禅と日本文化
東山魁夷
自然と私
東山画伯は、師の結城素明から、「こころを鏡のようにして自然を見る」よう忠告を受けた。(昭和十一年ころ)(1)
「「よく自然を見ることだね。心を鏡のようにして」と結城先生から言われた。」(2)
(注)
- (1)東山魁夷『泉に聴く』 講談社文芸文庫、348頁
- (2)東山魁夷『旅の環』 新潮社、92頁
自然は私自身の反映
東山魁夷画伯は、自然と自己について、しばしば語っている。自然を深く見ることは、自己自身の心の奥を見ることである。
「自然に対して私は常に敬虔な気持ちを持っているが、自然は私達画家にとっては、心の中に発酵して来て表現されることを希っている無形の何物かが、その姿を借りて形を得、色彩を得る手段である。
自然は又、私自身の反映であって、その中に深く深く自己を投入してゆくことによって、自然の微妙な心、即ち私自身の心の奥を見ることが出来る。」(1)
画伯の絵の風景には、人物が出てこない。しかし、「人間」を描いていないわけではない。
「私の風景の中に人物が出てくることは、まず無いと言ってよい。その理由の一つは、私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を語っているからである。」(2)
禅についても触れる。中国の山水画は、無相の自己の表現ではないかと言われる。
「禅が六世紀頃から盛になったことは、自然現象に対しての思索を深め、人間の奥底にある真の自己である「無相の自己」が表現されているものとしての「山水」という考え方が宋元の名画の深遠な風格となっているのではないだろうか。」(3)
(注)
- (1)東山魁夷『泉に聴く』 講談社文芸文庫、103頁
- (2)東山魁夷『日本の美を求めて』 講談社学術文庫、29頁。
東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、203頁
- (3)東山魁夷『泉に聴く』 講談社文芸文庫、207頁
風景は心の祈り、心の鏡
「風景は心の窓」(1)とも言われる。汚染された風景は、人間の汚染である。心の美しい人は、風景を美しく見る、そういうのであろうか。
「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染され、荒らされた風景が、人間の救いであり得るはずがない。風景は心の鏡である。」(2)
「自然を愛することは、人間を愛することである。自然が荒れてゆくことは、人の心がすさんでゆくことを意味する。」 (3)
(注)
- (1)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、194頁
- (2)東山魁夷『日本の美を求めて』 講談社学術文庫、16頁。
- (3)東山魁夷『旅の環』 新潮社、168頁
自然と自己はひとつ
画伯は、常に風景をみつめた。風景と人間の根は一つであると感じる。
「自然に常に接していると、自然と人間は同根のものであると思わないではいられない。」(1)
「自然も私達も同じ根に繋がっている。」(2)
「私は自分の芸術を生んでくれた故郷として、日本のいたるところにある自然の山野や林や海を、もっとも親しいものに感じているのです。」(3)
「自然と私自身とが一つになったことを感じた」(4)
(注)
- (1)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、162,178頁
- (2)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、202頁
- (3)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、71頁
- (4)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、232頁
風景は人間の心の祈り
自然は自己である。自然に相対する時、安息が感じられる。美しい風景と美しい心でないと安息は感じないだろう。
「自然に相対する時に、私には最も安息が感じられる」(1)
「私の心が澄めば、私の絵も澄み、私の心が深くなれば、私の作品も深くなると思うのである。
芸術の世界には究極の到達点というものもなく、したがって年齢もない。将来楽が出来る時も来そうにもない。どこまでも、この道をこつこつと弛まず歩いて行かなければならない。」(2)
「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。」(3)
「象徴としての風景の中に、心の平安を祈る気持ちが通じ合う」(4)
「私は障壁画を描いているうちに、私にとって描くということは、祈ることだと気づいた。・・・恐らく、戦後の歩みの最初の作品とも言える『残照』以来、私の心の底を流れているものは、終始、変らないのではないかと思う。」(5)
こうして東山さんの言葉を追ってくると、自己は自然と一つである、その自己は自然を見て平安を得る、そのような自然を描くことが祈りである。自己、自然、祈り(宗教)が渾然とひとつになっている。そして、東山さんの、生活が。他人が流行を追いかけても振り回されず、根源的な心の象徴として、自然を描き続け、生活も誠実で、自分をほこることなく、大きな力に生かされている、と言われる。
このような芸術家を何十年にもわたって、尊重してきた日本人も捨てたものではないわけです。しかし、ごく一部の人が理解するだけで、巨大な黒いかたまりが、自然と人間の心の荒廃へ導いているのではないでしょうか。画伯は、禅の人ではないのに、禅の人と同じようなことを言っておられることに注目を払うべきです。仏教が因果のみという学問からは、自然が自己ということは出てきません。芸術家と禅者が同じようなところに到達している。人間の事実だからでしょう。
(注)
- (1)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、232頁
- (2)東山魁夷『旅の環』 新潮社、115頁
- (3)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、194頁
- (4)東山魁夷『美の訪れ』 新潮社、233頁
- (5)『米寿記念 東山魁夷展』 日本経済新聞社、151頁
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