もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と文学
川端康成
「千羽鶴」
ノーベル賞作家の川端康成の作品には、禅の心が秘められています。多くの作品がそうですが、セミナーで『千羽鶴』と『雪国』をとりあげて、その中から禅の心をさぐりました。セミナーでは、二十ページにわたる解説資料を用いましたのを短く圧縮して要点だけご紹介します。
参考文献
- A『一草一花』講談社文芸文庫 『美しい日本の私』1968。
- B『国文学解釈と鑑賞』(川端康成の世界) 1991年9月号。至文堂。
- C『川端康成論』鶴田欣也(ブリティッシュコロンビア大教授)
明治書院 昭和63年3月
- D『川端康成研究』今村潤子(尚絅大学助教授) 審美社 1988年5月
- L『雪国』 新潮文庫
- T『千羽鶴』 新潮文庫 『波千鳥』を含む。
「 」は、川端の小説、川端の随筆からの引用
『千羽鶴』は、『千羽鶴』『森の夕日』『絵志野』『母の口紅』『二重星』『波千鳥』『旅の別離』『新家庭』の八章から成る。
『千羽鶴』
『千羽鶴』の重要な点は、主人公菊治が、性的不能という神経症になっていく素質と日常の感情と発症する契機、もうひとつは兄とも慕っていた菊治に犯されて自殺したくなるほどの痛手を負った文子のはからいによる油断と、苦悩から救われていく過程です。
我執の茶匠ちか子
三谷菊治は鎌倉円覚寺の茶会で、千羽鶴の風呂敷を持ったゆき子にあった。それは、ちか子が開催した茶会で、菊治とゆき子の見合いを仕組んだものだった。ちか子は彼の父の茶道の弟子であったが、一時ちか子とも関係を持った。ちか子は菊治の父を利用して茶の師匠として成功した。
菊治は、小さい頃、ちか子の胸に黒い大きなあざがあるのを見てしまった。「あの大きいあざに毛の生えた乳を呑んだ子は、なにか悪魔の恐ろしさを持ってゐそうに」思えて、おびえた。菊治は浮気する父を憎み、菊治は何かあるとちか子を思い出し、不安をおぼえ、ちか子を憎むたびに、胸のあざを思い出す。あざは、他の人間を傷つける「我執」の象徴であろう。それを茶の先生が持っている。ちか子は、他者を苦しめる利己的、我利の「我愛」の人間の典型として描かれている。それが茶の先生であるところに川端の茶道批判がある。
菊治のあやまち
鎌倉の茶会に、太田夫人とその娘文子も来た。太田夫人の夫と菊治の父は茶道の友人であったが、太田の死亡後、菊治の父は太田夫人を愛人にした。
太田夫人は成人した菊治にしばらくぶりにあって喜び、茶会の帰り、太田夫人と菊治は関係を持ってしまった。その後、菊治のうちの茶室でも、そういうことがあって、その夜、夫人は自殺した。夫人の初七日の翌日、菊治は文子を訪れ、夫人に似た文子にも好意を持つ。文子は母の形見の口紅に色がついたような志野の茶碗を菊治に与える。
夏休みから帰った日、ちか子から文子もゆき子も結婚したと聞くが、後に文子から電話があって、ちか子の嘘であることを知る。それがきっかけで、菊治は文子とあい、菊治のうちの茶室で関係を持つ。その直後、文子は母の形見の志野の茶碗を割ってしまった。翌日、文子は菊治にいわず、旅に出た。
菊治は文子をさがしたが行方がわからなかった。秋になって、文子から菊治に手紙が来た。別れの手紙だった。それから、1年半、菊治はゆき子と結婚した。菊治は過去の思い出がよみがえり、ゆき子に触れることができなかった。
菊治の性的不能
菊治が、不能に陥った結果は、別にご紹介した(1)。神経症はヒポコンドリー素質(2)と日常の感情体験の繰り返しという準備期間を経て、ある出来事をきっかけとして発症する。彼はヒポコンドリー素質の男であって、ちか子という身近い女性に不安や憎しみを持つことから、神経症発症の準備状態にあった。大田母子を苦しめたことから、後悔の念をしばしば起こした。そして、ゆき子と結婚した時、性的不能が発症した。これは精神的なこだわりから起こる一種の神経症(ノイローゼ)である。また、菊治は我(自分勝手な基準)が強く、不安や怒りをしばしば起こす。他人が悪いと思って他人を責めたり、比較、連想、妄想する傾向がある。太田夫人、文子、ゆき子、三人とも、外面は、美しいが、内面は大きく違っている。結果として他人が不幸になるかもしれないことを考えず、外面の美しさだけで自分の欲望にまかせる菊治であった。
(注1)「精神医学と禅」神経症と坐禅
(注2)神経症になりやすい性格。「精神医学と禅」森田療法-(02)をご覧下さい。
愛の美しさを描いた?
このように、菊治の考え方、生き方を、川端は称賛しているのではないのだが、批評家の中には川端の意図を理解せず、おかしな美学をふりまわす説がみられる。川端が「私は比較的理解されない作家である。」と言うのはこういうところをさすのであろう。 批評家は、菊治が茶道の茶碗や水指しの美しさを太田夫人や文子にダブラせる様子を川端(実は菊治の連想、妄想)がしばしば描いているのを、菊治を美の理解者のごとく、また、川端が芸術品の永遠性を賛美するかのように解説する。
たとえば、問題となる次の文章が、『千羽鶴』の中にある。
「冷たくて暖かいように艶(えん)な志野の肌は、そのまま太田夫人を菊治に思わせる。しかし、そこに罪という暗さも醜さもともなわないのは、水指が名品のせいもあろう。名品の形見を見るうちに、菊治はなお太田夫人が、女の最高品であったと感じて来る。名品には汚濁がない。」
「自分の父と文子の母とを、二つの茶碗に見ると、菊治は美しい魂の姿をならべたように思える。しかも、茶碗の姿は現実なので、茶碗をなかにして向かい合っている、自分と文子との現実も無垢のように思える。」(以上、『二重星』三)
この文章を引用して、今村尚絅大学助教授は、こういう。(D『川端康成研究』審美社)
「川端は何百年もの伝統によって生み出された美術品と太田夫人を同格と見ることによって夫人の罪を浄化しようとした。即ち、命あるものの美を永遠の生命を持つ芸術品と等価とみることによって、はかなく、もろい美を永遠のものに定着させたのである。」 「菊治、即ち川端は菊治と文子の罪も茶道具によって清めようとしているのである。母娘二代にわたり魔性に生きた女の性(さが)に女の生命の燃焼をみて、それを美に昇華している。」(D139頁)
これは川端がいうように川端の真意ではないと思う。先の小説の文は、菊治の美学であって、川端の美学ではない。菊治と川端を一つに混同すると、この小説の主題も大きく変わると思われる。
この小説では、菊治には救いがない。菊治の行動や美の思想では役にたたず、自分も身近な人も不幸にしていく。川端は、菊治が性的不能になることによって、菊治のこのような連想、妄想を否定しているではないか。この美の昇華が誤りであると菊治も気がついて、茶碗を売り飛ばす。菊治の発症前の美の思想を、川端の思想と思ってはだめであろう。混乱をすると川端が小説は宗教の役割をすべきだという理想が実現しない。
菊治の性的不能の原因
菊治が茶碗や水指しや千羽鶴の風呂敷など、「もの」と太田夫人、文子、ゆき子にダブラせるのは、禅でいう妄想である。ある「もの」を見て、次々に連想を重ねていくのが妄想である。これが菊治を神経症気味にしていて、ついに「愛する」ということと「恐怖」が結び付いて、性的不能という神経症を発症したのである。茶碗を見て、太田夫人に思いを重ねるのは、決して美なのではないと川端は教えている。
太田文子
『千羽鶴』のもう一人の中心人物、太田文子について、その生き方の形成のされかた、はからいゆえの過ち、苦悩、救いなどがしっかり描かれている。しかし、川端が仏教や禅に近いことを思うと、文子も川端の研究家からはよく理解されていないかもしれない。まず、はからいの過失を検討する。
けなげで現実的
ちか子は菊治の父の愛人となった太田夫人の家に強意見に行って、夫人の一人娘文子の前で、ののしり、菊治の父と別れるよう迫った。文子は悲しい思いをした。
「その時の小さい胸をひきさくほどの悲しみは、母の死よりも、あなたとのお別れよりも、つらかったと思います。」(『旅の別離』)
ちか子の出没する環境下にあって、菊治は人を憎み、神経症気味の人間として育ったが、一方、父に早死にされ、母は妻子ある男性に愛人という苛酷な状況に育ったのに、太田文子は、人を憎まず、神経症気味にならず、おだやかな性格に育った。母が自立できないだめな女であったし、父がいなかったので、文子は一家の中心としての立場にならざるをえなかったことから、生活力のあるたくましい女性に育った。
無抵抗が魔性?
「菊治はつつと立つと、呪縛で動けない人を助け起すように、文子の肩をつかんだ。文子の抵抗はなかった。」(『二重星』三)
文子は菊治の家の茶室で菊治に犯された。このことについて、今村氏はこういう。
「菊治が文子に感じる「無抵抗なもの」は母にもあったもので、これが菊治を誘う女の「魔性」であるが」 (D133)
「菊治は文子がちか子の「侮辱」的なものいいに対しても「無抵抗」なのをいぶかるが、「さういふものを越えてしまったのだらうか。」という菊治の感慨は重要である。それは今まで現実的、生活的であった文子の中に母の分身を見たということである。母の死後、文子は生前の母そのままに生き出すのである。」 (D133)
そのように批評家が受け止めるのは、やむを得ない。川端は、次のような菊治の感じ方を書いていて、批評家は落とし穴にはまったのである。
「あるいは母の性格を受けついで、自分にも他人にも抵抗することのない、ふしぎな無垢に似た娘なのだらうか。」(『母の口紅』四)
しかし、無抵抗というのも、菊治の感想であって、川端の客観の目ではない。この時の文子の無抵抗は、強姦された女性の裁判で、なぜ抵抗しなかったのかと女性が責められることがあるというが、恐怖や驚きで「無抵抗」になってしまうともいうことが参考になろう。
母の魔性を継ぐ?
今村氏は、このような無抵抗の文子に「魔性」を見る。
「文子の「魔性」は血の問題として母の「魔性」を受け継いで菊治を捉える。今まではけなげで、堅実で、現実的であった文子は、母の死後、「魔性」を発揮していくのである。」(D133)
批評家は、文子も魔性の女と見る解釈が多いようであるが、私はそう思わない。批評家は登場人物の偏見をそのままその人物評価が正しいと勘違いしている。文子は、神経質で依頼心の強い菊治の犠牲になったのである。容貌が母に似ていたばかりに、菊治に一方的に愛された。しかし文子は菊治に対して男性としての愛情ではなく、兄に近い感情を持っていた。父と母が愛人関係にあったから、菊治を兄に近い存在と見ていたのである。今村氏は、ちか子が太田母子を「魔性」と言っているのを真に受けて色眼鏡で見てしまい誤解したと思う。後に明かされる文子の心情(以下)からそれがわかる。
文子の過ち
現実的で、禅的な生き方をしている文子がなぜ、菊治と過ちをおかしたのだろうか。母の自殺は、愛か罪か、自殺した直後、文子は自分が苦しいので、美化しようとしていたからである。
「でも罪とは思ひませんの。ただ、母のかなしみだったと思ひますの。」
「罪でしたら、消える時がないかもしれませんけれど、かなしみは過ぎ去りますわ。」
しかし、菊治と思いがけない関係となって、旅に出た中でその誤りに気がついた。
文子は母が死んだ時、自分の苦痛のために、はからいの行動をしたことに、後に気がついた。母のためではなく、自分のためである。我執、我愛が潜む。そのために、目が見えなくなって過ちを犯す。
「母は自分で醜いと思って死にましたから、私は母を美しいと思おうとして、その夢に自分を失っていたのでしょうか。」(『旅の別離』二)
「しかし、その母の死を美しくしようとする私が、どのようなところまでつれてゆかれたか、あなたが一番よく知っていて下さると思います。つれてゆかれたのではなく、自分で行ったのにしましても、これがもののまぐれであったかどうかは、私にはまだ判(わか)りません。」(『旅の別離』三)
ここに母の死は美しいものではなかったと文子が言っている。だから川端は、菊治や批評家が思うようには、菊治と夫人を美化していない。文子には、菊治を兄として、兄を求める心があり、それが心のスキとなった。
「一人子の私は山中の一軒家に一人泊っていて、ありもしない兄を呼んでみたいような気持ちにおそわれます。」(『旅の別離』 四)
「母がなくなりました時でさえ、私はきょうだいがあったらよいのにと思うことはなくて、すぐあなたに電話をかけました。」(『旅の別離』 四)
文子は、旅に出て、あの時の美化は誤ったはからいであったことに気がついた。自分の苦悩をやわらげるために母を美しくしようというはからい(小細工)をおこして、菊治の家に行った。先入観、はからいなどで判断が鈍り、状況の正しい判断を誤った。菊治が自分を妹としてではなく異性としてみる危険性に思いおよばなかった。そして、あまりに思いがけない菊治の行為に無抵抗になってしまった、というのが真相であろう。
文子の救い
文子が旅に出て冷静に自分の心を見れるようになったのは、文子が美しい自然と一つになるという「悟り」があったためであることを川端は描いている。しかし、文子を魔性と見る批評家は、色眼鏡で目が曇ってこれを見落としている。
文子の救い-回心、悟り
文子は傷ついて、自殺者の心になって、旅に出た。父の故郷、九州大分の竹田に行くが、その前に阿蘇周辺の高原を一人、旅して、心が洗われ、ついに、飯田高原で回心が起こる。悟りと言っていい。
「ほんとうに美しい夢の国がここに浮かんだような高原でした。」
「静かに内へ抱きつつまれたという思いをさせます。」
「飯田高原で見る久重の山々も、その高さにしては思いがけないほど、親しい調和を感じさせます。」
「そうして私は大きい自然の天堂にいるようです。−−ああ、来てよかった。と私は声に出して言いました。私は涙を流して、すすきの穂波がなお銀の光りにぼやけましたけれど、悲しみをよごす涙ではなく、悲しみを洗う涙でした。」(『旅の別離』四)
前から我を立てない
誰でも、高原を旅すれば、傷心がいえるものではない。文子は苛酷な境遇の中で、自然にそうしなければ生きていけなかったため、無我の生き方をしていた。たとえば、文子の次のような態度は菊治には不可解であるが、禅者と同じ生き方だと思う。こういうふうに川端の小説には、計算された伏線がいくつもあるので、それをみつける楽しさが川端の小説の魅力である。
「文子はちか子に抵抗すまいとしているのか、ちか子を無視しようとしているのか、菊治にはわからなかった。文子がいやな顔もしないで、ちか子と茶室にはいって坐っているのも、妙なことだった。ちか子が菊治の縁談のことを言うのにも、文子はこだわりを見せない。前から文子親子を憎悪しているちか子は、言うことがいちいち文子を侮辱してかかっているのだが、文子は反感をあらわさない。」(『母の口紅』四)
小さな我に別れ
そのような文子だったので、この高原の自然に接してついに回心がおこった。自然に包まれて自然とひとつの自分になった。新しい自分にめざめて、喜びの涙に心が洗われている。これまでの苦悩がすっかり洗われた。もう以前の文子ではない。菊治が自分を正しく知って愛しているのではなく、文子も菊治を愛していないことがはっきりわかった。
「ゆき子さんと結婚なさいませ。
私はそう言って、私のうちのあなたとお別れしました。あなたを忘れるはずもありませんけれど、この後どのように醜く濁った心で思い出すことがあったとしても、私はこの高原であなたを思った時に、お別れ出来たのだと考えます。母と私とはあなたから、今日まったく消えました。最後にもう一度お詫びを言います。 −−母をゆるしてやってください。」(『旅の別離』四)
文子は今まで自分で縛っていた菊治に別れることができた。「母と私とはあなたから、今日まったく消えました。」という奇妙な感じは注目される。(A)「私からあなたが消えた」ではなく、(B)「私はあなたから消えた」である。 (A)は、「有我」であるが、(B)は「無我」である。文子は「無我」を悟ったのである。わかりにくいでしょうか? 公案として追求されるものでしょう。禅の素養のある人なら理解できるものでしょう。
自他一如
「私のうちのあなたとお別れしました。」も、我がなければすべてが自己、つまり「自他一如」という禅の救いの感覚である。これまで、あなたと私は別ものだったが、今から、あなたは私のうち、になったのである。文子は、「あなた」を忘れないで、そして別れられたのである。思い出しても苦悩でないのである。払う必要がない、思い 出すきっかけになる「もの」例えば、茶碗があっても、かまわなくなったのである。これが根本的救いである。このように川端の言っているのは、森田療法という精神医学や禅と似ている。川端は、文子の悟りを語っている。
ところが、菊治は、忘れようとして、思い出すきっかけになるものを遠くへ追い払おうというはからいをやっている。これでは救われない。これは、現代では、神経症の森田療法では、指摘されていることである。不眠症は、眠らなければだめだとか、眠りをさたたげるものを一切のけようとするのは誤った観念である。
「高原の松かげやすすきの穂波のなかで、私があなたを思いつづけました時、あなたにお別れ出来たのだと思います。今ごろお別れなどと言うのさえ未練がましいほど、私はあなたから消え去ったはずにしても、女にはそうもまいりませんでした。おゆるし下さいませ。おやすみなさいませ。」(『旅の別離』六)
菊治はちか子から逃れようとして、ちか子の記憶を消そうと努めて失敗しもがいて救われない。しかし文子は、菊治の記憶を払おうとせず、それがあっても苦悩を伴わないようになって(超えたのである)救われた。あるがままを受け入れて振り回されない癒しの方法である。禅による救いや森田療法による神経症の治癒が同様な仕組みを持つ。川端は、このような救いを小説に書いた。
「私は母を生かせることが出来ませんでした。でも、私を生かせてくれたなのかを思い、あなたのおしあわせを祈る心が強まりました。人間の汚辱や罪業の岩のあいだにも、この子の落ちたような救いの場所はあるのだろうと思います。」(『旅の別離』五)
自分が「無我」であること、自分の小ささを自覚すると、自分と一つであって自分を生かす大きなものを感じる。自分を生かされるものの存在を思い、他人の幸福を祈る心が強まった。特定の宗教を信じたのではないのに、自分を超えるものの存在と祈りがめばえている。
「私は父の町から新しい出発をいたします。」(『旅の別離』五)
川端は、人間の弱さと苦悩と救いと強さを見事に描ききっている。川端が、「美しい日本の私」で、禅だけを語ったのも、私が川端の作品は禅であるという理由である。しかし、そのような川端が十分理解されていないかもしれません。悲しいことです。
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