もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

   
禅と文学

川端康成

『雪国』

 ノーベル賞作家の川端康成の作品には、禅の心が秘められています。多くの作品がそうですが、セミナーで『千羽鶴』と『雪国』をとりあげて、その中から禅の心をさぐりました。もう一つの読み方です。セミナーでは、二十ページにわたる解説資料を用いましたのを短く圧縮して要点だけご紹介します。

参考文献

「   」は、川端の小説、川端の随筆からの引用

『雪国』

 『雪国』は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」有名な次の文で始まる。妻子ある無為徒食の東京の男島村と雪国の芸者駒子との愛の物語りであるが、底にやはり禅が秘められている。スペースがないので、問題点だけご紹介します。

駒子は清潔な女性

 芸者駒子について島村の口から「清潔」という言葉がしばしば出てくる。これに幻惑されて、読者は駒子を清潔で、愛情がふかい女性だと感じてしまい男性の願望する女性と見てしまう。それが川端の仕組んだものである。色眼鏡をかけて、ゆがんで見てしまう人間の弱さを証明している。たとえば、次のように駒子を美化した見方がある。

「『雪国』の女達は男性願望の結像であって現実とのかかわりは薄い。生前川端が駒子はお化けだといったという話があるが、願望というのはお化けと同じことである。川端は内部に空洞を持った世の男性がこういう女がしたらいいだろうなあという夢の世界を造った。」 (C『川端康成論』鶴田ブリティッシュコロンビア大学教授、90頁)

 島村が連発する「清潔」に幻惑され、読者の目がくらまされて、駒子を浄化した。人間は大勢の者があの人は偉い、と繰り返し言っているのを聞くと、いつのまにか、えらい、と思い込んでしまう。川端は、そのような人間心理の弱さをねらった。お化けを作る。読者はそれにまんまとひっかかる。

本当に願望の女性か

 しかし、色眼鏡をとって冷静に見ると、駒子は、必ずしも男性(常識的な?)が願望するような女性ではない側面もある。

実践しない批評家

 注意深く読むと、島村は、いい加減な批評家であることがわかる。口ばかりの人間である。他人のことは批判するが自分では何もできない人間である。小説を書けないのに、小説家を批評する批評家。自分では絵を描けないのに、画家を批判する評論家。川端は、評論家から自分の小説が理解されないとこぼしている。漱石や賢治や川端が批判する文化人の典型のような人間が島村である。そんな男に熱をあげる駒子の愛が客観的には美しいわけがない。主人公の島村はそんな人間であるが、川端康成がこの島村を本当は肯定していないのに、それを見落として島村を肯定的に読み取る評論家がいる。その誤解をおかすのは、川端がこの小説を島村の目で進行させていっているからである。つまり、この『雪国』は島村の色眼鏡(しかも真実を見る目がない)をとおして描かれている。

禅の世界の影

 川端が、「ほのめかし」や「ぼかし」ているために、知らない人には全く見えない世界として、この『雪国』には、一種の禅の世界が隠されていると思われる。この小説は島村の目で書かれているので、島村がわからないところはわからないように書かれている。禅の世界に触れていながら、見えていないところを二、三あげる。
 まず、禅寺が、この温泉場の近くにあると、ほのめかされているのだが、島村には禅寺だとはわからない。ちじみの里のさらに奥に「尼寺」があり、そこの尼僧は托鉢している、ということだけが島村に見えている。
 「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな。」などと島村はいう。托鉢するのは、禅寺であることを島村は知らない。読者も知らないだろう。「幾月も雪のなかでするのは坐禅である。尼寺がそう遠くないところにあるので、行男、駒子、葉子は坐禅の修行ができる可能性がある。駒子と葉子は、一人の男性行男に尽くす。もし、彼らが禅をしているのならば、この三人の奇妙な行動は解明される。

良寛の影

 もう一つの理由は、川端が称賛する禅僧、良寛の影が多いことである。良寛は、越後の港町の生まれで、一度故郷を出たが、後に帰ってきて、腸の病気で死んだ。その看病をしたのは、愛人でもなく、肉親でもなかった弟子の貞心尼であった。
 行男は、港町で生まれて東京へ出たが、腸結核となった。駒子は芸者になって療養費を送った。葉子は行男が死ぬまで看病した。行男は良寛とそっくりである。もみじ、てまり、てまり歌、子供と遊ぶ葉子、駒子が『雪国』に出てくるが、良寛とかかわりがある。しかし、行男が禅の指導者であるということは最後まで隠されている。これをいう評論家もいない。

日記

 駒子は、ずっと日記をつけている。批評家は、現代人らしい几帳面さと見ている。駒子の日記は行男に始まり、行男に終る。なぜか?

「ええ、でも、別れ別れに暮らして来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた。   一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ。」
「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう。」と駒子はつぶやくうちになぜか頬が染まって来て、
 「ねえ、あんた素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど。」

 行男が死のうとする時の言葉である。なぜ、もうつけられない、というのか。島村に日記を「あげる」と言わないで、「送る」と言ったのはなぜか。ここで私が思い出したのは、森田療法の「日記」である。
 行男は駒子の禅の先生であり、二人は遠く離れることが多かったので、駒子は森田療法のように、自分の感じることを日記に書いて、行男に送り、郵便で禅の指導を受けていた。島村に「日記を送る」と言ったのは、その習慣がつい言葉に出たものであろう。行男の死で参禅できなくなる。もう日記はつける意味がない。まだ日記の指導を受けていたとすれば、駒子は参禅していたがまだ悟りを得ていなかった。葉子はというと、禅では駒子より進んでいると思われる。『出家とその弟子』で知られる作家倉田百三が森田療法で治ったことは有名であり、川端は、日記指導を倉田の作品をとおして知ったのだろう。禅の指導を郵便で受けた例も実際ある(見性は、直に会って確認するが)。禅の日記指導が島村に知り得ない事実であったと思う。

指を立てる

 島村が指を立てる仕草をしている。変な行為を示したのに、駒子は驚かないし、意味も聞かない。ということはこのような行為に慣れていたのであろう。禅の指導者がいて、そのような行為を示したことがあったから、「ふん。わかっているわ。」という気持ちであろう。指を立てるのは、中国の倶抵和尚が、指だけで坐禅を指導したことから来ており、禅を研究した川端には常識であった。道元禅師が如浄禅師に初めてあった時、指を示されたが、禅ではよくある指導法である。ここを、たいていの人は、島村の卑猥さだけを読むであろう。(参照:拙著『道元禅師』60頁。)

「「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と人差指だけ伸ばした左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。」

天の河

 『雪国』には、禅を行じた芭蕉も、島村が自然と合一する体験も出てくる。自然とひとつになる、というのは禅の悟りである。無我であるから、自然と自分が一つになるのである(二つがあってということではない)。川端は『千羽鶴』で文子の自然との合一体験を書いていたが、『雪国』では、島村の天の河との合一体験が描かれている。

 「「天の河。きれいねえ。」  駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。  ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬(すく)い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶(なま)めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。」
 「踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」

 島村は天の河と一つになった。芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天のがわ」と同様の体験を描いている。この体験によって、島村の生き方がどのように変容をとげるかは続編に書くつもりだったのだろう。しかし、『雪国』は未完であって、その後のことは書かれていない。

墓参りする葉子

 葉子は、行男の死んだ後、毎日墓参りする。島村や一般の読者は、葉子がつくした男は死んだ後も、毎日墓参して、恋人を愛しているように受けとめられる。批評家も次のように言う。

 「葉子の献身の対象であった。」「しかも、その献身の結果は「無」である。相手は重病人であり、死ぬ人である。死んだ後までも、毎日墓参を欠かさない。一生墓を守って、他の男を振り向こうとしない。しかし、もしかすると駒子を相手が心の底で愛していたかもしれないのだ。」(B90)

 これは、何もかもすべてが「唯一人」という本来の自己に参じているのならば、話が通じる。死んだ後も毎日墓参とは、死後もかわらず、毎日、自己に参禅ということに解釈できる。川端の短編小説『岩に菊』に参考になる言葉がある。どこもかしこも墓である。墓は、仏塔である。

「この世界に花が咲き、岩がそびえてゐるならば、私の墓などつくるに及ばない。この天地自然のすべても、故郷の女の昔話も、みんな私の墓のやうなものであろう。」

気違いじみた葉子

 駒子や町の人は、葉子を普通の人間ではない、つまり、気違いじみていると見ている。島村もそう思い始めた。これは、夏目漱石の『草枕』の那美と似ている。葉子の禅がすすんでいて、駒子や島村が葉子の禅的言動や試しを理解できないためであろう。
 普段葉子は無口であるが、終り近くに、島村と長い会話をする場面がある。しかし、島村は葉子と会話するがかみあわない。一般読者も葉子の頭がおかしいと思うだろうが、葉子は島村をからかっている、あるいは試していると思われる。禅がわからない人からは、気違いじみて見えるのは、すぐれた禅者にはよく見られる。人がくだらないことにとらわれているのを気がつかせようとして、あえて変った行動(試し)をしたり、ふつうの人がこだわることにこだわらないところが変人に見えたりするであろう。一休、良寛も知らない一般人には気違いじみてみられた。夏目漱石の『草枕』の那美も村人からは頭がおかしいと思われていたが、村人を試しているのであり、禅僧からはすぐれた参禅者だという評価があった。しかし、『雪国』の島村と葉子の会話の場面で読者は、葉子がおかしいと思い込むであろう。そのように川端は仕組んだ。
 葉子について、鶴田教授は次のように言う。

「人間が生きて行こうとするとき、そこには我(エゴ)というものが当然ある。食べ、成長し、生殖し、自我をできうるかぎり保存し、拡張していこうとする生命力である。葉子にはそういう自己保存本能が全く欠落している。純粋に相手のことのみ考え、自分のことなどはどうでもいい人間である。若く、美しく、清らかで、無限に愛を注いでくれる女性、それが葉子である。一言でいうとそういう女性はこの世の中にはいるわけがないのであって、それは菩薩にほかならない。普通の人間ではないのであるから、葉子もところどごころ気違いじみて描かれているのである。逆説的にいえば行男は葉子菩薩存在を支える大切な柱である。」(C90)

 この鶴田氏の観察には敬服するが、「我」「菩薩」「気違いじみて」の解釈には誤解がある。我、無我がどういうことか、今までに随分見てきたから省略する。菩薩、仏教者が命をそまつにするわけではない。自分で造ったものではない生命、仏であるから大切にする。
 「そういう女性はこの世の中にはいるわけがない」というのは、悲しい人間不信である。雪国越後には、良寛に「貞心尼」という女性がいた。貞心尼は良寛が死ぬまで看病した。一休は、自分の禅の師匠を死ぬまで看病している。現代でも、宗教の世界には、肉親でもなく、夫婦でもない弟子が師匠につくすのはざらにある話であり、禅の師匠を尊敬する私もその心情はよくわかる。真剣な禅の弟子は、師匠に献身の看護を容易にすると思う。カルト宗教の教祖に対する信者の献身もある。宗教世界には、常識を超えた献身がある。
 駒子も葉子も行男の参禅の弟子だったかもしれない。それならば葉子の自然の無償の行為と、駒子の努める無償の行為の意味が解読される。
 駒子は神経症気味であるから、参禅の動機は十分あった。そして、雪国は良寛さまの故郷であり、禅寺があり、禅が生きている場所であった。行男はいつ禅を身につけたか、わからないように生涯がぼかされている。

葉子は無我の人

 葉子と駒子は、行男に禅の指導を受けていた。無我を実践していた。葉子は、禅が相当すすんでいた。駒子は、まだかなり遅れていた。以上が、私に見える『雪国』のもう一つの世界である。

川端は読者をためす

 皆さんは信じられないかもしれません。『雪国』には面白いところがまだあります。川端は、小説の至るところに、何か意図して埋め込むのです。伏線、暗喩。そんなところを発見して、同じように見える人と語り合いたいものです。
 川端康成は、小説の中でも、小説の外(小説の外で語る言葉)でも読者を試そうとしている。つまり、川端が随筆などで、自己の作品について論評しているのも、ただ受け取ってはだまされる。川端は、人の見えない世界が見える。見て見えない世界がある。
 経典も、途方もない話で書かれていて、読者をためそうとして書かれている。川端の小説を読む時「川端さん。ここは、こう読めばいいのでしょう? しかし、まあ、うまく、隠したものですね。」と川端と語りながら、読むことができる。そういう楽しさがある小説である。仏典である。これは、川端の小説は、類のない小説である。夏目漱石、岡本かの子にもそれがある。
   
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