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禅と日本文化

自己を脱落

 竹村筑波大学教授が、「真理には階層性」があるということを大乗仏教では教えていた、ということをご紹介する。河井も『いのちの窓』の序文で、これと同じことを言う。人間は、物を見て、言葉を読んで、みな、一人一人違った解釈をする。

読む人のもの

 河井の著書『いのちの窓』は、詩集のようである。詩のように短い言葉が書かれている。その最初に次の序文がついている。

「此等の言葉はすべて読まれる人の言葉であって、自分の言葉ではない。自分の言葉でありようがない。それと言葉の中に出て来る自分というのは人と同意義であって、この間に何ものをもさしはさむ事は出来ない。もしか間違ったものがあるならば、それこそ自分であって人ではない。」(Ba188)

 物の見方は、およそ、二つに大別できる。世俗的、二元的見方を持つ人が理解できる見方と、世俗的な見方、二元的な見方でない、仏、菩薩が理解できる見方。河井が書いた言葉は、後者なのであるが、読む人は多分、前者の見方で解釈する。すなわち、もう読まれた言葉は、河井の言葉ではない。読む人の言葉になる。仏教経典もそうである。竹村教授が言うように、現在、仏教経典に深い真理を読める学者と僧侶は少ない。
 大切なのは、言葉の表現の前の事実が何であるかだ。河井の言葉を読んで感動するか、しないか。どう解釈するか、言葉の前の事実を河井がどうつかまえたのか、それを見抜くのは、読む人次第だ。
 生まれた時から井戸の中に住む蛙は、大海があることを予想もできない。この地上は、仏の眼からみれば、一真実の世界、極楽世界であるが、人間の眼では、一人一人別々な世界を描いている。
 河井の言葉は、種々の読みを許す一種の経典である。人間の深い真実を書いている。だから、この序文のようなことを書いている。浅い真理と深い真理との間には、超えることが難しい眼に見えない壁がある。仏教学者の知性でも容易に超えられない壁が。そして、学のない素朴なチューラパンタカ(釈尊の弟子で頭が悪かったという人)の実践で簡単に超えられた壁が。

自己を脱落

「 私は病気で寝ています。
  私は病気をしていません。
  病気が病気をしています。
  病気のことは病気にまかせ
  病気の病気わしゃ知らん」(Ba203)

 戦争中に自己を脱落した河井は自分の生死を問題にしていない。「私が」病気だというが、「私」って何だ。「身体か」。「私は病気をしていない」とすると、私は身体ではない。そうすると「私は何か」。「私」が病気でないのなら、病気のことは病気にまかせておいて、私はしたい事をする。「私はもうすぐ死ぬかもしれない?」という人には、河井は言うだろう。「私は病気をしていません。私は死のことをしりません。死のことなんか死にまかせておいて、私はしたいことをする」

仕事をするのは

 自己を脱落した河井は、仕事になりきる。

「 仕事が仕事をしている仕事する自分。される仕事。するものもされるものもない仕事。仕事は仕事を吸い込み、仕事を吐き出す。」    (Bb228、Bb212)

「 はだかはたらく 仕事すっぱだか」(Ba197)

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