禅と日本文化

東山魁夷

自然と私

 東山画伯は、師の結城素明から、「こころを鏡のようにして自然を見る」よう忠告を受けた。(昭和十一年ころ)(1)

 「「よく自然を見ることだね。心を鏡のようにして」と結城先生から言われた。」(2)

自然は私自身の反映

 東山魁夷画伯は、自然と自己について、しばしば語っている。自然を深く見ることは、自己自身の心の奥を見ることである。  画伯の絵の風景には、人物が出てこない。しかし、「人間」を描いていないわけではない。  禅についても触れる。中国の山水画は、無相の自己の表現ではないかと言われる。

風景は心の祈り、心の鏡

 「風景は心の窓」(1)とも言われる。汚染された風景は、人間の汚染である。心の美しい人は、風景を美しく見る、そういうのであろうか。

自然と自己はひとつ

 画伯は、常に風景をみつめた。風景と人間の根は一つであると感じる。

風景は人間の心の祈り

 自然は自己である。自然に相対する時、安息が感じられる。美しい風景と美しい心でないと安息は感じないだろう。  こうして東山さんの言葉を追ってくると、自己は自然と一つである、その自己は自然を見て平安を得る、そのような自然を描くことが祈りである。自己、自然、祈り(宗教)が渾然とひとつになっている。そして、東山さんの、生活が。他人が流行を追いかけても振り回されず、根源的な心の象徴として、自然を描き続け、生活も誠実で、自分をほこることなく、大きな力に生かされている、と言われる。
 このような芸術家を何十年にもわたって、尊重してきた日本人も捨てたものではないわけです。しかし、ごく一部の人が理解するだけで、巨大な黒いかたまりが、自然と人間の心の荒廃へ導いているのではないでしょうか。画伯は、禅の人ではないのに、禅の人と同じようなことを言っておられることに注目を払うべきです。仏教が因果のみという学問からは、自然が自己ということは出てきません。芸術家と禅者が同じようなところに到達している。人間の事実だからでしょう。

 
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