もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と文学

岡本かの子

我(が)は苦悩のもと

 かの子は、神経衰弱で精神病院に入院した後、救いを仏教に求める中で、坐禅を始めた。原田祖岳老師(曹洞宗)に参禅し、その後も時々、坐禅している。禅や仏教は、自分のエゴイズムを見つめ、我執を捨てて、絶対の力に任せきることである、と岡本かの子は言う。



初めての坐禅

 かの子の坐禅の体験が語られる。

 「専門道場の雨安居は四月ないし五月の半から始まって九十日間の結制である。わたくし達は在俗の女のことでもあり、六月中のある五日間だけ如法の生活をする事にした。主人はわたくしを寺へ送り届けてくれた。(中略)
 朝は早かった。鐘の音で起きてすぐに電灯の下で坐禅をする。その間に老師が一座の教訓をされるのだが、その錆びた声音を私は坐睡の夢のなかに陥れるような事がままあった。俊乗さんという十二の小僧さんが、警策で肩を打って醒ましてくれた。夕方にあんると一抹の哀愁と共に、家の茶の間のピアノの照りが想われた。
 鮮かな野菜ばかりの食事、生醤油を薄めたものだけで食べるうどんの味。単純な味はむしろ贅沢なものだと思った。食べ終ると木片に白布を巻いたものを順々に手渡して行って食卓を拭くのである。入室は恐ろしかった。老師は決して手荒な扱いはされない。如意を膝に立てその上へすえた手に顎を置いて、丁寧な洗練された言葉できかれるのであったが、私の心は理路から直観の袋小路へぎりぎりと追い詰められて行った。わたしは自分の指で自分の魂の裸身へ触って見る驚異に、思わず心内に声を立てるようなことがあった。
 雨がよく降った。山の緑が溶けて滴った。」(KA116)

時々坐禅する

 フランスにいる太郎からは、坐禅しなさいと言ってきて、太郎への手紙に、かの子は坐禅すると約束している。

 「しかり私から過剰な熱情を駆逐してくれたやうなものでせう、この病気は。けさはレイスヰマサツをしました。坐禅もずっと前より確かに行います。」(R331)
 「わたくしは黙って坐る。部屋が水色の衣を装い始める夜のあけがた、大地に健康な足音のする昼まえ、厨が紅茶の匂いでくつろぎ渡る午後の三時半、たそがれ、真夜中−−わたくしは時を定めず黙って坐る。それは坐禅と云い切るものではない。また静座と称えるところのものでもない。わたくしは一人でただ黙って坐る。
 その時、わたくしの命が、本当の生活をするのである。沈黙の絶対の広い野原に、わたくしの命が、たくましき胸を張って、如何に自由に馳せめぐる事よ!
 人は、語って語り得ぬ悩みを残す事がある。愛して愛の歪みを作ることがある。わたくしが一人で、黙って坐る時、内部のすべてが充たされ、すべてが正しく行われる。沈黙の不思議のうちにーー」(KA29)

たやすからず

 しかし、真実に心から目覚めるのは容易なことではない、と言う。「自分」こそ正しい、自分こそ可愛い、自分という実体が存在するという強固な自我は容易なことではとれない。

 「お互いに勇気を振い起こしましょう。われ等の小さな自我はいつも型の小さいお手軽な自己満足の巣を作り易くあります。ともすれば冠(かむ)りがちなその頑(かたくな)な貝殻を払い捨て、無限の高さ広さの生命の成長を遂げさせて行くには、超人間の意志と勇気が要ります。女々しくては適いません。肉体の出産にさえ苦痛は伴います。いわんや精神的出産には刻々の悲壮な陣痛ありと覚悟しなければなりません。」(K297)

我(が)は苦悩の根源

 大部分の人は「自分」「魂」があると思っているが、自分という実体は「塵の毛ほども」無いのが真相である。それなのに、自分を馬鹿にした、自分を傷つけた、といって人を恨み、自分から悪感情に悩み、自分から行動をせまくしていくことがある。家庭内暴力、親子の対立、嫁と姑の対立で、悲しい結果になるのも、この「我」(が)エゴのためである。これに気がついて、誤った我への執着で命をすりへらさず、エネルギーを別な面に向け、短い生涯を有効にすごしたいものである。

 「一つの魂があり肉体は滅びてもその魂は永続するというのは他の宗教の生命観であるがこれは物質と生命をこえるものとした観方であって、今日の神学には嘲笑される理論であります。」(K283)

 これは道元禅師も『弁道話』で言っている。死んだ人の霊がたたっている、水子の霊が地獄たたる、親が地獄におちている、などという宗教の教えは真っ赤なうそである。
 我執、偏見などは、自分では苦悩せずとも、他の人を苦しめる。学者であっても、我執、偏見の強い人は、誤った学説を強く主張することによって、人を救済から妨害することにより、社会に害悪をなすのである。我執ある学説に迎合して、それを根拠にして、誠実な実践者をいじめ、排斥するというエゴイズムに染まる信者、学生、小説家、評論家などを再生産していく。仏教において指導的立場にある学者、僧侶の我執は特に社会への害悪への影響が大きい。

 「人は我執を捨てる事を躊躇(ちゅうちょ)し、嫌う。いかにも自分が世間に破れたように考え、世間から軽んじられるかのように危惧する。しかし、それは「井中の蛙、大海の広深さを知らず」である。脱衣を嫌ってついに浴場の快適さを知らざるの愚である。」(K457)

 他人が自分を傷つけたと言っても、実は傷つかないのが本当の自分である。傷ついたと思っているのは本当の自分ではない。本当の自己をみつめて、いかなる思想や宗教にも振り回されないで、二度とない貴重な生命を自分で活かしていきたい。「無我」を悟れば、自分の死や、自分の名誉や、自分が傷ついた、などは問題にならない。

エゴイズム

 エゴイズムが自分と他人を苦しめる。

 「人間が真実に当面しながら、その真実を率直に受け容れられないのは、このエゴイズムのエゴがあるためであります。エゴというものは、何等か自分の中に誤った価値を認めてそれを保守する無駄な精神的のしこりです。われわれが偏頭痛でもあるときは感じが偏頗(へんぱ)になり愛情のようなものも健康に正しく流れません。それと同じように、精神上にエゴという滞りがあると、宇宙から自分に通っている生々とした生命の流れを防ぎ止めて生命からの栄養を欠く恐れがあります。」(K330)

 宗教は苦悩する人を救うが、低俗な宗教家についた信者は、その宗教教団のエゴにとらわれる。「自分の」信じる宗教は正しい、と自分の知性による理解、信仰に強く執着する。これがまたエゴ(我執)であることに気がつかない。宗教の信者は、幹部や教祖の顔色を見て行動する、教団内の地位、名誉を気にする。信者は幹部の言うことに振り回され、自分を失う。確かに喜びもあるのだが、それが「小さな草」であることに気がつかない。「樹木」ののびのびとした自由な世界を知らぬ、井の中の蛙になっている。小さくなるな、めざめよ。これが、法華経の教えであり、禅である。
 人は、本来、仏であり、神の子であるのに、信者は教団の奉仕者になりさがっていることが多い。仏性はすべての人に、いつでも働いている。それを自覚して、精神の自由を得る。「自由」とは、「自らによる」という、自己の本性以外にどんな権威も認めない、解放された人になるのが本来の仏教である。誰でもその資格と力を持つ。
   
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