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禅と日本文化
栄誉を辞退
仕事において自分のはたす役割はごく小さく、しかも仕事の真っ最中には、自分が完全に忘れ去られている。仕事は、自然の摂理と伝統と社会の仕組みなどの重々無尽の恩恵のおかげで仕上がっていく。自分の力は全く小さい。河井は、作品に自分の名を入れないようになる。
自己を脱落した河井は、賞をもらうこともしなくなる。住む精神世界が違うから、人間国宝というレッテルや文化勲章を「自分」がもらうという欲がない。
グランプリ受賞を喜ばない
「河井は、三十二年に「白地草花絵扁壷」(昭和十四年作)でミラノのトリエンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞した。(中略)十二年のパリ万国博のグランプリ受賞作と同様、川勝堅一が自己蔵品の中から出品していたのであった。受賞の喜びを聞くために陶房を訪ねると、河井はいつになく不機嫌で、「その栄誉は作品がもらったもので、私がもらったものではないですよ。私の作品というのもおこがましい」と一こと語ったきりであった。」(A139)
立派な額に入れた賞状が届く。
「日本の伝統的な仕事が外国の人に喜ばれるのは、河井にもうれしいが、自分が無心に作ったものへの賞状などみるのも恥ずかしい。新聞紙にくるんで押し入れのふとんの奥にそっとかくしてしまった。名誉ぎらいの潔癖な創造者であった。」(A140)
文化勲章を辞退
「松下幸之助が文化勲章の選考委員だったとき、受賞の申請書を書いて欲しいと使いのものを寄こした。河井は手土産にもらったトランジスタラジオをとても喜び、「ご趣旨はたいへんありがたいが、このラジオこそ勲章を貰うべきで私の仕事なんか恥ずかしいものですよ」といってその推薦を断った。
「一番うれしいことは仕事に精出すこと、一番きらいなのは、無形文化財とか名誉賞の話、これなどは頭からふとんをかぶって寝込みたいくらい」という。」(A177)
人間国宝を辞退
「河井にも当然に(人間国宝の)指定の話があったが断った。「われわれの仕事は個人ではなく、みんなの協力でやっているが、地方にゆけば名前は知られていなくても、自分なんかよりうんと立派な腕を持って宝物を作っている方がまだまだおられる。その方たちが先で自分の順番はまだこないんだよ。それに人間を国宝と呼ぶなどナンセンスだし、民芸の仲間がもらうのはちょっとおかしいな」と親しい友人に話している。」(A138)
自己を脱落した河井にとって、作品は自分の力で作ったものではなく、他力が作ってくれたからである。しかし、作品そのものは他力の作ったものだから、それを人々が喜ぶのは嬉しい。ものは仏のもの、自分は何もやっていない、自分はほめられるいわれはない。芸術家は超俗の人が多いが、河井は無我に徹した希有な芸術家である。世間に有名であっても、真善美を見る眼もなく、人格的にくだらない人も多い。そんな世間の賞賛などあてにならぬ。河井は俗世間にほめられて喜ぶ人ではない。住む世界が違う。一方、世の中には社会のために大事をなして、世間から認められていない人が多い。道元禅師、良寛さま、宮沢賢治なども認められなかった。程度の低い俗世に認められなくても、奥底の魂に照らして恥ずかしくない生き方をしていればいい。世間に知られずして、しかし自分の役割をちゃんとはたしていく無名の大勢の民衆。その人たちこそ、おごらず、つつましく、誠実であるから、背後の大きなものが見守っている。
無位無冠
「借りている生命を、なん等かのかたちで、人々や物の恩恵に応えようとした父だと思わないではいられないのである。もらった生命を思いきり使わせてもらい、初心の志を奉じ、無我夢中で仕事に励み、無位無冠のまま、寸刻を惜しみ「ものつくり」に喜々といそしみ、ときに不合理や不条理さえ大調和の世界と観じ、仕事に仕え、常に歓びを人と共に分ち、ひたすら美の発見に全生命を捧げやまなかった。」(B270)
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