かの子は、夫一平の放蕩や肉親の死亡、実家の破産などあいつぐ苦悩に、精神を病み、神経衰弱となり、精神病院に入院した。自殺も考えたというほどの大きな苦しみだったそれから立ち直ったのは、仏教のおかげであった。そのため、仏教を偉大だと賛嘆し、仏教の本を書いたり、講演したりして仏教の啓蒙に努めた。
かの子は、宗教によって救われると言っている。
「最近、唯物論者は、宗教を否定し、非科学的なものであるといっていますが、私は宗教は精神的の科学であり、経済だと信じています。
宗教は生命の中心を保って行く偉大な力をもっているからです。宗教の偉力によって精神が統一されれば、余計な苦しみもなく、感情の浪費もなく、苦悩の内攻することもなくなって、生命を最も意義あるように使用出来るからです。
そればかりか、肉体も信仰によって救われます。
私などは、感受性が強く、そのために胃が弱く、頭など疲れやすくて、困難したものですが、今ではそうした肉体的の苦悩は、少しもなくなりました。」
(K358『親鸞の教えこそ心の糧』)
精神的なストレスが原因となる心因性の病気や身体の不調が、かの子には若い時からあったが、信仰を得てから、なくなったわけである。宗教には、こういう肉体的救いもある。人を憎んで、自分の側に皮膚病や、胃潰瘍ができたりする心身症になり、精神的にも不安定な状態になり、いよいよ相手を憎むということが多いのだが、宗教によって自分の側の一方的な「我」に気がついて、相手への憎しみがいわれのないものであったのを悟り、それによって肉体的な症状が消えるということは宗教の信者には多いのである。この心身双方の悩みの軽減は、坐禅にもみられる。むしろ精神療法にとりいれられているのは坐禅に似ている。
かの子も精神的に救われた。心の病気から開放された。しかし、これはかの子の宗教の力だけではなく、夫一平の異常な寛大さにもよる。一平の信仰がかの子を救ったとも言える。
仏教の目的
かの子は、仏教の目的は、宇宙観、人生観を握り、自分のまことの生命を活かしきること、と言う。
かの子は仏教の宗教的側面、すなわち、現実の苦悩からの解放をよく理解している。小説家がこれを理解するのに、仏教学者がこれを理解しないとは、何と学問とは苦悩する人には、役に立たないものである。「一たい仏教の究極の目的は何だと言うと、前に回を追うてお話ししましたように、完全無欠なる宇宙観、人生観を握って、心に少しの疑いも残さない、また、宇宙や人生の真実の機構に、一分一厘の違いもなく当てはまって生活する能力者になること、これであります。
ちょっと考えて見てもわかるように、こういう状態に立ち到った人間は、どの方面から眺めても矛盾というものが無く、これが本当の満点の幸福というものでしょう。」(KB157)
「本当の仏教精神を一たび了解し、体得したならば、誰人も、自分自身と常に仏教の精神の交流するところを自覚して、自分自身の運命や個性を、適度に適所へ置くことが出来、その時々の喜びも悲しみも憂いも楽しみも、何もかも、すべて明らかな客観と、好い主観をもって、処理して行けるのです。そして、東に向わんとするものはますます東に、西に志すものはより西の方へ、北にも南にも、兎も角もより確実な力と、新鮮な自由の歩みを、この人生の行路において与えられるということを信じます。
つまり永遠に自分のまことの生命を活かし切る法、人間性の全部を一番価値的に使い切る法、これが本当の仏教なのであります。」(K241『本当の仏教とは』)
人はみな、仏になる資格を持っている、また、仏はいつでもどこでも自分に働いているという仏教観をつかんでいる。仏を自己の外に描いてはいけない。自己が仏であり、すべての人が仏であることを自覚した大勢の仏祖がおられる。
「尚、つけ加えて言わねばならんことは、しかも一番大事なことは、私たちいずれもが、法報応の三身を備えた仏陀であることです。覚者であることです。若し、そういっては早過ぎると言うのなら、私たちはこれから成る仏陀であります、覚者であります。その資格は充分与えられているのであります。私たちに対して諸仏諸祖は、先輩であるに過ぎません。そればかりでなく、これ等の諸仏諸祖は、私たちが仏陀覚者に成り終らない限り、休むことが出来ないのであります。働きの手を休めるわけには行かないのであります。」(KD237)
「また、釈尊以来、幾多の聖者によって発見された仏菩薩が、この天地間に働いております。眼に見えないから無いと言うわけのものではありません。途中が眼に見えないから無いと言うなら、ラジオの電波は役に立たないはずです。この仏菩薩は、矢張いずれも修業の力によって仏菩薩になられ、人間を救う為の特殊の請願を持っていて、私たちに四六時中働きかけております。」(K236)
悟り、回心の深浅について、かの子は次のように言う。いかがわしいカルト教団の信者も喜びを得ているが、それが浅く、時には誤っていることに気がつかない。つまらぬ宗教団体の歯車にならぬようにしたい。「「さとり」ということは無限の宇宙生命と、有限の私たち個人の生命と、全く一つのものであることを、はっきり認識したその意識を指すので、禅家の方ことに臨済宗の方で、やかましく言う修業上の心境の段階を指します。さとった人は、この有限で生き死にする私たち個人の精神肉体が、取りも直さず永劫不滅なるものの現れと知って、最早や人生上に煩悶するものも無く安心立命のその日その日を送れるというのであります。そこで、さとったところを「一生参学の大事おわれり」(生涯の修業の大目的が達せられたということ)とか、「桶底打破」(つうていだは:迷いの桶の底を抜くということ)とか言って、一先ず人生の疑問が片付いた形容をいたします。」(KD228)
「一方易行門の方でも『悦ばして頂く』心境には、体験的に幾つもの等級があって、悦ばして頂けぬ人は悦ば して頂いて居る人よりも、実は法悦の理想が高くなって居るために悦ばれぬのであって、その理想に、その人 の心境が到達した時は、前の人よりも、より深き悦びを頂けるのかも知れない。
そしてそのうちにまたもや高い法悦を望むようになれば、更に進んだ『悦べぬ人』となるに違いない。」(KA27)
「実を言うと、この回心の刹那の心象、つまり悟った刹那の体験はその心験を持つ以外の人に理解せしむるようには如何なる方法を以てしても不可能なのである。普通の認識が一度び絶対の認識に照破され、質を改めてまた普通認識を艤装する。言い換えれば人間性が基底の神性を覗いて来て再び人間性に戻る。これだけの作業が精神分析学で言う無意識界以上の潜在心理中に行われるのであるから具体的表現では手のつけようがないのである。それで宗教学上においても、それは普通意識に上らないものとするのと、上るべきものとするのと二つの議論が分れている。然し文学上では是非告白表現しなければならない魅力の中心であるから極力、他の方法に依って表現する。それは回心前と回心後との心境の相違の表現によって、この渡った河瀬の深さを示す。及びもう一つの方法は傍人をして説明をさせる。」(K399)