正十年、生涯の親友鈴木大拙が真宗大谷大学教授となって、京都に移住したので交友がさらに深まった。大正十二年、信濃哲学会会員のため「カント倫理学」を講演し、以後、昭和十二年までの間に前後8回の講演を行った。五十五歳の時、妻寿美(49歳)が死亡。
 昭和三年[58歳]、京都大学を定年退職し、はじめて鎌倉に冬をすごす。昭和六年[61歳]、山田琴と再婚。この年、満州事変起こる。昭和八年[63歳]、鎌倉市極楽寺姥ケ谷に家ができ、この年より夏冬をここですごす。昭和十四年、第二次世界大戦始まる。昭和十五年[70歳]、文化勲章を受けるが、知人の間にもほとんど知る人がなかった。
 昭和二十年(1945)[75歳]、四月、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」を書き、六月七日、鎌倉の自宅で死去した。遺骨は三分し、鎌倉東慶寺、宇ノ気町森、京都花園妙心寺霊雲院に埋葬された。

   
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