前ページに戻る
禅と日本文化
第二の世界、第二の自分
第二の世界を見た
第二の自分
人はみな同じ底辺を持つ
永遠のいのちを見る河井
汝と我
第二の世界、第二の自分
河井寛次郎は、人間の根源的なものを見た。たいていの人は、人は様ざまで、違う人間だと思っている。しかし、河井は、人間は同じ底辺を持っていると言っている。人は、平等だとは常識的に言う。しかし、どのように平等だとはっきり言えるか。
第二の世界を見た
河井は、絶対の「此処」は「第二の世界」を見たのだ。同じ、この世界が違って見える。本当は、すべての人がそんな世界にいるのだが、心のあるスイッチが働かないので、見えないのだ。「此処」をどのように作るか我々にゆだねられている。「現実の裏にこんな世界がくっついているとは」という驚き。人はみな誰でもそれを見ることができるのに。
「人は現実の中に非実を見る。そしてあり得べからざるものをあり得させる。吾等は模様と言われる世界にそんな国土の一つを作る。
此処という此処はどんな事でも出来る処。出来ないもののない処だ。幻や夢ばかりではない。あらゆる人の思いが形を持つ事の出来る処だ。例えば一つの枝からどんな違った花でも咲かせる事が出来る処だ。同じ枝に花と実とがくっついてびっくりしあっている事さえ出来る処だ。此処は白を黒に出来、赤が青だと言える処。そしてそれが決して嘘ではない処なのだ。どんなものでも思いのままに曲げたり延ばしたり縮めたりして、しかも第二の生命を作る事が出来る此処は場所なのだ。
此処ではあらゆるものが現実の世界にいた時の姿とは凡そ別な形に作り直され、新しい生命を附与される。そういう此処は場所なのだ。
此処はすべてのものをそのままでは見ない処なのだ。眼に見たそのままのものは悉く拒絶する処なのだ。心が見たものでなくては、受け入れない処なのだ。あらゆるものの中から精を見、魂を見ようとだけする処なのだ。
模様は人にだけしか作れない精神なのだ。模様は人にだけしか持てない悲願なのだ。
模様の国という国は、あらゆるものが愛と美とをしか出せない処なのだ。汚れたものや、醜いものは一切出せない処なのだ。すべてのものが幸福にしかなれない処なのだ。そういう此処は第二の世界なのだ。
現実の裏にこんな世界がくっついているとは、これはまた何とした事なのだろう。この国には時もない。処もない。そんなものに縛られる何物もない。そういうもので裏付けられている現実は、また何という愉しい処なのだろう。何という生き甲斐のある処なのだろう。」(Bc246)
第二の自分
「第二の生命を作る事が出来る此処は場所」。「ここ」を見れば、従来の自分ではなくて、もう一つの自分に生まれ変わる。第二の生命を得る。仏である自己、という「第二の自分」。「なあんだ、このまままでいいのだ。」という絶対の安心が生まれる。神にも仏にも宗教者にも頼らない。
「人は皆自分である以前の自分を−誰にも与えられているこの自分を持つ。これこそ病む事のない自分。苦しむ事のない自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代わりに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自分。行かなくても到り得ている自分。」(Bc226)
「自分でない自分
第二の自分
人は二つの自分を持つ。---にも拘わらず、第一の自分しか認めようとはしない。二つなんか持っていないと思っている。にも拘わらず、二つを持つ。---自分だと思っている自分と、自分でない自分とを。」(Bc237)
人はみな同じ底辺を持つ
人はみな(これを読んでいるあなたも)、世界を自己とし、永遠のいのちを自己とする存在である。自己の根底に自己を超えたものを持つ。それを河井は「同じ底辺」という。それを持つから、すべての人は「本来仏)という。観音である。しかし、そうであるのに、表面は何と多種多様なのであろうか。すべてのものが、この底辺にささえられている。しかし、また、自分や他人が「観音」や「仏」であることを知らず、ただの人間や動物だとしか思えないのは何と悲しいことだろうか。河井はすべての人の根底に仏性、同じ底辺のあることを発見した。
「 同じ底辺を持った無数の三角形
−人間
それぞれ違った角度を持ったこれらの無数の三角形。鈍角、鋭角、等辺、不等辺。どうしてこれだけの差があるのかと驚かされる差。
類似はあっても、微塵の同一のないこの差異。しかし、微塵の差異もない同一の底辺に支えられたこの差異。」(Bc239、Ba205)
俗の世界から出て、新しい世界
「 出て見れば
何もない代わりに 何もある
空が破れて のぼる処がない
底が抜けて 落ちて行く処がない」 (Ba196)
「 はてしない土地
新しい世界
−身体」 (Bb219)
河井の悟りの境地。俗世から絶対無の世界に出た。絶対無から、すべてが生じる。そこが見えれば、じたばたして昇る必要もなく、落ちるところもない。絶対の安心。河井は、世俗の賞や名誉を求めなかった理由もここにあろう。住む精神世界のレベルが違っていたのだ。しかし、それでいて、世俗的な家庭生活を営み、世俗的な目でみても超一流の陶器を作った。世俗を出て、世俗へ戻る。世俗にあって世俗に染まらない。
永遠のいのちを見る河井
人間の本然の姿、「第二の自分」について、河井は様々に言っている。
皆さんの自由な解釈にゆだねるのがよいであろうから、解説は最低にしておきます。
自己の根底に何か
自分の根底に、自我ではないが、この自己を離れては存在しない何かがある。時間も場所も超えた永遠のもの。それは自分と一つ。検査係。
「我々は失望しないでよい。ここに一人の真の検査係がいるから。それは世の中には優れたものより存在しないという検査係が。」(B53)
「無数のつっかい棒でささえられている生命 時間の上を歩いている生命」
「この世へお客様に招かれて来ている吾等」(A166)
「 自分は過去を無限の過去を生きて来た
自分は未来を無限の未来を見るものだ
死ぬ事はきまっている。死なない事もきまっている。自分は祖父だ。自分は孫だ。自分に生きている先祖。自分に生きている子孫。自分は未来だ。自分は過去だ。」(Bc237)
世界を創造する自己
河井が「第二の自分」の自分と言う、人間の本然の姿。この自分は、永遠の生命そのもの、空間、場所を超越したもの、宇宙大のもの。山川も自分の創造したもの、他人も自己の一部、自己の創造、表現。
「 人木に登れば よき景色作る」 (Ba198)
「 何という大きな眼
この景色入れている眼 」
どちらが大きくてどちらが小さいのだろう。」(Bc234)
「 すべてのものは 自分の表現
ものは向うにある。確かに今向こうに見える。そもそもこれは何ものであろう。無数のものが向うにある。見える限りの向うにある。
そもそもこれは何ものであろう。これはこれ、ものはものだけとしてあるのであろうか。それはそれとして独立した別個のものであるのだろうか。こんなものが自分以外の何ものかを現わしているとしたならば、一体このものは何であろうか。(中略)
人は縛られてなんかいない。かって縛られた事があったであろうか。縛られていると思うならば、それは縛っている自分自身なのだ。人は昔から解放されている。今更何に解放されるのだ。」(Bc223)
「これ」は何だろう。あなたの眼の前にあるものをさしているのである。禅の師匠が眼の前のものを指さして「これは何ですか」とたずねる。河井も、そこを問うている。
最後の段落「人は縛られてなんかーー」は、人間は本来、仏だと言っているのである。これがわかっているから、本来、宗教は不要なのである。それを知らない人は、自分に縛られ、他人に縛られる。宗教に縛られる。
汝と我
「 私はあなた
私以外に見えないあなた
他人という言葉がある。人は自分からすれば別の人だといえる。そうだ、それにちがいない。しかし自分で現わしていない人というものがあるであろうか。」(Bc229)
「あなた」は、個か超個か。
「 自分で作っている自分
自分で選んでいる自分
自分で自分を規定している自分。自分をそれだけの自分だと限定している自分。自分というのは自分が作っている場所の謂(いい)なのだ。だからこそ作り放題の場所。どんなにでも作れる場所。
ない場所に立っているない自分。これ以外に吾等の場所が何処にあるのであろうか。どんな自分を作ろう。どんな自分を選ぼう。
人は皆自分である以前の自分を−誰にも与えられているこの自分を持つ。これこそ病む事のない自分。苦しむ事のない自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代りに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自分。行かなくても到り得ている自分。」(Bc226)
「ない自分」は、無我の我。本当の自分。人はみな、不生不滅、不老不死、不迷、不病、不垢不浄の自己を根底に持つ。それを、仏教経典では「父母未生前、本来の面目」「仏性」「仏」「阿弥陀仏」「観音」「経」「塔」というから、読む時、それがわかっていないと、経典をとんでもない解釈をしてしまう。人はみな仏であるが、そんな自己であることを知らないで、自分を小さく縛って、苦悩する。それも自分が選んだもの。そう河井は言う。
自己は灯火
どんな闇の世の中であっても、人間がそこにいるということは、そこに世界があるのである。暖かいこころがある。こころが世界に穴をあけている。闇夜に、暖かい穴をあけている。宇宙に突き刺している自分。不思議な人間の存在。
「 灯が一つ 大きな闇に穴あけている」(Ba193)
「 土の中から世の中へ
突き刺している筍」 (たけのこ) (Ba197)
前ページに戻る