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禅と日本文化
河井寛次郎の回心
河井寛次郎は、名誉を嫌い、賞や勲章なども辞退して超俗の生き方をしたが、その原点は太平洋戦争中の変革体験にあるようである。いつ空襲があるかもしれない、いつ死ぬかもしれない、という不安の中にあった時、不意に、このままでいいんだ、という安心につつまれた。
精神的大転換
河井は、太平洋戦争中に、精神的大転換をおこした。河井にとっては、娘、須也子さんが、次のようにいう大事件であった。
「今や風前の灯となった京都。これで見納めになるかもしれぬと、遣り場のない沈痛の思いで、父は独り出かけてゆく。其処で、心の裡(うち)に思いもしなかった強い衝撃を受ける事態に出逢うのである。・・・・今まで父が持っていた観念的な人生感や抱いてきた世界観が百八十度がらりと大転換させられ、思惟の大転機となったのである。・・・・
「生死一如」とか「自他合一」の真髄を解らせてくれた「葉っぱと虫」は、父に善智識の公案を与えてくれた天からの贈物であったにちがいない。それからの父は、その後の「生きかた」や「仕事」にも、これが原点となり、すべての原動力となって力強く展開していったものと思う。これを境として、父を悩ませてきた微熱は陰をひそめ、やがて退散していった。」(B268)
長いが、彼が語った原文のすべてを引用する。
「 この世このまま大調和
物の相が他の相に変る時に起る色々な現象は、屡々無残な形で現れる。
木が火になるためには自分を燃やさなければならない。火が堅さに変るためには自分の姿を消さねばならない。米は食われ、魚は殺される。
生き物が生きてゆくために避けられないこういう事の裡には、一体どんな仕組があるのであろうか。その仕組をかいま見た或る人の話−
私の住まっている京都も、何時どんな事になるか判らないようなさし迫った戦時中のある日のことでありました。その頃私は、毎日のように、夕方になると何時焼けるかも知れないこの町に御別れしておこうと思って、清水辺から阿弥陀ケ峰にかけての東山の高みに上っていました。
その日もまた警報がひんぱんに鳴っていました。私は新日吉(ひえ)神社の近くの木立の下のいつも腰掛ける切株に腰掛けて、暮れて行く町を見ていました。明日は再び見る事の出来ないかも知れないこの町を、言いようもない気持で眺めていました。
その時でありました。私は突然一つの思いに打たれたのであります。なあんだ、なあんだ、何という事なのだ。これでいいのではないか。これでいいんだ。これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、それでいいのだ。−それでそのまま調和なのだ。そういう突拍子もない思いが湧き上って来たのであります。そうです。
はっきりと調和という言葉を、私は聞いたのであります。
なんだ、なんだ。これで調和しているのだ。そうなのだ。−と、そういう思いに打たれたのであります。しかも私にはそれがどんな事なのかはっきり解りませんでした。解りませんでしたがしかし、何時この町や自分達がどんな事になるのか判らない不安の中に、何か一抹の安らかな思いが湧き上って来たのであります。私は不安のままで次第に愉しくならざるを得なかったのであります。頭の上で蝉がじんじん鳴いているのです。それも愉しく鳴いているのです。左様なら、左様なら京都。
それからは警報が鳴っても私は不安のままで安心−といったような状態で過ごす事が出来たのでありました。しかし、何故殺す殺されるというような事がそのままでよいのだ。こんな理不尽なことがどうしてこのままでよいのだ。−にも拘わらず「このままでよいのだ」というものが私の心を占めるのです。この二つの相反するものの中に私はいながら、この二つがなわれて縄になるように、一本の縄になわれてゆく自分を見たのであります。
それから一週間程してからでありました。或る日のこと、よく出かける山科へ行こうと思って出かけたのでありました。山科の農家や田圃はいつも愉しくしてくれるのです。道は蛇ケ谷を経て東山の峰を分け、滑石峠にかかって西野山の部落に下りるのです。峠の見晴らしは素晴らしいのです。人々が真に人らしく住まっている暮らしの景色。この峠を少し下った処に、山桐の大木が一本つっ立っています。私はいつもその辺で一休みするのですが、ふと見ますと、この大きな木の葉が悉く虫に食われて丸坊主になっているではありませんか。ぐるりの青々とした松や杉の中に、この木一本が葉脈だけ残ったかさかさの葉をつけて立っているのです。
葉っぱは虫に食われ、虫は葉っぱを食う−見るからにこれは痛ましいものそのものでありました。それにしても、この日はどうした日だったのでありましょう。私は見るなりに気付いた事でありましたが、痛ましいというその思いの中に、これ迄かつて思った事もない思いが頭を擡げたのでありました。葉っぱが虫に食われ、虫が葉っぱを食う。−これ迄はこうより他に見えなかった事が、今日という今日はどういう日だったのでりましょう。
葉っぱが虫に食われ、虫が葉っぱを食っているにも拘わらず、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている−そういう事をその時はっきり見たのであります。食う食われるというような痛ましい現象が、そのままの姿で養い養われるという現象であるというのは、抑々これは何として事なのでありましょう。
この間中からむらむらしていた事が、これでよいのだ、これで結構調和しているのだというような、しかしつきつめると何故そうなのだか解らなかった事が、ここではっきり正体を現わしたのであります。不安のままで安心。さてはそうなのか、そうだったのか。米や魚がものを作ったり、豚や牛が考えたり、書いたりしないと誰が言えるでしょう。
蝶が飛んでいる。葉っぱが飛んでいる。
暮れる迄山科の村々を私は歩き廻っていました。」(Bc242)
これだけからは、判断しにくいが、後でみる河井の自他一如的な言葉や、至誠の生き様を見ると、禅者が体験する「見性」をしているように思われる。前者が、見性体験であり、後者は、後得智を得た体験であろうか。鈴木大拙も、何段階の深まりがあったように。とにかく、河井は、論理的理解ではない「安心」を得たようで、同じものをみても誰でも彼と同じ回心がおこるわけではない。知識、理解によらないで得た「安心」は、人生感に大転換をきたし、知識での理解と違って、その後、微動だにしない。
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