前ページに戻る
禅と日本文化
河井寛次郎の生涯
至誠、無冠の陶芸家
陶芸家、河井寛次郎(かわいかんじろう)。浜田庄司ほどの力量がありながら、人間国宝も文化勲章も受けなかった無冠の陶芸家。「単なる民芸作家ではなく、詩人であり、哲学者であり、宗教にまで高められた信念の人であった。誰からも愛され、親しまれた歓びの人であった」(元朝日新聞社、橋本喜三氏)。
「至誠」とはこの人のことを言う言葉であろう。
幼い頃から陶器
京都に窯を築く
自分の無力を想う河井
世間が認める河井
無冠の一陶工
幼い頃から陶器
- 河井寛次郎は、明治二十三年(一八九〇)島根県安来町にて誕生した。父は大工の棟梁。四人兄妹の次男だった。生家は壊され、今は、生誕地の碑がある。生母ユキは、寛次郎四歳の時、死亡し、継母カタを迎えた。
「小学校の成績は抜群で、特に手工(工作)の点がよかった。手先が器用で絵を描くのが好きだったが、棟梁の父からものつくりのこころを、母からはものを科学的に観察する眼をうけついだのであろう。町外れの山の傾斜に、皿山とよばれていた窯場があった。盆と正月が近づくと、お百姓さんたちは仕事の手を休めてここで茶碗や鉢や土瓶や水甕を作るのである。堆肥を作るように土をこね、ナスビを育てるようにろくろをひき、肥(こえ)をやるように釉がけをする。農と陶が縄のように一つになわれた見事な業を目で学んだ。小さいころからよく皿山に遊びにいって粘土をひねり、ろくろをいじくり廻しているうちに、いつしかやきもの作りを、体で覚えるようになる。」(A40)
- 寛次郎は、中学二年の時、叔父足立健三郎の助言で陶器の道に進むことを決心した。
- 二十歳の時、松江中学を卒業し、東京高等工業学校(現、東京工業大学)窯業科に入学した。在学中、バーナード・リーチ、浜田庄司を知った。
- 大正三年、[二四歳]東京高等工業学校を卒業して京都市立陶磁器試験場に入り、技手として、各種釉薬の研究を行った。大正五年には、浜田庄司が同じ試験場に就職してきて、以後共に研究に励んだ。翌年寛次郎は試験場を辞職し、二年間清水六兵衛(後の六和)の顧問となり、各種の釉薬を作った。この頃浜田とともに、沖縄、九州、朝鮮、満州の諸窯をめぐる旅をした。
京都に窯を築く
- 大正九年、[三十歳]山岡千太郎の好意により、京都市東山区五条坂鐘鋳町の清水六兵衛の窯を譲り受け、住居と工房を設け、陶器を作った。窯は「鐘渓窯」と名づけた。この年、浜田は、リーチに同行して、イギリスへ行き、寛次郎は、宮大工の三上直吉の娘、やす(後、つねと改名)と結婚。
- 大正十年、第一回創作陶磁展を東京、大阪の高島屋で開催したが、この時、河井は批評家から絶賛された。
「河井の奇才は科学に立脚して豊富なる天分を発揮し・・・氏一流の創造を以てしたので全然旧様に泥(なず)まず、新意を出ししかも雅潤、頗(すこぶ)る見るべきものがある」(『東京朝日新聞』A62)
「陶芸史家の第一人者とされていた次郎坊主人こと奥田誠一は、『鐘渓窯第一輯』のはしがきで、「天才は彗星の如く突然現るるものである・・・其閃々たる光芒が吾が芸術界に如何なる光彩を投じて行くであろうかは、吾人の大なる興味と期待とを持つ所である・・・」と絶賛した。」(A63)
自分の無力を想う河井
- しかし、河井の個展と同じ時期に、柳宗悦主催の朝鮮民族美術展が行われていて、それを見て、河井は李朝の陶磁に心を打たれ、自分の陶器に自信を失った。
「創作展と同じ時期に神田の流逸荘で朝鮮民族美術展が開かれていた。柳宗悦が集めた李朝の陶磁器を並べた展観である。無名の職人がのびのびと自由に作ったものだが、巧みな美しさを追わぬどっしりとしたその作域に河井は感動した。会場にはニッカポッカをはいた柳がいたが、その勘の鋭さに驚かされた。田舎育ちでハイカラ嫌いの河井は、言葉を交わす余裕もないほど興奮してしまっていた。
その時の河井のことを浜田は『河井との五十年』の中で、「(会場)にはいったとたんに、一ぺんになぐりつけられたような気がした。今までの自分の仕事というものは、衣裳の勉強であり、お化粧の勉強であった。中身の体はどうしていたか、心がけはどうしていたか。そう思うと、恥ずかしくて李朝の陶器を見ているうちに、その場にいたたまれないような気がした。向こうにいるのが、あれが柳さんんという人だろうとすぐにわかったけれども、とても名乗る勇気もなく、ただくやしくて、帰りの電車に乗っても、高島屋前でうっかり乗り過ごしてしまった。李朝の焼き物から学んだとか、なだとか、そんな生やさしいものではない。とにかく驚いて帰ってきて、それから仕事ができなくなってしまった」と書いている。」(A63)
- しかし、この時、東京高島屋の宣伝部長、川勝堅一を知り、生涯の親交を結んだ。戦争中の一時期を除いて、高島屋は毎年河井の陶磁展を開催してくれた。河井は批評家から「国宝的存在」と絶賛され、名声の高まりに反し、自らの作陶に疑問をいだき煩悶しはじめた。
- 大正十三年、浜田が帰国し、三カ月、河井宅に滞在した。浜田を介して柳宗悦を知った。柳は『禅文化四六号』でご紹介した。民芸運動の理論的主柱になった人で、河井と浜田がその主たる実践者となった。
河井の悩みに対して、浜田は「これからは珍しいや難しいものとかを作るよりも、ただいいものが作りたい、無名の陶工が作った健康で美しい実用陶、それだけですよ」と説いた。(A69)
- 大正十四年[三十五歳]には、第五回陶磁展開催したが、技巧が簡素化した。柳、浜田とともに、和歌山へ木食上人の遺跡をたずね、その旅の中で、民衆の手による工芸を民衆的工芸ととらえ、「民芸」という言葉を創作した。翌年柳、浜田とともに、「日本民芸美術館設立趣意書」を作成し、知人に配り、民芸運動の開始となる。
- 昭和十一年[四十六歳]河井は、棟方志功を自宅に招き、四十日間滞在させ、禅の講義などをして、大きな影響を与えた。
世間が認める河井
- 昭和十二年[四十七歳]パリ万国博覧会に出品された「鉄辰砂草花図壷」がグランプリを受賞した。関係当局の要請にもかかわらず、寛次郎の出品承諾が得られないことを察した川勝が独自の計らいで、自己の所蔵品の中から提供した作品だった。この年、室戸台風で傷んだ旧宅を解体して、新築した。現在の京都五条坂の「河井寛次郎記念館」である。
- 昭和二十年、戦争中、「この世このまま大調和」の精神的大転換(二頁に詳述)を体験した。昭和二十一年高島屋での個展が復活し、以後毎年陶器展が開催される。昭和二十二年には、寛次郎の詞「火の願い」を棟方志功の版画で制作、また「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成した。
無冠の一陶工
- 昭和三十二年[六十七歳]川勝の計らいで出品した昭和十四年作の「白地草花扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞。しかし、河井は喜ばなかった。河井には、無形文化財(人間国宝)、文化勲章の授与の話があったが、彼は辞退した。陶芸では、浜田庄司が著名であるが、浜田を超えるほどの才能がありながら、日本では全く栄誉を受けていない「無冠の陶工」であった。
- 昭和三十六年、大原美術館は、リーチ、富本、浜田、河井の作品を常設展示する陶器館を新設した。この間も、毎年高島屋で作品展を開催した。
- 昭和四十一年(一九六六)[七十六歳]十一月十八日、死去。
前ページに戻る