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禅と日本文化

東山魁夷

無我の人格と芸術

世間の流行には振り回されず私とは何かを追求

 「その時々の傾向とか流行、新形式にすぐ敏感な反応を示すとうことがない。時は流れて行く、その中で、いつも新鮮なものは何か、という問題の方が、私にはより興味があり、切実である。日本画家である私が、私自身とは何か、をたどり考えてゆくことは、結局、日本の美は何かの問題に到達する。」(A331)

 主体の確立である。何が人間の真実かわかっていれば、それから離れたものなど、目もくれる必要はない。「私自身とは何か」「自己とは何か」、これがすべての芸術と宗教の根本課題であろう。そこから外れたものも多いが、そんなものは顧みる価値もない。

無我の人格と芸術

  無我になった時、生命の輝きを見た東山さんの芸術は当然、無我、無心のなせる芸術となった。自分が描くのではない、何か自己の根底にあって、自己を超えたものが、働くのである。
 「私を真実に感動させるものは技術の巧みではなくて直観的な生命力の把握である。」(A227)
 「日本の美術は何処へ行くのだろうか? それに直接携わっている私達はせめて技術の陥り易い無気力と繁雑な意識の過剰に押しつぶされないで、新鮮な生命力を持ちたいものだと自分自身に云い聞かせたが、現在の自分の仕事を反省すると重苦しい気持ちになる。」(A228)

 「重苦しい気持ちになる」とは、謙虚さである。このように東山さんは、自分を誇らない。お会いしたことはないが、誠実なご人格であることは、文章のすみずみから感じられる。実るほど頭を下げる稲穂かな、とはこの方のことであろう。

人間を超えたもの

 「画家であると云うことは、人間以外のものであることを必要とする峻烈なものです。」(A260)

無心、無我

 「自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。自己を無にすることは困難であり。不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」(A14)
 「絵などというものは考えても描けるものではありませんし、ただもう無心で描くということに尽きるのです」(B84)
 「自然の姿の中にあらわれているものが、私の心の呼吸と一つになると感じた時にスケッチして歩いた。それを基にして制作し展覧会に出すという考えから離れて、自由であり、無心ともいえる精神状態のときに限った。」(D103)

 無心に描く。この、ひとつの道を歩く。

自己を無にする時、自己を超えたものの声を聴く

 「人は意志するところに行為がある、といわれます。これはいうまでもないことのようですが、しかし、はたしてそうでしょうか。意志するということは、自己という主体から発するものか、あるいは自己の外に発するものが自己に伝わって、自己の意志するように導いてくれるものか。
 自己を無にするばあいに、はじめて自分の外から発する真実の声が聞こえるのではないか。その真実の声に合致した行動がとれるのではないか。」(B59)

寸言

主体の確立

 自我を立てて、他者と対立したり、自我をおしつけて他者の意見に聞く耳を持たない者は、大いなるものからの力の恵みを拒否している。人は自我を空しくしてこそ、自己を超えたものからの恵みを受けて、真に主体的な働きを実現させる。一見、逆説的な論理であるから、なかなか理解されないが、これが人間の真理である。東山さんはこういう。

自我を捨てることが自己の確立

 「自己の確立ということは、むしろ、自我を捨てるところにあると、昔からいわれている。それは容易なことではない。しかし、そこから、万物へのこまやかな心の通い合いが生まれる、人生一般の場合でも、大切なことではないだろうか。」(C112)

 「ただ、自己を完全に燃焼させて、燃え尽きることによって、人は、なお長い生命を保ち得るのではないだろうか。」(C137)

小さくとも主体性をもって

 「自分の世界を大切にすることだと私は思った。そうすれば、画家としての私は、いかに微小な世界のあるじであっても、存在の価値を持つと感じた。」(A199)
 「自己の主体をはっきり持っている者でなければ、その選択も、摂取も、消化不良を起こすだけの結果になろう。」(A199)

生かされている

 「私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。」(A84)

 「私はずっと以前から、自分は生きているのではなくて、生かされていると感じる。また、人生の歩みも歩んでいるのではなくて、歩まされていると感じる。そういう考えのもとに今日まで、自分の道をたどってきたような気がするのです。
 私は宗教心の薄いものでありますから、私がなにによって生かされ、なにによって歩かされているかは、わからないのであります。しかしそう感じることによって、地上に存在するすべてのものと自己とが同じ宿命につながる、同じ根をもつ、同根の存在であると感じたのです。」(B59、同じ趣旨D153)

 宗教心が薄いといわれるが、東山さんは、無意識に宗教者よりも宗教者らしい方である。私は僧侶だ、宗教学者だという「宗教者」に何と、はからいや、無理や、みせつけや、傲慢や偽物が多いのだろうか。無意識に行われて、しかも「道」から離れていないものこそ、真の宗教である。
 宗教とは、人間の真理の道である。東山さんが謙遜されるが、その道を探求され、離れていないのは間違いない。万物同根という仏教的考えと同じことを感じておられる。

寸言


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