禅と日本文化

千宗旦(せんのそうたん)

宗旦の茶に見る禅のこころ

 千宗旦は、利休の孫であり、現代まで続いている茶道の家元、三千家のもとを作った人で、茶と禅は一つ、という茶禅同一味を説き、武士に仕官せず、清貧の生活の中で、わびの茶に徹した茶人である。

理解されない宗旦の心

 桑田氏は、茶の研究で有名である。宗旦の歌を紹介している。 これも、二重の読み方をしてみよう。宗旦は「希望的」なところを歌っているのではなくて、逆にみるのである。
 一見、花は美しく見えるが、根が切られているから、まもなく、死んでしまう。こういう悲観的、絶望的な、文化や茶道の現況を嘆いているのだとも思える。華やかに見えるが、精神がなく、死んでしまう茶道、その他の京の文化、こういう意味では?? 宗旦は、華美を嫌ったというが、わびに徹したという精神は、経済的にゆとりができても、生涯変わることはないと思う。
 良寛さまや貞心尼、それに道元禅師、芭蕉の歌や俳句もそうであるが、裏の真意があることが多い。
(注)

宗 旦 の 茶 室

 宗旦が作った茶室は、次の茶室がある。今日庵は、特に小さい。利休も、小さい茶室での「草庵小座敷の茶の湯」が「心に至る」と言っていた。  別な意味も考えてみたい。作法には真はないと利休や宗旦はいうから、「秘伝」の形を取る作法や型は、本来の茶道(禅とひとつとしての)の精神にとって価値はないかもしれない。面接、人物調査などに基づいて特定の人に伝えるなどというと、金や地位のある(指導者の利益になる)人だけを選ぶ魂胆がある場合もある。あるいは、それ相応の境地に向上した者にのみ授ける難しい精神のものもあるだろう。
 もし、自己をあきらめるというのが茶道の精神ならば、特定の人ではなくて、すべての人に、常に狭い場所での、一対一の「独参」のごとき指導が不可欠である。だから、利休も宗旦も狭い茶室を本来の茶だといったのかもしれない。そういう指導を通して、自己の正体を覚る。だから、精神を自覚した茶人は、すべての弟子を、最初から平等に、狭い茶室で指導したのだろうと思う。
 そういう人が出現したら、「あの人は認められたらしい。」とうわさが発生し、知らない人は「秘伝された」などというだろう。精神の自覚には、秘伝はなく、自己が自ら自覚するものではなかろうか。  これで見ると、桑田氏が言いたいのは、小さい座敷で茶をできるのは、侘びに徹した茶人のみ、だという趣旨であることがわかる。しかし、禅茶一如から言えば、侘び茶に「徹する」ということは、悟りを得る、ということである。茶道で、悟りを得るのでなければ、小座敷での指導はできない・・・。
 そうであれば、利休や宗旦が禅を重視した意味がはっきりしてくる。
 悟りを得るほどの茶の指導は、一対一の小座敷の茶でもないとできない。それは、権威や金や地位や身分などにかかわりなく、すべての希望者が受けるべきである。限定する茶人ならば、差別の心があり、侘び茶に徹した人とはいわれないだろう。
 茶道が、本質を見忘れると、真剣な求道ではなくなる。一体、茶道の真の精神とは何だろうか。

(注)

侘 び に 徹 し た 宗 旦

 桑田氏は、次のような話を紹介している。  道元禅師も天皇からもらった紫衣を身につけなかった。本来の「道」が世俗に迎合して、堕落していくのを認めなかった。精神のない表面をかざることは、禅的な生き方をした宗旦が嫌うことだった。

(注)
 
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