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禅と日本文化
東山魁夷 略年譜
(参考書Aによる)
- 1908(明治41) 横浜市に生まれる。父は船具商を営む。3歳の時、神戸に移住。
第一期 神戸時代
孤独な少年。両親の複雑な愛情問題。
- 1926(昭和元年)[18] 東京美術学校日本画科に入学。
第二期 暗中模索の時代
長野で自然と人の素朴さと超越的なものの存在に触れる。
ドイツ留学により西欧の発見と日本発見。
- 1929(昭和 4)[21] 長兄が結核で死亡。帝展で『山国の秋』が入選。
- 1933(昭和 8)[25] ドイツに留学。
- 1935(昭和10)[27] 帰国。
- 1936(昭和11)[28] 暗中模索の苦しい時期。結城素明に「心を鏡のようにして、自然を見る」よう忠告を受ける。
- 1937(昭和12)[29] 初めての個展を開く。
- 1940(昭和15)[32] 日本画家、川崎小虎の長女すみと結婚。
- 1942(昭和17)[34] 父が心臓喘息のため死去。
- 1945(昭和20)[37] 4月、母、妻と共に岐阜高山に疎開。
結核で療養中の弟を富山県の古里に移す。
7月、召集され、熊本の部隊に配属される。
極限状態の中で自然の美に目覚める。
第三期 風景開眼
主客合一、生かされている生命の自覚。
前半−日本の風景連作(道、晩照、光昏、青響)と北欧風景。
後半−「京洛四季」とドイツ、オーストラリア風景。宮殿の壁画。
- 1945(昭和20)[37]9月、召集解除、母と妻の疎開先、山梨県落合村に行く。11月、母死去。12月、単身千葉の知人宅に仮寓、日展への出品作品を制作。
- 1946(昭和21)[38] 3月、日展落選。弟が死去、すべての肉親を失う。妻すみと市川で間借り生活を始める。
鹿野山での「主客合一の体験」
- 1947(昭和22)[39] 『残照』が日展の特選。
- 1950(昭和25)[42] 日展に『道』を出品、画壇で認められるようになる。
- 1953(昭和28)[45] 市川市に家を建てる。
- 1960(昭和35)[52] 東宮御所大広間壁画『日月四季図』
- 1962(昭和37)[54] 夫妻で北欧を旅行。
- 1968(昭和43)[60] 新宮殿の壁画『朝明の潮』完成
- 1969(昭和44)[61] 夫妻でドイツ、オーストリアへ写生旅行。文化勲章を受ける。
- 1972(昭和47)[64] 鑑真和上を荘厳するための唐招提寺の障壁画の制作にとりかかる。
白馬の連作。
第四期 唐招提寺障壁画の制作
- 1975(昭和50)[67] 唐招提寺『山雲濤声』を完成。ドイツへ旅行。
- 1976(昭和51)[68] 中国を旅行、水墨画を試みる。
- 1980(昭和55)[72] 唐招提寺『黄山暁雲』『揚州薫風』『桂林月宵』完成。
- 1982(昭和57)[74] 東山魁夷展のためドイツに旅行。1983も。
第五期 東山の世界の深化
数々の清澄な作品(凍池、白い朝、渓音、冬の旅)
- 1990(平成 2)[82] ゆかりの信州に作品を寄贈、長野市、信濃美術館内に「東山魁夷館」が開館。
- 1995(平成 7)[87] 長野県山口村に「東山魁夷心の旅路館」が開館。
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