もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と文学

岡本かの子

仏教を秘めた文学

 岡本かの子は、「仏教の形を一つもその中に見せずして、しかも仏教の理解と一致する芸術」が必要だと言った。
 宗派を越えて普遍性を持った宗教文学者は、夏目漱石、川端康成、岡本かの子、宮沢賢治、遠藤周作などであろう。
 岡本かの子の文学は、仏教精神を秘めている。法華経も、仏教らしくないたとえ話が多いが、その部分が仏教文学と似ている。かの子の、そういう文学観をみておきます。岡本文学をはじめ、夏目漱石、川端康成、宮沢賢治を読む時、どこが、仏教なのかをさぐりながら読むのは楽しいものです。



仏教文学は難しい

 かの子の小説は、現代人にも全く妥当する人間の真実を描いている。人が苦悩に陥って心の病気になる姿、そこから回復するには、現実から逃げず嫌わず、一歩一歩地についた行動以外にない。私は、禅や仏教の精神をよく描いた小説をしばしば読む。どこが仏教なのかを探りあてるのが面白いのである。かの子の小説も多くの人に読んでもらいたいと思う。
 しかし、そういう文学は難しい。岡本は、仏教文学は難しいという。仏教の第一義を会得するまでに時間がかかり、それを文学にする才能が要求される。そんな人は少ない。偏見ある仏教理解にもとづいて文学を書けば、偏見ある文学になる道理である。
 「第一に、真に仏教文学というものは本質においては仏教の第一義を捉え、その説相においては現代の人間性を潜らなければならない。この条件にかなう筆者は仲々得難い。」(2)

 「何故と言えば、仏教の煩雑多量の教綱宗乗を取捨選択し、しかもその中より自己の個性に適する指針を得るまでには、相当の時間と労力とが要るのである。」(3)

 「次に素質の問題である。近頃わが文壇に流行の文明批評家シェストフが縷々(るる)引用するところの第一の眼と第二の眼の問題である。
 第一の眼は科学的常識の眼である。
 第二の眼は絶対に向って開かれた眼である。」(4)

 「かように書いてみて、実に第二の眼を持って生まれたものは寥々(りょうりょう)として稀(ま)れである。しかしこの眼を持たずして何で宗教文学者ぞやである。」(5)
 宗派を越えて普遍性を持った宗教文学者は、夏目漱石、川端康成、岡本かの子、宮沢賢治、遠藤周作などであろう。

仏教と文学

 かの子の文学観は、それが仏教の匂いがしないでいて、しかも仏教と同じものを伝える文学。仏教の形式があからさまに見えるのでは、読者は限られてしまう。仏教は人間の真実であるから、仏教と言わずして、仏教精神が含まれているもの。禅もそれが似ている。仏教臭くなくて、人間の真実の姿を知る。作家が、そのつもりで書いた小説ならば、どこが仏教を秘めた部分かを探りあてないと、その文学者を理解できたことにはならないのだろう。
 「要するに将来は仏教を形の上に持ち越した芸術の復興も必要であろう。しかし仏教の形を一つもその中に見せずして、しかも仏教の理解と一致する芸術はなお必要であろう。なぜならば、前者はその形に制限されてたとえそれが時代に応ずる新様式に翻革されてもなお一般への流注を欠く。これに引代え後者においては仏教の精神そのものの現実への絶対自由な適応性の点上に立つが故にその働きも無限である。しかも精神の黙契においてやはりこれを仏教芸術といい得る。われわれは仏教を狭く考えたくない。」(6)
 たとえば、絵画でいえば、釋迦涅槃図は、前者である。東山魁夷の絵は、後者である。東山画伯の絵は、仏教のよそおいが見えないが、仏教で探求する心を表現している。文学において、それを試みたのが、漱石、川端、賢治、岡本であると思う。だから、面白いし、長く読まれ続けられるわけは、岡本が言うとおりであろう。人間の根底は、自性清浄であるがゆえに、自性清浄を求めるのだろう。それは、年齢を超え、民族を超え、時代を超え、宗教を超え、思想を超えた人間の事実だから、仏教信者ばかりでなく、多くの人に読まれるのである。これらの文学は、時代に制限されないで、読まれ続けるであろう。
 人間を探求する、すばらしい文学、芸術を生む日本、「美しい日本の私」(川端康成)。「私」は、川端ではないのだろう。「私」つまり「自分とは何か」を種々の方面から探求した日本芸術の美しさではないのだろうか。もう一度、川端の「美しい日本の私」をご覧になって下さい。

(注)
   
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