医学とこころ

永井隆の生涯

レントゲン医療につくすー長崎の鐘のモデル

 永井隆博士は、長崎医大の教授でしたが、レントゲン治療につくしました。奥さんを原爆で失い、自身もレントゲンをあびたため、白血病にかかり、早世されました。彼と奥さんのことは、歌謡曲『長崎の鐘』にうたわれているのでご存じの方も多いでしょう。彼は仏教徒ではなく、キリスト教徒です。キリスト教も仏教も深いところでは、人の「こころ」を深く探求しようとしていると思われます。深いキリスト者は、自分をいかに探求し、何をしたか、どう生きられたかを、学びたいと思います。

レントゲン医師に
クリスチャンとなる
レントゲンの研究
白血病になる、原爆
長崎の鐘
マスコミにたたかれる
臨終
如己堂
戦争を計画するな
殉教は、教会がいうような荘厳なものではない(遠藤周作)
歌謡曲『長崎の鐘』


レントゲン医師に

 永井隆博士(以下敬称略)は、明治41年2月3日、松江市で誕生。父寛(のぶる)、母ツネの間に生まれた。父が、島根県飯石郡飯石村大字多久和に医院を開業したので、家族とも移住した。そこは、現在の三刀星町で、今も育った家が残る。また「永井隆記念館」がある。
 永井は、飯石小学を卒業し、その後、松江に下宿し、松江中学、松江高校を卒業した。
 昭和3年、長崎医科大(現在の長崎大学医学部)に入学した。大学の裏隣に浦上天主堂があった。
天主堂の真向かいにあった森山家に下宿した。森山家は3百年続いたキリシタンの信徒頭の子孫で、その家もかつて秘密礼拝堂であったという。森山夫妻と一人娘は、今も堅い信仰を守っていた。
 昭和7年、長崎医大卒業したが、悪性の中耳炎にかかり、これがもとで死の瀬戸際にたたされた。手術で一命をとりとめたが、耳が聞こえにくくなる障害が残り、聴診器を使えなくなった。臨床医として致命的な障害であった。しかしこの大きな挫折が永井に内科志望をあきらめさせ、長崎医大の助手として、未開の分野であった放射線医学を選ばせる転機となった。

クリスチャンとなる

 昭和8年、広島歩兵連隊に入隊、軍医として満州事変に出勤。この時下宿の一人娘が永井の慰問袋に一冊の本を入れてくれた。永井と同い歳の森山緑である。戦地に届けられたその慰問袋にはいっていたのはキリスト教の書物(公教要理)であった。
 昭和9年、帰還し、長崎医大助手、物理療法科に復帰。6月、洗礼を受ける、8月、森山緑と結婚。

レントゲンの研究

昭和12年、長崎医大講師。中日事変に応召。軍医中尉として中国の第一線に従軍。
 昭和15年、長崎に帰還。長崎医大助教授。物理的療法科部長になる。 結核予防、治療のためにレントゲンが重要になり、永井も毎日多勢の人のレントゲン検診を行った。当時は、翌年戦争に突入していく時代であり、レントゲンに従事する医療者が放射線をあびることを防止する設備も環境も十分でなく、永井は許容量を超える放射線をあびていた。
それ以前にも、レントゲンの研究者が、白血病で早世していることを知っていたから、永井も注意はしていたが、戦局が悪化するにつれ物資が欠乏し、写真にとる資材がなくなると、直接透視していた。白血病の発病を覚悟の研究であった。

白血病になる、原爆

 昭和20年、6月、脾臓肥大で、慢性骨髄性白血病と決定、余命3年と診断された。レントゲンの検診で長年放射線をあびつづけたためであった。その診断された夜、永井は奥さんにそのことを打ち明けた。
「私は信頼する妻にその夜すぐすべてを知らせた。じいっと聞いていた妻は「生きるも死ぬるも神様の御栄えのためにネ」と言ってくれた。」(A19)

 8月9日、長崎に原爆が投下され、大学に勤務していた永井も被爆した。右側頭動脈切断、出血をおして救護に活動すること3日、再度失神して倒れる。その時の模様を永井はこう記す。
「時計は十一時を少し過ぎていた。病院本館外来診察室の二階の自分の室で、私は学生の外来患者診察の指導をすべく、レントゲン・フィルムをより分けていた。目の前がぴかっと閃いた。まったく青天のへきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。−−−−  目に見えぬ大きな拳骨が室中を暴れ回る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄砲も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、かき回され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。ーーー  とにかくこの埋没から脱け出さねばと、膝を動かし、腰を突っ張って苦心しているうち、すうと暗くなって、両眼ともすっかり見えなくなってしまったのである。」(B17)

妻のロザリオ

 8月11日、自宅焼け跡に帰って、夫人の遺骨を拾って埋葬。
 隆が初めて家に帰れたのは被爆三日目の夕方だった。浦上は荒野だった。天主堂は瓦礫となり、わが家は跡形もなかった。そこに立って隆は灰の中をさがした。そして台所のあと、茶碗のかけらのそばに妻はいた。
「近寄って手をかけた。まだほのぬくかった。拾い上げたら、ああ軽くぽろりとくずれた。骨にロザリオの鎖だけがまつわりついていた。」 (C)
 8月12日、三山町木場におもむき、救護班を設けて二百二十五名の原爆傷病者を救護する。
8月15日、終戦。永井は、9月20日、右側頭動脈再び切断、出血多量のため倒れた。25日、失神して危篤に陥る、一週間後、回復。11月、長崎、大村、諌早で大学の講義再開。3カ所をめぐって講義する。

長崎の鐘

 12月24日、焼け跡から掘り出された浦上天主堂の鐘が、再び鳴った。 以上が歌謡曲『長崎の鐘』に歌われている。
 「一、こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
  なげさめはげまし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る

  二、召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」

マスコミにたたかれる

 昭和21年、1月、バラックより仮建築の家に移る。長崎医大教授。
7月、長崎駅頭で倒れる。以来、病床にあることが多い。8月、『長崎の鐘』を書く。11月、病臥し、再び立たず。昭和23年3月、脾臓いよいよ肥大し、腹周囲96センチ。このころ、如己堂竣工し、ここに移る。『ロザリオの鎖』を書く。4月、『この子を残して』を書く。8月、長崎医大休職。『生命の河』脱稿。
10月、三重苦のヘレン・ケラーが如己堂を訪問。
翌年、9月、長崎医大退職。10月、『いとし子よ』発行。

◆マスコミからたたかれる
 永井は病床にあって、次々と本を書いた。書いた本が次々とベストセラーになり、スポットライトがあたった。雑誌で、「原子病と闘う」「浦上の聖者」などと報道された。一方、おもいがけない中傷の嵐が吹き荒れ始めたのである。ある雑誌は、「長崎もので儲ける」「永井隆の商魂」「偽善者・永井隆への告発」などと報道した。次々と出版された本は、「代作者がいるに違いない」「金儲け目当ての偽善者」。
 永井には二人の子供がいたが、心ない者が二人の子に「寝たきりで金もうけするものもらいの子」とはきすて、泣いて帰宅した。隆は弁解も反論もせず、世評をじっと受け止めていた。人々は、隆が出版で得た収入の大半を浦上の再建に寄付し続けていることを知らなかった。
 いつの時代も、自分ではつまらない人間でありながら、誠実な人をたたくマスコミ人がいる。
 永井は、自分を弁解しなかった。不誠実な人間の言葉などに振り回されて、大切な人生の時間を無駄にしたくない。自分にやましさがなければ、神が見守っているという、永井には信仰があった。

◆映画化

 昭和25年、松竹が彼の生涯を映画化した。題も「長崎の鐘」であった。
 昭和26年 病状が悪化し、腹水が増大し、全身浮腫を生じた。4月、最後の原稿『乙女峠』を書いた。右肩甲部に内出血。書くことができなくなる。5月1日、長崎医大病院に入院、誠一(まこと、17歳)、茅乃(かやの、11歳)の兄妹を残して、午後9時50分逝去。

臨終

「夕の祈りの時、永井さんは静かに瞑目しながら黙祷し、ロザリオをつまぐっていた。九時四十分ごろ「目まいがする」と訴えた。それから七分ほどもたったころ、突然けいれんがきた。「神父様を呼んで下さい」とたのんだ。「ルルドの水です」と歌子さんが一滴口にたらした水を、うなずいてのどに通した。そのまま意識が不明になった。長沢助手が、強心剤を二本打った。九時五十分、再び回復し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手にまかせ奉る」と祈った。「イエズス、マリア、ヨゼフ」のみ名は叫ぶように大きな声で唱えたが、「わが魂を」からのちは、ほとんど聞きとれないほどかすれていた。歌子さんが渡した十字架を、誠一君が左手のほうに渡すと、ひったくるように受けとり、「祈ってください」と叫んだと思うと、もう息をひきとっていた。
  享年四十三歳、直接の死因は、「白血病に基づく心臓衰弱」であった。手には、教皇ピオ十二世からいただいた黒たまのロザリオと、誠一君が渡した十字架とを持っていた。」
        (A、片岡祢吉著『永井隆の生涯』より抜粋したもの)
死が迫る
○この世は美しい
 死を意識する人は、この世の美しさを知る。
「私はこの頃になってようやくこの世の美しさが
見えるようになった
すなおに見直せば
この世はこんなにも美しい
私はこの世に生まれたことを
しみじみ喜ぶ」 (C)

「すなおに見直せば
この世はこんなにも美しい
数々の思いがけない出来事に合わされたが
それはみな私の心を
すなおにするためであったらしい」 (C)

○わが子への遺書のごとき言葉

◆隆が最期の力をふりしぼって書いたのは、子供たちへのいわば遺書にほかならなかった。
「幼いわが子よ
親なしとなってこれから受ける
そなたたちの辛苦は私の目にそのまま見える
けれども私はそれを嘆くまい
悲しむまい恐れるまい
そなたたちは私の子だ
お母さんの子だ」

「いとし子よ
『汝の近き者を己の如く愛すべし』
そなたたちに残す私の言葉は
この句をもって始めたい
そしておそらく終わりも
この句をもって結ばれ
ついにはすべてがこの句に
含まれることになるだろう」 (C)

如己堂

◇博士が晩年をすごした畳2枚の「如己堂」は、長崎市の浦上に今もそのままの姿で保存されている。(C)
 一畳を博士が占領し、一畳に二人の子供が寝ていた。
 キリスト教の聖書にある「なんじの近き者を己(おのれ)の如く愛すべし」という精神にちなんで名づけた。
 禅の「自他一如」に通じるものである。己を空しくすれば、すべてが一つとなる。
 禅に、「すべてはわが子」「すべて我が世界」の言葉がある。

○二畳の家 
「私の寝ている如己堂は二畳ひと間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤ ノの住居である。これは教会の中田神父様、中島神父様、深掘宿老さんのご厚志によるもので、カトリック大 工組合の山田さんらが建ててくださった。神の御栄えのために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に 病む身にとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家の名を如己堂 と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」(A234)

○己の如く

「人の守るべき最大のおきてについてイエズスは、
「なんじ心を尽くし、霊を尽くし、意を尽くして、主たるなんじの神を愛すべし。これは最大なる第一のおきてなり。第二もまたこれに似たり。なんじの近き者を己の如く愛すべし」と言った。」(A66)

「各人が孤児を「己の如く愛し」てくだされば、それがいちばん善いのである。なんの工夫も仮装もいらぬ。ただ、自分が他人からしてほしいと思うとおり、孤児にしてやればいい。」(A65)

戦争を計画するな

「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって 叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟にしたがって相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最期の原子野たらしめたまえと。鐘はまだ鳴っている。」(B158)
 我(エゴ)と我の対立が戦争を生むもとです。我は宗教にもあるのは、ご承知のとおりです。宗教の違いはあっても、互いの生命を尊重し、殺人や戦争は決して計画してはならない。
 あのような苦しみは、永井さんたちで終わりにしてほしいというのです。しかし、それはかなえられていない。世界各地で戦争やテロが今も続き、日本では宗教教団が殺人を計画していた。己が殺されるのを嫌がるように、他の人を決して殺さないでほしい。

○上に立つ者が戦争に駆り立てる
「実戦を知らぬ将校が自己の名誉心を満足さすために、何も知らない部下を叱咤して戦場に駆り立てる傾向がありはしないでしょうか。実戦というものは残酷なものですよ。戦争文学を寝ころんで読んでおれば美しく、勇ましくて、俺も一つ出てみようかという気になりますがね。実際は違います。たまたま真実を写生したものは、検閲にかかって発表を止められてきたのです。」(B140)

殉教は、教会がいうような荘厳なものではない(遠藤周作)

 私は宗教者でもなく、宗教研究者ないから、遠藤周作の言葉を参考にしてみたい。

 拷問に耐え切れず、踏み絵を踏んだ者を、教会は、裏切り者と、弾劾する。神は、許すはずだ。それなのに、人間(教会の聖職者)が許さない。現場の実際の苦悩を知らぬ者が。遠藤周作は、こんなテーマで小説を書いた。(『沈黙』)
 永井博士の言葉とは、ちがった問題であるが、現場の悲惨さを知らず、自分は安全な場所で人を危険に追いやることを計画し、命令する指導者の傲慢さ、卑怯さをいう博士の言葉から、遠藤周作の言葉を思い出しました。遠藤周作のキリスト教は、教会絶対のキリスト教とも違うし、開祖や経典の言葉を絶対視する日本仏教とも違っているようです。
「「日暗みて、神殿の幕、中より裂けたり」これが、長い間考えてきた殉教のイメージだった。しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸(ぼろ)と同じように、みすぼらしく、あわれだった。」(遠藤周作『沈黙』154)

「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わしを裁いたようにお前は彼らから追われるだろう。だが教会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするのは・・・」(『沈黙』217)

「あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きしさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。」(『沈黙』222)

歌謡曲『長崎の鐘』

 歌謡曲『長崎の鐘』は永井博士をモデルとして、作られた。  作詞:サトウ・ハチロー 作曲:古関裕而 唄:藤山一郎
一、こよなく晴れた 青空を             三、つぶやく雨の ミサの声
  悲しと思う せつなさよ                 たたえる風の 神の歌
  うねりの波の 人の世に                 かがやく胸の 十字架に
    はかなく生きる 野の花よ               ほほえむ海の 雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の             なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る                   ああ 長崎の鐘が鳴る

永井隆ー参考文献

A.『この子を残して』 永井隆 発行所:サンパウロ
B.『長崎の鐘』    永井隆 発行所:サンパウロ
C.日本テレビ 96年7月21日 知ってるつもり『長崎の鐘・51年目の真実』

 
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